くらみんぶろぐ

くらみんぶろぐ

日記です。つまらない日常を書きます

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新年あけましておめでとう(*゜▽゜ノノ゛☆


すっかり放置してましたwwwww


ちょっと見ない間に、何か仕様変更でもあったのでしょうか…

小さな人型のアレ(何だっけ汗歩き回ったり会話したりするヤツ)はどこに行ったのww

「なう」って何wwww

みんな元気?www


などと疑問がいっぱいあるのですけれど、どうせまた冬眠するだろうから気にしないwww


気が向いたら、会津で止まってる旅の思い出と、この前行ってきた初詣のことでも書こうかなヽ(゜▽、゜)ノ



会津戦争の契機

1868年(慶応4年/明治元年)1月、戊辰戦争が始まり、鳥羽・伏見の戦いで勝利した新政府軍は東へ進撃。

3月には江戸城を無血開城させ、徳川幕府は崩壊する。


しかし、旧幕府方の勢力は新政府に対して抵抗を続けており、北関東から新潟北部、東北、北海道にかけての地域は不穏な情勢にあった。

特に会津藩は、藩主・松平容保が京都所司代を務め、攘夷派の志士を取り締まったり、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍の一翼として薩長軍と戦うなど佐幕派の急先鋒であったため、朝敵として新政府から追討令が発せられていた。


会津藩は新政府より謝罪を求められるが、これを拒否。

会津に同情的な、仙台藩や米沢藩が中心となって仲裁を行う。


6月、東北諸藩は、会津の赦免を求めて嘆願書を提出するも、仙台に派遣されていた新政府の鎮撫使で対会津主戦派の世良修蔵はこれを却下した。


更に世良は、会津の謝罪拒否と軍事力の強化を見て、新政府に対して密書を送り会津征伐のための援軍を派遣するように要請するが、これを知って激昂した仙台藩士に殺害されてしまう。


世良暗殺と同じ日、会津藩と旧幕府勢力が関東と東北を結ぶ要衝・白河口に進攻し、白河城を占領。

今市方面でも、新政府軍と交戦する。


東北諸藩は嘆願書の却下と世良殺害を受けて、会津及び庄内赦免のために朝廷と直接交渉を行うとともに、奥羽列藩同盟(後に新政府との交渉が決裂した北越諸藩を加えて、奥羽越列藩同盟に拡大)を結んで結束を固めた。


会津の謝罪拒否と武装強化、仙台藩士による世良の暗殺、東北諸藩による会津救済交渉の失敗と軍事同盟、そして会津側から仕掛けられた一連の戦闘によって、会津戦争は不可避となった。



白河口の戦いと新政府軍の進撃

6月15日、新政府軍は白河城への攻撃を開始。

6月20日、旧幕府軍から白河城を奪還。


その後、8月末まで旧幕府軍による白河城再奪取戦が行われた。

当初、白河口方面の戦力は旧幕府軍側が優勢(新政府軍700に対し旧幕府軍2500)であったが、新政府軍の優れた用兵と旧幕府軍の拙劣な指揮によって、戦いは新政府軍の圧勝に終わる。

白河口の戦いは会津戦争の大勢を決める戦いであり、これ以降、新政府軍の優位が確定的になった。


9月15日、新政府軍は、旧幕府軍が白河に兵を割いた為に手薄になっていた二本松城を攻略して旧二本松領を支配下に入れる。

次の攻撃目標は会津藩の本拠地、会津若松。

戦闘が困難になる降雪前に会津を攻略し、東北での戦争を年内に終結させようという計画だった。

「根幹を抜かば、枝葉は憂うるに足りず」(新政府軍参謀・伊地知正治)



母成峠の戦い

予想される新政府軍の攻撃をから会津を防衛する為、旧幕府軍は日光口、白河口、二本松口の備えを重点的に固める。

しかし、実際に新政府軍の主力が現れたのは、そのいずれでもない石筵口の母成峠であった。


母成峠は南北12kmに渡る高原であり、防衛には大兵力が必要であったが、ここに配置されていた旧幕府軍の兵は800名に過ぎなかった。

内訳は、伝習隊を率いる歴戦の旧幕臣・大鳥圭介が新政府軍の動きをみて日光口から転進させた伝習隊士400名、会津藩兵、仙台藩兵、二本松藩兵残党及び土方歳三ら新撰組の計400名である。


10月6日、新政府軍は3000の兵力で母成峠を攻撃。

対する旧幕府軍は、大鳥の指揮の元に三段構えの縦深陣地を構築して新政府軍を迎え撃つ。


大鳥の縦深防御戦術は、日本戦史上それまでに例を見ない新戦術であったが、新政府側も大砲の集中運用という新戦術を用いて第一陣を突破し、更に第二陣地の側面に回り込んで攻撃を行う。


