堀辰雄『風立ちぬ・美しい村』 | 文学どうでしょう

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風立ちぬ・美しい村 (岩波文庫 緑 89-1)/岩波書店

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堀辰雄『風立ちぬ・美しい村』(岩波文庫)を読みました。

いよいよ今日から、宮崎駿監督の最新作『風立ちぬ』が公開になりましたね。ぼくは少し前に試写で観たのですが、関東大震災や太平洋戦争など激動の時代が描かれた、色々と考えさせられる作品でした。

描かれている時代が時代なだけに、子供向けというよりは、大人向けの感じはありますが、今までにない宮崎駿監督の魅力が詰まった映画になっているので、機会があれば、ぜひ観に行ってみてください。

ジブリ映画『風立ちぬ』には、「堀越二郎と堀辰雄に敬意を込めて」という言葉が添えられています。

堀越二郎(ほりこしじろう)というのは、実在した航空機設計者。東京帝国大学工学部航空学科を卒業後に三菱内燃機名古屋航空機製作所に入社し、軍用機の設計を担当しました。

太平洋戦争における日本海軍の主力戦闘機である零式艦上戦闘機(通称「零戦」)を設計したことで有名な人物で、ジブリ映画『風立ちぬ』は、基本的にはこの堀越二郎の伝記映画のような形です。

ただ、主人公の恋愛にまつわるエピソードには、かなりの虚構が加えられていて、そのエピソードのモチーフになったのが、今回紹介する堀辰雄の小説「風立ちぬ」なんですね。

堀辰雄(ほりたつお)は、室生犀星や芥川龍之介と親しく交際した、言わば弟子のような作家で、フランス文学から影響を受けた、そのやわらかく詩的な文章は、今なお多くの人から愛され続けています。

掘辰雄自身、体が弱かったこともあり、避暑地である軽井沢や、サナトリウムから見た風景の美しさを描いた作品を多く残しています。

サナトリウムというのは、結核の療養所のこと。当時は抗生物質のストレプマイシンがまだ作られていない時代ですから、結核菌の繁殖しにくい環境での療養しか、他に治療法がなかったんですね。

堀辰雄からは少し逸れますが、サナトリウムでの生活を描いた世界文学の金字塔が、ドイツの作家トーマス・マンの『魔の山』(上下)。

魔の山 (上巻) (新潮文庫)/新潮社

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実はこの『魔の山』もまた、ジブリ映画『風立ちぬ』にとても印象的な形で登場しています。主人公の堀越二郎が、軽井沢と思しき場所で、あるドイツ人とこの作品について話をするんですね。

そのドイツ人の名前がカストルプ。『魔の山』の主人公ハンス・カストルプと同じなのが興味深かったです。カストルプと堀越二郎は、”忘却”について語り合うので、ぜひ注目してみて下さい。

では、堀辰雄に話を戻しまして。小説「風立ちぬ」で有名なのは主人公が何度もそっと口ずさむ、「風立ちぬ、いざ生きめやも」(78ページ)というフレーズですよね。とても印象に残ります。

これは元々はフランスの詩人、ポール・ヴァレリーの詩の一部で、原文は"Le vent se lève, il faut tenter de vivre."です。

"Le vent se lève"は、「風立ちぬ」(風が立った、風が起きた)でいいのですが、"il faut tenter de vivre"の訳が「いざ生きめやも」でいいのかどうかというのは、結構議論を呼んでいます。

少しずつ意味を取ると、"il faut"は、「~しなければならない」、"tenter"は「試みる」、"de vivre"は「生きる」なので、直訳するなら、「生きようと試みなければならない」ですね。

つまり、生きることに肯定的な態度のフレーズなのですが、「生きめやも」の「やも」をそれが使われていた時代の通り反語として訳すなら、「生きようか、いや生きられない」になってしまうのです。

そこから、これは誤訳なんじゃないかとか、いや堀辰雄には深い意図(たとえば、あえて否定的な意味合いを付け加えたのではないかなど)があったんだとか、色々揉めている状態なんです。

これは難しい問題ですが、諦めの境地を表すなら、その直前にある「いざ」は何だかそぐわない感じがするので、堀辰雄は原詩の意味合いを変えようという気はなかっただろうとぼくは思います。

