昨日の勉強会で
神父様が引用された教皇様の言葉
わたしたちは信者である前に
人間であるように召されています
(フランシスコ教皇様もしばしば
同様のことを仰っていたそう)
今朝読んだ
カテケーシスの要旨に
この言葉を見つけました
カテケーシスの中で
心に残った箇所を備忘録として...
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自分自身に集中し他者には気づかないために
視点を変える必要がある人物について
話しましょう
(参照 ルカ10,25-37)
彼がイエスに唯一意味を尋ねた言葉は
「隣人」という言葉でした
それは文字通り
「近くにいる人」という意味です
この問いのために
イエスは一つのたとえを語られました
このたとえは
「わたしの隣人とは誰ですか」という
問いを変容させるための
わたしを
「愛してくれる人は誰か」
という問いから
「愛したのは誰なのか」
という問いに移るための行程となるものです
最初の問いは未熟なものであり
後の問いは自身の人生の意味を理解した
大人の質問です
最初の問いは
わたしたちが隅で様子を見ながら
言う質問です
後の問いは
わたしたちが一歩を踏み出せるように
背中を押す質問です
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困難を抱えた方に寄り添われ
路上を歩いて来られた教皇様らしく
人の背景を慈しむことの大切さに
視点をおいたお説教をなさるので
とても心に響きます
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人生とは出会いでできています
その出会いを通して
わたしたちの本来の姿が現れるのです
わたしたちは他者を前にして
その人の困難な状況や弱さを前にして
どのように振舞うかを決めることができます
その人の世話をするか
あるいは見ないふりをするかです
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信者としても...
人間としても...
その人の背景を慈しむことが
出来る感性
それを養うことの
大切さを思います
出会いを生きながら
謙遜のうちに学び
その姿に倣いたいと思います