新政府軍の攻撃は成功し、旧幕府軍は第二陣地から第三陣地へ後退。


旧幕府軍の第三陣地は母成峠の反対斜面(猪苗代方面)に設けられており、峠を越えて進撃してきた敵に至近距離から猛射を浴びせることを意図した造りになっていた。


これに対して、新政府軍は大鳥の思惑に嵌まらず、峠の頂上で一旦停止し砲列を揃えて第三陣地に強力な砲撃を加えた。

その為、旧幕府軍は大いに動揺し、伝習隊を除く他の部隊は持ち場を棄てて逃走した。


「三藩の兵の頼むに足らざるを知れり」

母成峠の戦いの前日に行われた前哨戦の際、伝習隊を見捨てて逃げた会津藩・仙台藩・二本松藩の兵を評して大鳥圭介はそう言った。


この時もまた、大鳥の友軍への評価を裏付けるかのように、新政府軍の攻撃に対して伝習隊が踏み止まり、反撃の態勢を整える傍らで、他藩兵は算を乱して逃げ出したのである。


しかも、彼らは伝習隊が交戦している最中に第三陣地の背後にあった大鳥の本陣に放火し、新政府軍の追撃を阻むと同時に、伝習隊の退却をも困難なものにした。

自分たちが助かるために伝習隊を見殺しにしたと言われても仕方がないだろう(一説によると、藩兵たちが伝習隊に対して冷淡だった背景には、大鳥を含め町人出身者で構成された同隊への差別意識があるといわれている)。


やがて、見捨てられた伝習隊も押し寄せる新政府軍によって駆逐され、母成峠は新政府軍によって制圧された。

会津藩境は僅か一日の戦闘で突破されたのである。


敗れた旧幕府軍は新政府軍の猛追を受け、翌日には兵力不足の為防戦も行えずに猪苗代城を放棄して会津方面へ撤退した。


尚、母成峠で殿軍を務めた伝習隊は壊滅的な打撃を受けた為、もはや組織的な抵抗は不可能であったが、敗走しつつも民家などに火を放って新政府軍の進撃を遅滞させている。


十六橋

10月7日、母成峠に続き猪苗代も占領されたとの報を受け、会津藩主・松平容保は白虎士中一番隊と士中二番隊を伴って出陣し滝沢村に本陣を構える。

この時、会津藩は四方から迫る新政府軍に対応する為に全ての兵力を投入しており、会津若松に残っていたのは白虎隊の少年兵と、玄武隊の老人だけであった。


新政府軍が、仙台を後回しにして会津への進攻を決めた理由の一つも実はそこにあった。

すなわち、会津軍が藩境の防衛に戦力を分散している間に若松への電撃的な侵攻を行い、僅かな予備兵力(それも子供と老人で編制された)しかいない会津藩の中心部を制圧し、降伏に追い込む。

その際に鍵となるのは、日橋川の十六橋である。


日橋川は水量が多く、渡渉困難な天然の障碍として会津若松への道を塞いでいた。

その川に架かるたった一本の橋が十六橋と呼ばれる石橋だった。


この橋を確保し日橋川を渡れば、若松城まではなだらかな丘陵地帯である為、速やかに城下に迫ることができる。

会津軍が戦闘を仕掛けてきても、開豁地では数で勝る新政府軍が圧倒的に有利である。


逆に猪苗代城を失った会津軍にとってみれば、日橋川は最後の防衛線であり、ここから若松城下へ至るまで新政府軍を阻止するのに適した障碍が存在しない以上、絶対に十六橋を破壊し、日橋川の線で敵の進攻を食い止めねばならなかった。


10月8日、新政府軍の薩摩藩四番隊を率いる川村純義が、部下を怒鳴り上げながら十六橋に到着した時、既に会津藩兵は橋の爆破に取り掛かっていたが、しかし、石造の橋は頑丈で破壊には至っていなかった為、川村隊は銃撃を開始して会津兵を追い払い橋を確保した。


新政府軍の前に、若松城下への道が開かれたのである。



戸ノ口原の戦いと会津戦争の終結

十六橋を奪い橋頭堡を築いた新政府軍は、若松城への進撃を開始。

暴風雨の中、会津軍は戸ノ口原で迎撃するも、新政府軍との戦力差は歴然としており、次第に若松方面へと圧迫されていった。

会津軍の兵力は既に枯渇していた為、予備隊である白虎士中二番隊の少年兵までもが戦場に投入されたが、戦局を覆すことは到底不可能であった。


戸ノ口原で勝利した新政府軍は、遂に若松城下へ達した。


攻城戦では、敵味方双方が焼き討ちを行い、城下町は3分の2を焼失。

会津軍は老人や婦女子までもが篭城して防衛あたり、多くの犠牲者を出した。


会津藩主・松平容保が新政府軍に降服し、会津戦争が終結するのは11月6日。

包囲戦の開始から一ヶ月後のことである。

この時、既に庄内藩を除く他の佐幕派諸藩は新政府に屈服し、若松城は大軍に囲まれて孤立無援の状態に陥っていた。



終わりに…

俗説では、新政府は会津に対して情け容赦のない戦後処理を行い、戦死者の遺体埋葬を許さなかったとか、下北半島への国替えを強制したなどと言われているが、いずれも事実ではない。