「生きようと試みなければならない」というのは、「生きよう!」という積極的な気持ちとはやはり少し違いますよね。気持ちとは別に、動いていかなければならないのだというニュアンスがあります。

用法として間違っているかどうかはともかく、積極的な生への気持ちがあるのではなく、生と死の狭間で気持ちが揺れ動く感じが「やも」に投影されていることは、何となく分かるのではないでしょうか。

なので、ぼくはやはり「風立ちぬ、いざ生きめやも」からは、弱々しくはあるものの、確かな生への意志を感じるんですね。そしてそれは読む人すべての心をそっと支えてくれる言葉のように思います。

作品のあらすじ


『風立ちぬ・美しい村』には、「美しい村」「風立ちぬ」の2編が収録されています。

「美しい村」

初夏。〈私〉は軽井沢と思しき「K…村」でラファイエット夫人の『クレ―ヴの奥方』など、フランス文学を読みながら過ごしていますが、知り合いが誰もやって来ないので、寂しく感じています。

西洋人の別荘が多く立ち並ぶ「K…村」を、色んなことを考えながら散歩する〈私〉。2人だけで住んでいる西洋人の老嬢に自分の寂しさを重ね、西洋人が「巨人の椅子」と名付けた丘の上の石を通ります。

〈私〉が常に考えているのは、自分の書こうとしている小説のこと。牧歌的な物語を書こうと思っているのですが、田舎暮らしをしていながら、小説に書けるような体験もなく、なかなか筆が進みません。

ある日の雨上がりの午後。水車の道のほとり、チェコスロヴァキア公使館の別荘の近くを通った時、誰かがピアノを練習しているらしい、バッハのト短調の遁走曲(フーガ)が聞こえました。

あの一つの旋律が繰り返され繰り返されているうちに曲が少しずつ展開して行く、それがまた更に稽古をしているために三、四回ずつひとところを繰り返されているので、一層それがたゆたいがちになっている。……それを聴いているうちに、私はまるで魔にでも憑かれたような薄気味のわるい笑いを浮べ出していた。そのピアノの音のたゆたきがちな効果が、この頃の私の小説を考え悩んでいる、そのうちにそれがどうやら少しずつ発展して来ているような気もする、そう言った私のもどかしい気持ちさながらであったからだ。(36ページ)


本格的な夏がやって来ると、「K…村」に「黄いろい麦藁帽子をかぶった、背の高い、痩せぎすな」(47ページ)少女がやって来ました。〈私〉は一輪のヒマワリを見るような、眩しさを感じます。

絵を描くらしい少女は、毎朝同じ時刻に絵の具箱をぶらさげて水車の道を登って行きます。やがて〈私〉は、自分が書こうとしている小説のために作った、その村の地図を少女に貸してやって・・・。

「風立ちぬ」

秋が近付いて来たある日。絵を描くのを少し休憩している〈お前〉と〈私〉が木陰で寝そべって、果物をかじっていた時のこと。

砂のような雲が空をさらさらと流れていた。そのとき不意に、何処からともなく風が立った。(中略)それと殆ど同時に、草むらの中に何かがばったりと倒れる物音を私たちは耳にした。それは私たちがそこに置きっぱなしにしてあった絵が、画架と共に、倒れた音らしかった。すぐ立ち上って行こうとするお前を、私は、いまの一瞬の何物をも失うまいとするかのように無理に引き留めて、私のそばから離さないでいた。お前は私のするがままにさせていた。

  風立ちぬ、いざ生きめやも。

 ふと口を衝いて出てきたそんな詩句を、私は私に靠れているお前の肩に手をかけながら、口の裡で繰り返していた。それからやっとお前は私を振りほどいて立ち上って行った。まだよく乾いてはいなかったカンヴァスは、その間に、一めんに草の葉をこびつかせてしまっていた。(77~78ページ)


やがて〈お前〉は迎えに来た父に連れられてこの村のホテルから去り、〈私〉は徐々に秋に変わりつつある景色を眺めながら、夏の日に〈お前〉と歩いた場所が変ってしまったのを寂しく思います。

