田中英光『オリンポスの果実』 | 文学どうでしょう

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田中英光『オリンポスの果実』(新潮文庫)を読みました。残念ながら現在は絶版のようです。

青春と言えば、やはり何と言ってもスポーツと恋です。そう、スポーツと恋なんです! あっ、興奮のあまり、思わず二回書いてしまいました。

ぼく自身は、スポーツにあまり縁がない人生を送って来ただけに、スポーツと恋が描かれる物語に人一倍憧れを感じてしまうんです。ああ、なんだかいいなあと。みなさんはどうですか?

甲子園出場や大会の優勝など、それぞれの目標のために必死で努力を続ける中で、いつの間にか気になる異性が出来るというのが、青春ものの黄金パターンでしょう。

今回紹介する『オリンポスの果実』はまさにそういう作品で、今でこそ絶版ですが、長年にわたって「青春小説と言えばこれだ!」という感じで読み継がれてきた名作です。

物語の主人公は、ロサンゼルス・オリンピックに出場が決まった20歳のボートの選手、坂本。

現地に向かう日本代表の船に乗り合わせた陸上選手の秋ちゃんこと熊本秋子に、いつしか仄かな恋心を寄せるようになって・・・。

それぞれがオリンピックという大きな大会を目前に控えていますから、2人の関係はなかなか進展していきません。

ちょっと距離が近づいたかと思うと、周りから冷やかされて、ほとんど話すことさえ出来なくなってしまうのです。そんな中で、秋ちゃんへの純粋な思いが綴られていく物語。きらきらした青春小説です。

『オリンポスの果実』は、読む時期によって評価が真っ二つに分かれる作品だろうと思います。やっぱり若い時に読むといいですよ。

特に中学生、高校生の時に読むと、ただ純粋に相手のことを好きになる気持ちだとか、周りからからかわれてぎこちなくなってしまう感じだとかに、すごく共感出来るんじゃないかと思います。

大人になってからの恋愛というのは、結婚が意識されたりするということもありますが、純粋な気持ちというよりは、ついメリットやデメリットを考えてしまう、理性的なものになってしまうもの。

やはり中学生や高校生の時が、自分でも理由がよく分からないまま、そして相手のこともよく知らないまま、何故か不思議と強く引き付けられてしまう感じが強いんじゃないかと思います。

坂本は秋ちゃんのことを、こんな風に日記に書くんですね。ちょっと読んでみてください。

 どこが好きかときかれたら、ぼくは困るだろう。それほど、ぼくはあのひとが好きだ。綺麗かときかれても、判らない、と答えるだろう。利巧かいといわれても、どうだか、としか返事できないだろう。気性が好きか、といわれても、さアとしか言えない、それ程、ぼくはあのひとについて、なんにも知らないし、知ろうとも、知りたいとも思わない。
 ただ、二人でよく故里鎌倉の浜辺をあるいている夢をみる。ふたりとも一言も喋りはしない。それでいて、黙々と寄り添って、歩いているだけで、お互いには、なにもかもが、すっかり解りきっているのだ。あたたかい白砂だ。なごやかな春の海だ。ぼくは、その海一杯に日射しをあびているように、そのときは暖かい。
 が目ざめてのち、ぼくはあのひとの幻だけとともに、まわりはつめたい鉄の壁にとりかこまれ漸く生きている気がする。
(54ページ)


相手のことをほとんど知らないままに惹かれてしまう気持ちがあり、そして見る夢がエロティックなものではなくて、一緒に歩くだけ、それでいてお互いに分かり合っている幸せなイメージであること。

こうした特徴は、お互いに理解しあって関係を深めていく大人の恋愛というよりは、中学生や高校生が多く抱えるような、片思いの気持ちに近いですよね。

この文章を読んで、なんだか素敵だなあとか、ワカルワカルという感じになった方は、ぜひ読んでみてください。物語に入り込めるので、間違いなく楽しめる一冊だろうと思います。

その一方で、特に年齢を重ねるとそうなってしまう部分は少なからずあるのですが、勝手に妄想が爆発しているだけで、坂本の独りよがりにすぎないんじゃないかという感想を持たれる方もいるでしょう。

読む時期によって評価が真っ二つに分かれると書いたのはまさにその所で、この作品を冷静に読んでしまうと、あふれ出す坂本の片思い的な感情に、ちょっとついていけない感じを受けるかも知れません。

そういった点で、大人が読んで楽しめる青春小説かどうかは若干微妙ではあるのですが、甘酸っぱい初恋の思い出を振り返りたい方にはおすすめの一冊ですよ。

ちなみにぼくはいまだにロマンチストな部分が抜けきってないので、こういう妄想的な恋愛が描かれた小説、結構好きだったりします。

作品のあらすじ


こんな書き出しで始まります。

 秋ちゃん。
 と呼ぶのも、もう可笑しいようになりました。熊本秋子さん。あなたも、たしか、三十に間近い筈だ。ぼくも同じく、二十八歳。すでに女房を貰い、子供も一人できた。あなたは、九州で、女学校の体操教師をしていると、近頃風の便りにききました。
 時間というのは、変なものです。十年近い歳月が、当時あれほど、あなたの事というと興奮して、こうした追憶をするのさえ、苦しかったぼくを、今では冷静におししずめ、ああした愛情は一体なんであったろうかと、考えてみるようにさせました。(5ページ)


