すべてのBPAを終えて | クランのブログ

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難病(慢性血栓塞栓性肺高血圧症)を抱えながら医学部目指してます

BPA治療(経皮的肺動脈形成術)20回目にしてやっと、やっと終わったーー!!!闘病生活5年。ここまで来るのに5年かかった。長かったぁ~。本当に長かったヽ(;▽;)



2013年の冬に大学病院の先生から


「点滴で前処置をしても造影剤のアレルギーが出たので、次のBPAのときにはショック症状を起こす可能性が十分考えられます。クラン君の場合は肺圧がとても高いので、ショックが起きれば全身の血管が一気に開き心臓に血液が大量に流れてしまいます。そうなると・・・・・・早いです。もし、次回BPAを受けるなら覚悟はしておいてください。これ以上の治療は我々も強くは勧められないです。」と、告げられました。


『再発してからBPA6回受けても全く良くならなかった』、『造影剤で即死してしまえば今までの努力がすべて水の泡になる』との思いから、BPAでの治療は断念。



2011年に命を直接脅かしていた特大の器質化血栓が原因不明で突然消失し、一命をとりとめた経験があるので、『なんとか方法はあるはず・・・』と考え、民間療法に活路を見出そうとしました。


その功が奏したのか肺圧が高いわりにはよく体を動かすことができました。徐々に体力が戻ってきたようにも思えましたが、病魔は少しずつ僕の体を蝕んでいきました。


そして、去年(2014)の冬、状態が急激に悪化。大学病院の先生から最後の切り札として岡山医療センターのM原先生にBPAを行ってもらうように説得されます。


『再び奇跡を待つか、それとも死期を早めるかもしれないけどもう一度BPAを受けるか・・・』


本当に迷いに迷いました。どっちが正解かわかりませんでした。


ですが、このとき、岡山にご縁を感じるような出来事が起こります。


『生き残るのならそれも良し、死ぬならそれも良し。白黒ハッキリつけにいこう。』


そう腹を括り、岡山医療センターで治療を受けることに決めました。


しかし、頭の中ではどう考えても体が良くなるようには思えず、造影剤アレルギーで精神的におかしくなるか(アレルギーが出たときの、あれほど体が苦しい出来事を今まで経験したことはありませんでした。今でもあのときのトラウマをひきずっており、実は治療を断念した理由はここにもあります)、ショック症状で即死するか、二つのうちどちらかだろうと正直覚悟していました。


今年の2月、岡山へ行き早速カテ検査をしましたが、結果は「平均肺圧72、肺血管抵抗1100」肺動脈が破れ、いつ血を吐いてその場で倒れてしまっていてもおかしくないような状態でした。


カテ検査の前日で測定した6分間歩行では500mも歩いていたので、先生もこんなにも体が悪い状態だとは思わなかったそうです。


ですが、M原先生から「かなりBPAをしなければならないけど、来年は元気になってることを約束するよ。」とおっしゃってくださり、再び闘魂に火がつきました。


ただ、「一度造影剤アレルギーが出てしまうと、どれだけ前処置をしてもアレルギーは多少でる。」とも言われ、それだけが心配でした。


そして、そのような状態から急ピッチでBPAが行われました。


おかげさまで奇跡的にここまで回復することができ、再び九死に一生を得ることができました。


「あの状態からここまで回復できるなんて・・・」と半ば信じられませんが、階段や坂を普通に歩けるようになり、病気になる前の元気だった頃の体の状態を思い出し、平凡な日常に幸せを感じています。


回復する過程で多くの方々に励ましていただき、とても苦しい状況でしたが精神的にも肉体的にも支えていただきました。


一人では絶対乗り切ることはできませんでした。


どう感謝の言葉を述べたらいいのかわからず、どう感謝の気持ちを表現したらいいのかもわかりませんが、本当に本当にありがとうございました。


多くの方々、多くの出来事に助けていただいたこの命。


助かってホッとする反面、雑に扱うことができないと気が引き締まる思いです。 


この五年間、生と死の狭間で数々の貴重な体験をしました。


そして、人間の不思議さ、未知なる可能性も見てきました。


それらを今後の人生で活かそうと思えば、


険しい道になるとは思いますが、やはり医師になることがベストだと考えています。


そして、医師になった後は、目指していきたい医療というのも朧げながら見えてきました。




それがただの理想で終わるのかどうかは医療の世界に入らないとわかりません。


まずは、医学部に入らないとどうにもこうにもしようがないので、


あと半年間、自分のケツを叩きながら頑張っていきたいと思いますメラメラ