物心ついた時から、私は自分のことがしたいこと、感じること全てダメなんだと思って生きていました。

 

今思えば、操り人形のようです。

 

その操っているのは、当然大好きな母親。

今、思うと私のは祖母、母、母の弟の叔父今で言う発達障害だったんだなと大人になった今ならわかる。

 

だけど、小さな私はそんなことがわかるはずもなく、母は父に腹がたったからと勝手に自分で離婚届を書いて提出してしまったら、本当に離婚してしまったという、信じられない離婚をしているので、シングルマザーでした

この時、父は何度も話合いを申し出たそうですが、母と祖母と叔母に何を言っても受け付けてもらえず、何年も何年も私の為に頑張ったそうですが、母に彼氏ができてもう何をどう頑張っても無理なんだと、諦めるしかなかったと言います悲しい

 

そんな全て自分の思い通りにいかないとどんな手でも使う母親と一緒に過ごした私は、小さいこと怒る、泣く、自分の意見を言うこと全てを否定され母の思い通りになるようにコントロールされ(母の不機嫌、無視、ずっと睨まれる、大きな音を立てながらの家事、ご飯を作ってくれないなど)幼稚園に上がることには立派ないい子が出来上がっていました。

 

そんな私が自我満載の幼稚園でまず、ぶち当たったのが、みんなにいいように使われる不安です。

家でも、心休まらず、幼稚園でもみんなに合わせなければと思い疲れ、幼稚園の先生にもいい子過ぎるからと怒られ、情緒不安定から目はチック、おねしょも中々治りませんでした。

 

小学校へ入っても、周りが怖く勉強に集中できません。

先生やみんなの機嫌が気になりすぎて、集中できないのです。

誰かが機嫌が悪いと自分が悪いことをしたから、機嫌が悪いんだと全て自分のせいにしていました悲しい

 

だから、その機嫌が悪い人を何とか自分が機嫌よくしなければならない。と🤡のように笑かしたりしていました。

 

母は、口を開けば「人の為、人の為」と私に強要しました。

母が、私をコントロールし支配した背景には、自分のようになってほしくないからせめてこの子だけでもという歪んだ愛情と自分と向き合わない逃げの気持ちから、私を思い通りにすることで自分の自己肯定感を埋めていたのではないか?と思います。

 

そんな小学校時代ですが、唯一私が私らしく生きられる時期がありました。

それは、小学校3年生の時の引っ越しです。

母は、祖母に依存している為、祖母が引っ越しをすると母も近くへ引っ越し、叔母も引っ越しします。

今、思うと異常ですオエー

 

引っ越し先の住環境がよかったのか、新しい学校の先生、生徒はすごく優しくて、親切である意味自立していました。

担任の先生は、自分で考えること、意見すること、そして意見人と一緒でなくてもいいということ。

100人いたら100通りの意見があることを教えてくれました。

やっと、自分らしくいられる場所を得た私は、勉強・スポーツ・友達関係あらゆることが楽しくて、今も本当にあの時のことが自分を取り戻す原点になっているなと思います。

 

この時母とも衝突はしましたが、私の成績や生活態度で周りから褒められていたので、気分がよかったのでしょう。

そこまでの母からの圧力はありませんでした。

 

と言っても母は、朝ご飯は作ってくれず、私が自分で前の晩からお米を洗い、朝の炊き上がりのセットをし朝起きたら、目玉焼きとご飯を自分で作って食べて学校へ行っていました。

 

家事を、私に関する生活一般のことを気分がいい時はしてくれて、気分が乗らないときはしないということは、もう小さい頃から日常茶飯事でしたが、そんなことはどうでもいい!!

私は、学校が楽しくて毎日が楽しくて幸せでしたニコニコ

 

でも長くは続きませんでした。

長くなったので、また書きます。