〈ぼく〉は、2人が出会った10年ほど前のことで、一つだけ聞きたいことがあって、この手記を書き始めたのだと綴ります。

10年ほど前というのは、2人がロスアンゼルス・オリンピックへ出場した時のこと。

出発の朝、向島の古本屋で石川啄木の歌集『悲しき玩具』を買って、〈ぼく〉は大洋丸に乗り込みます。友人や先生など、多くの知り合いが見送りに来てくれていました。

出航して三日ほど経つと、練習以外にはすることがありませんから、段々と退屈し、何故だか無性に寂しい思いを感じるようになります。

去年の夏、鎌倉の海で遊んだことのある女の子にラブレタアを書こうかと、そんなことも考えましたが、相手に恋人がいたらどうしようと思って、恥ずかしくなって結局やめてしまいました。

そんな頃、一等の食堂では活動(映画)が見られるということを聞き、みんなで行ってみます。その帰り道のデッキで、たまたま女子選手たちと出会したのでした。

 そのとき、全く偶然で、すぐ前にいたあなたに、ぼくが「活動みていたんですか」ときいた。あなたは驚いたように顔をあげて、ぼくをみた、真面目になった、あなたの顔が、月光に、青白く輝いていた。それは、童女の貌と、成熟した女の貌との混淆による奇妙な魅力でした。
 みじんも化粧もせず、白粉のかわりに、健康がぷんぷん匂う清潔さで、あなたはぼくを惹きつけた。あなたの言葉は田舎の女学生丸出しだし、髪はまるで、老嬢のような、ひっつめでしたが、それさえ、なにか微笑ましい魅力でした。(20ページ)


不思議と惹きつけられた〈ぼく〉は、もっとその女子選手と話したいと思ったのですが、恥ずかしがって逃げられてしまいました。

船室に戻ると、急いで選手名簿をめくります。すぐに熊本秋子という高知県出身の、20歳の陸上選手であることが分かりました。

両親がたまたま高知の出身だったこともあり、〈ぼく〉は秋ちゃんに色々と高知の話を聞かせてもらいます。そうして少しずつ2人は距離を縮めていったのでした。

ボオトの練習を終えて、他の人たちがやるのを見ていると、体育室の円窓越しに、こちらを眺めている秋ちゃんの汗ばんだ顔が見えます。

ぼくは直ぐ、恥かしくなって、視線をそらせようとすると、あなたも、寂しいくらい白い歯をみせ、笑うと、窓硝子をトントン拳で叩く真似をしてから、身をひるがえし逃げてゆきました。
(28ページ)


あまり言葉こそ交わしませんが、お互いに練習している所をこっそり眺めたり、食事の時に目があうと笑いあったりします。甲板でみんなでデッキ・ゴルフやシャブルボオドをして遊んだりもしました。

ところがある日、朝の練習が終わると、看板に全員集合が命じられます。そこでG博士という役員は、今後、男子と女子の交際を禁じると言ったのでした。

どうやらある男女がボオトデッキの影で抱擁していたのを船員に目撃されたらしく、このままでは日本代表の名誉に関わるとの判断が下されたようです。

その男女は〈ぼく〉と秋ちゃんではなかったのですが、ボオトのメンバーは盛んに冷やかしますし、その命令があってから、秋ちゃんとは話すことすら出来なくなってしまったのでした。

みんなは練習以外の時は、喫煙室で麻雀をしたりして自由に過ごしていますが、〈ぼく〉だけはどうしてもそういう気分になれません。

一人、甲板で手すりにもたれて、泡だった波を眺めては、とりあえずはオリムピックのレエスに集中すること、いいレエスをすることが出来たら、日本へ戻って秋ちゃんと結婚しようなどと考える〈ぼく〉。

やがて船はロスアンゼルスに到着し、オリムピックが始まりました。13万人の観衆に包まれた開会式、そして万国旗の中できわだった美しさを持つ日の丸に〈ぼく〉は感動させられます。

そして、行進をしていった女子選手たちの中に、秋ちゃんの晴れ姿を見て、その姿も大切に心の中に閉まったのでした。

そしていよいよ、「ムッシュ。エティオプレ」「パルテ」の合図と共に、ボオトのレエスが始まって・・・。

はたして、日本代表のボオトレエスの結果はいかに? そして、〈ぼく〉と秋ちゃんの関係の行方は!?

とまあそんなお話です。オリンピックに向かう船の中で、恋に落ちた〈ぼく〉でしたが、色々と噂にもなってしまい、話すことすら出来ない状況に無理矢理追いやられてしまったのでした。

引き裂かれた2人の恋の行方、そして、10年経ってから聞きたかったこととは一体何だったのか、気になってしまった方は、ぜひ読んでみてください。「青空文庫」でも読むことが出来ます。

明日は、三田誠広『僕って何』を紹介する予定です。