新政府は埋葬令を出しており、それが実行されなかった、もしくは遅延したのは、降雪の影響と会津の政情不安(藩政の失敗から民心は離れており、戦後、一揆が多発した)の為であった。

また、下北への国替え(いわゆる会津斗南藩)も「強制移住」などではなく、新政府側から示された下北と猪苗代の二つの候補地から、会津藩側が自ら選択したのである。

第6日目②


米沢街道を南下。

会津へ。



2009年9月4日12時30分 福島県会津若松市

会津若松市に入って最初に向かったのは、 白虎隊士が自害した場所として知られる飯盛山だ。

会津戦争についての知識をほとんど持っていない私だけど、白虎隊の名前くらいは(かろうじてだけど汗)知っていた…


戊辰戦争の際に会津藩が年齢別に編制した四つの部隊。

その内、武家の子弟からなる若年者で構成されていた部隊が白虎隊だ。


玄武隊(50歳以上)

青龍隊(36歳~49歳)

朱雀隊(18歳~35歳)

白虎隊(15~17歳)


更に各部隊は、身分に応じて士中(上士)・寄合(中士)・足軽(下士)の各隊に分けられていた。


白虎隊の編制

士中一番隊…37名

士中二番隊…37名

寄合一番隊…99名

寄合二番隊…62名

足軽隊…71名


飯盛山で自刃したのは、白虎士中二番隊の20名である。

飯盛山
くらみんぶろぐ-飯盛山

飯盛山参拝入口。

右手に見える「動く坂道」っていうのはスロープコンベアのこと。

左手の白い建物は白虎隊記念館で、白虎隊や戊辰戦争に関する史料が展示されている。

入らなかったけどσ(^_^;)


くらみんぶろぐ-会津藩殉難列婦の碑

会津藩殉難烈婦の碑。

会津の戦いで戦死もしくは自刃した、およそ200名の婦女子たちの霊を慰めるために建てられた。


くらみんぶろぐ-白虎隊士の墓
白虎隊士の墓。

隊士たちの死から約150年を経た現在でも、献花・焼香が絶えない。

お墓の数は19基。

自害した白虎隊士20名の中で、ただひとり一命を取り留めた飯沼定吉の墓は別の場所にある。


くらみんぶろぐ-ローマ市寄贈の碑
順路を進むと、この場所には不似合いなモニュメントが…

これはローマ市から寄贈された、ポンペイ遺跡の石柱だそうだ。


くらみんぶろぐ-ローマ市寄贈の碑
記念碑の碑文。

「文明の母たるローマは、白虎隊勇士の遺烈に、不朽の敬意を捧げんが為、古代ローマの権威を表すファシスタ党章の鉞(まさかり)を飾り永遠偉大の証たる千年の古石柱を贈る」

1928年(昭和3年)にイタリアの独裁者ムッソリーニが、白虎隊士を讃えて贈ったものだそうだ。


石柱の裏面には「武士道の精華に捧ぐ。ローマ市民と元老院より(SPQR ALLO SPILTO DEL BVSHIDO)」と刻まれている。

この文は第二次世界大戦後、占領軍によって削りとられたが、現在では復元されている。


くらみんぶろぐ-白虎隊自害の地
白虎隊士自刃の地。


くらみんぶろぐ-白虎隊士の像
白虎隊士達は、煙と炎に包まれた鶴ヶ城(若松城)の様子を見て、落城したものと思い自刃した。


この時、火災が起きていたのは城下町の建物で、鶴ヶ城は健在であった。

実際に城が陥落し会津藩が降伏するのは、彼らの自刃から一ヵ月後のことである。


くらみんぶろぐ-飯盛山から会津市街を
白虎隊士像が望む会津市街。

鶴ヶ城がどこにあるのか、よく解からなかったよ(_ _。)

この画像奥の方、真ん中からやや左の木立(緑の帯)の中に建ってるのがそうだと思うあせる

飯盛山からはかなり遠いから、白虎隊士が誤認してしまうのも無理ないな…


見ての通り周囲はお墓。

ここから先は立ち入り禁止だよ乂Д≦`o)


墓地の階段を下り、林の中の道を小川に沿って進むとスロープコンベア2号機の脇に出るけど、良い子の皆はそんな事しちゃダメだからねヽ(*・ω・)人(・ω・*)ノ


次は鶴ヶ城に行こうと決め、飯盛山を降る。


お土産でも買おうかなーと思って入ったお店の人とお話タイム。

お茶を淹れてもらい、しばし寛ぐmaccha*


デジャヴだ…

前にもこんな事があったような(^_^;)


お店の方に会津の町のことやこれから向かう春日山のことなど、有益な情報を色々と教えて頂いた後、鶴ヶ城へ向かった。



そういえば、白虎隊士20名が通ったという飯盛山の戸ノ口堰洞窟には行かなかったな。



Q.なぜですか?



A.気づかなかったからさorz



自分が本当に残念すぎる奴であることを実感する。