「杜」という字がたまらなく好きだった。理由なんか分からない。

穏やかで、でも凛としたイメージ。

「杜」という字を知ってから、その感覚は変わらない。

隣のクラスに「杜人」という人がいると知った時、どれ程胸が高鳴っただろう。

随分迷ってこっそり見に行った時の緊張感は、今までに経験がないくらいだった。

彼、杜人はいた。透明感のあるその人は、まさに私のイメージ通りだった。

杜人くん。心の中でそう呼んでいる。この半年ずっと。まだ、話したこともない。

私の事だって知っているかどうか怪しいけれど、そんなことはどうでも良かった。



ある日の放課後、私のすぐ横を、自転車に乗った彼が颯爽と通り過ぎていった。

風と一緒に走っているみたいだった。眩しくて少し目を細めた時、大きな音がして彼が倒れた。

驚いて立ち止まる私。地面に横たわって動かない彼。

ほんの3秒くらい後だったか、私はハッとして彼に駆け寄った。

「杜人くん!」

なんでそう呼んでしまったのだろう。心の中でだけの呼び名を私は口にしてしまっていた。

倒れていた彼がふいに目を開けて、私の方を見た。

「今、おれの名前呼んだ?」

当然だ。同じ学校の制服とはいえ、知らないに等しい人に名前を呼ばれれば、誰だって驚く。

「あの、倒れたままだったから、慌てちゃって。」

実際慌てていたけど、質問には答えなかった。というより、答えられなかったのだけど。

彼はむくっと上半身を起こした。

「自転車で転ぶとかアホじゃん。自己嫌悪してたわけ。」

そう言うと立ち上がって、ズボンをはたいた。

「隣のクラスの人だよね。」

私の事知ってた!ただそのことに驚いて、何も返せないまま、頷く。

「ま、いいけど、別に」

彼は自転車を起こして、サドルにまたがった。

彼が行ってしまう。

「あ、佐久間くん、私、隣のクラスの藤宮。」

なんとかそれだけ言えた。

「別にいいけど、名前でも。」

彼は少しぶっきらぼうにそう言って、静かに自転車をこぎ始めた。

どんどん遠ざかっていく彼の後姿。

名前でも、いいって、言った?

甘くて暖かいものが体中を包んでいるようだった。

名前でも、いいって、言ったよね。

「杜人くん。」

私はそっとその名を呼んだ。嬉しさが込み上げてくる。

でも、きっと彼の前でそう呼ぶことは不可能に近い、まだ暫くの間は。