アルトマン社は東西ドイツが二分させていた

時代の西ドイツの会社で

本社は新宿新都心の超高層ビルに入居していた。

広告宣伝をド派手に打って、新聞大手三大紙、

少年雑誌の巻末返信用

ハガキ付き広告まで網羅したものだった。

アルトマンシステムは西ドイツの

アルトマン博士の分析から、

コンピューターによる700項目の特性分析から

導き出された相性というもの

を最大公約数から割り出し、カップルは運命づけられる

ように結ばれるというキャッチフレーズだった。

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 なんと、私も昭和61年春には大枚200万円程度をつ

ぎ込んで、会員として活動していた。

もちろん、当初は合コンの相手を探すことを目的にしていた。

当時は写真付きではなく、紹介相手のプロフィール紹介だけだった。

このシステムは仲人という存在はなく、コンピューターつまり、

いまでいうAI婚活の奔りだった。

また、紹介プロフィールの郵送物がわんこそば状態の

ように送られてきものだった。

一方、2年半の活動期間中に2名しか、

会うことがなかった。二人目との交際後に

休会せずに会費のみ一括して支払った板ので、

二人目の方とは足掛け3年ほどの

だったと記憶している。

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 話を戻すと、アルトマン社のキャッチコピーの前フリは、

アルトマンに入会さえすれば、(必ず)結婚できるとは、

言ってないものの、そのようなセンセーショナルな

内容と誤解せしめるような広告に

男女会員も引き寄せられるように入会した。

当時の様子をいろいろなブログで拝見するが、

列をなして新宿の高層ビルに吸い寄せられる

なんて表現も見受けられるが、

入会はアルトマン社への郵送で事足りた。

単なる、結婚情報サービスだった。

プロフィールを送られると、

自分で電話してお見合い場所を決めて

二人で会うというなんともお粗末なシステムだった。

今であれば、個人情報ズルズルなシステムだった。

本来の日本に根付いていた仲人システムを

根底から覆すものだった。

もちろん、独身証明書の提出や年収証明も

提出しなかった記憶してます。

当時、名古屋栄で

浴びるように飲んでいた

ロンリコ151

結局、戦後の復興が日本と似ていたということで、

西ドイツのアルトマン社

が日本に進出したものの郵送による煩わしい婚活でもあり、

お見合いが集中するひとと、まったくマッチングしない人の

がひどく表れてトラブル続出となった。

今でいう言うところの説明責任であった。

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アルトマン社に夢を託して、大枚を叩いて入会したものの、

一部のひとに申込みが集中して、

マッチングすら出来ないひとが多数出てしまいトラブル

がトラブルを産む現実となった。

アルトマン社は入会一時金で大枚を振り込まさせていたので、

退会時のトラブルも頻発した。

現在の婚活市場における結婚相談所業界も

アルトマン社の膨大な広告宣伝費を

つぎ込んだ戦略までにはいかないものの

会員数至上主義で会員数が多いから、

結婚できるという神話はどことなく

アルトマンに似ているような気がしてならない。

いまはなき山一證券渋谷支店

ペギーポップのペンギン時計台

 

結婚相談所、仲人システムとは

日本の古き良き時代の産物でもある。

背中を押したり、慰めたり、

お相手選びの軌道修正のアドバイスをしたりと

AI婚活の流れとは、また違う良さを持っている。

自分も、200万円つぎ込んだアルトマンシステムでは結婚せず、

社内結婚に落ち着いたもの、良い経験をさせてもらったものである。

 

いまはなき証券取引所の立会い

  山一證券社長会見

大学の先輩でもありました。

  1997年11月24日
  100周年に自主廃業
  山一證券株式会社