今の部屋はユニットバスになっている。

生まれて初めてのユニットバス生活だが、なるほど、ユニットバスは絶対に嫌だというひとの気持ちがわかる。
トイレの時はなんとも思わないのだが、シャワー利用時の狭苦しさが頂けない。

濡れた肩がシャワーカーテン(シャワー部分とトイレ部分を隔てるための、防水、撥水カーテン。シャワーを使うときのみこれを引く)に触れると少し気持ち悪い。気持ち悪いのは嫌なので、自然、カーテンの位置を意識するようになる。
こうなると、物理的な空間面積よりも、いくぶん強い狭苦しさを感じるようになる。

もう一つ、音の響きが嫌いだ。シャワーの音がこの必要最低限の空間の中で、大げさにいうと飽和する感じがある。

かつて入浴時に感じていたスッキリ感が損なわれている感じがある。
なんというか、「ただ、身体を洗っている」という雰囲気だ。
忙しい日の昼休みに、牛丼をかき込むのに似ている。味わうという感じが薄い。「ただ、食料を摂取している」

ユニットバスの気に食わないのはその狭苦しさにあるのだ。
ということで、シャワーカーテンを撤去してみた。

浴槽にお湯を溜めながら。
コーヒーメーカーのセッティングをすませ、抽出を始める。風呂から上がったら頂けるように。
それから音楽をかける。カエターノ・ヴィローゾのリーブロにした。「いい風呂なだけに」とひとりごちた自分に少しだけがっかりした。風呂場からはジョゴゴゴとお湯の溜まる音が聞こえる。

ゆったりとした入浴には、このアルバムのリラックスした雰囲気が相応しいと思ったのだ。それから、録音が抜群にいい。位相感というんでしょうか、奏者の位置関係が想定出来るくらいよろしい。音楽を空間の構成物として考えた場合、このアルバムは、なんといえばいいだろう・・・。すごくいい!
コーヒーの香りがしてくる。

バスタオルと本を蓋を閉じたトイレの上に置く。準備万端。それから服を脱ぎ、洗濯機を回す。

湯は胸の辺りまで溜まっていた。蛇口を閉める。ひたひたと落ちる蛇口からの水滴の音が、コーヒーのドリップを連想させた。いい感じの香りがここまで届いてくる。
このときカエターノは三曲目を歌っていて、洗濯機は水をためながらの撹拌を初めていた。
モーター系機器の不調を示す高音域のノイズが含まれていはしないかと傾聴(洗濯機の方を)してみたが、特に聞き取れなかったので、洗濯機は非常に健康、好調である、ということにした。たぶん、気分がよかったのだ。

それから小一時間程ゆっくりした。
トイレ側領地に多少の水はねはあったものの、はっきりいってどうでもいい。
結論。僕はシャワーカーテンはいらない。ユニットバス即NGではない。

思うに、シャワーカーテンというものは、寝る間を惜しんで何かに没頭しているような人が、実務的に入浴行程を遂行する場合に有効な代物であって、コーヒーを飲みながら濡れた髪のまんまベランダにでて、あ、鳥が飛んでるや。といった具合のリズムで休日を過ごす、ゆですぎたパスタのような僕のような人間には相応しい道具ではないのだと思った。