春になると、〈私〉は〈お前〉こと節子と婚約している間柄になっていました。しかし、節子は病気がちで体調が思わしくないため、療養のために八ヶ岳山麓にあるサナトリウムに入ることになります。

〈私〉は節子と一緒にサナトリウムに行きますが、節子を診察した院長からは、どうも病状がよくないことを告げられてしまいました。そうして〈私〉と節子のサナトリウム生活が始まったのです。

節子はもうほとんど寝ついたきりなので、「似たような日々を繰り返しているうちに、いつか全く時間というものからも抜け出してしまったような気さえする位」(104ページ)単調な日々が続きます。

ですが、寄り添える相手がいる〈私〉たちは、いつも幸せな気持ちに包まれているのでした。見える景色もとても美しく感じるのです。

 「何をそんなに考えているの?」私の背後から節子がとうとう口を切った。
 「私たちがずっと後になってね、今の私たちの生活を思い出すことがあったら、それがどんなに美しいだろうと思っていたんだ」
 「本当にそうかも知れないわね」彼女はそう私に同意するのがさも愉しいかのように応じた。
 それからまた私たちはしばらく無言のまま、再び同じ風景に見入っていた。が、そのうちに私は不意になんだか、こうやってうっとりとそれに見入っているのが自分であるような自分でないような、変に茫漠とした、取りとめのない、そしてそれが何んとなく苦しいような感じさえしてきた。そのとき私は自分の背後で深い息のようなものを聞いたような気がした。が、それがまた自分のだったような気もされた。私はそれを確かめでもするように、彼女の方を振り向いた。
 「そんなにいまの……」そういう私をじっと見返しながら、彼女はすこし嗄れた声で言いかけた。が、それを言いかけたなり、すこし躊躇っていたようだったが、それから急にいままでとは異った打棄るような調子で、「そんなにいつまでも生きていられたらいいわね」と言い足した。(106ページ)


すべてが病人である自分中心の生活になっていることを気に病む節子に〈私〉は、もっとお前のことを考えていたいのだと言うのでした。お前のことを小説に書きたいと思っているのだと。

「皆がもう行き止まりだと思っているところから始っているようなこの生の愉しさ、――そういった誰も知らないような、おれたちだけのものを、おれはもっと確実なものに、もうすこし形をなしたものに置き換えたいのだ」(125ページ)と〈私〉は言って・・・。

とまあそんな2編が収録されています。「美しい村」も「風立ちぬ」も、登場人物の背景というのがしっかり書き込まれていない分、小説として理解しづらい部分はあるかと思います。

そうした背景が描かれていないことによる、作品全体を包み込んでいる抽象的な雰囲気や、詩的な感じを楽しむのもいいでしょう。他の作家にはない、堀辰雄独特の魅力が感じられるだろうと思います。

またあるいは、作者自身がモデルになっていたりもするので、堀辰雄の生涯について調べたりすると、作品自体はより理解しやすいです。

「風立ちぬ」の最大の魅力は、視点が固まっていない所です。「お前」と「私」と「私たち」が時に混然一体となっているんですね。

「風立ちぬ」屈指の名場面は、引用しておきましたが、〈私〉がバルコニーから、節子がベッドの上から外の景色を眺める場面。ため息をついたのがどちらか分からないぐらい2人の心の距離は近いのです。

節子が言いかけたことがありましたね。それを後に節子が口にして、〈私〉が思わずはっとさせられることになるので、ぜひその場面に注目してみてください。とても印象に残る場面でした。

「美しい村」も「風立ちぬ」もそれぞれは短い話なので、その点は読みやすいです。また著作権が切れているため、「青空文庫」などでも読めますので、ぜひジブリの映画とあわせて読んでみてください。

「6夜連続、ジブリ映画『風立ちぬ』公開記念、堀辰雄特集」をはまだまだ続きます。注目が集まっているいい機会でもあるので、興味を持った作品があったら、ぜひ堀辰雄を読んでみてくださいね。

映画のヒロインの名前は節子ではなく菜穂子なのですが、明日はその名前の由来になった『菜穂子・楡の家』を紹介する予定です。