「救おうとしたんだ。親父はあんなやつだけど、それでも救いたいと思ったんだ」
 隣でハンドルを握るトンソルは、唐突に話し出す。左手にはあの海が見えて、ハルキの頭にまたぼんやりとした何かが映る。手を伸ばして、それを掴もうとするけれど、もう一歩の所で消えてしまって、もどかしさだけが手に残る。
 「お父さん?亡くなったの?」
 聞いてから、まずいと思った。トンソルが気を悪くして、話を止めてしまうのでは、と怖くなったが、彼は何事もなかったように口を開く。ハルキが言う事なんて、聞こえていないようだった。
 「生きてるよ。何をやっているのか、知りたくもないけど、生きている」
 「そっか、良かった」ハルキはトンソルに笑いかける。トンソルは彼に一瞥をくれただけで、そのまま前を見つめていた。こんな事を思うのはすごくおかしいけれど、顎を引いてフロントガラスを睨む横顔が美しいと、ハルキは思った。マサオのそれとは似ても似つかない、強くて荒い美しさだった。窓の向こう側の海が眩しくて、顔を背ける。
 「親父は無責任だし、利己的で、他人の気持ちなんて考えた事もないような人だった。一度だって父親らしい顔を見たこともないし、隣にいてほしいなんて思ったこともなかった。ただ、やはり俺にはあいつの血が流れてるんだな。よく息子は父親の通った道を行くというけれど、あながち嘘ではないらしい」
 トンソルがどんな事をして生きているのかよく知らないハルキは、何も答える事が出来なかった。何より、無口なトンソルが能弁になっている事に驚く。
 「俺の母親を裏切った上で、他の女も傷つけた。その女にも、俺と同じくらいの息子がいるんだ。どうしようもないだろ」
 「よく分からないけど、トンソルのお父さん、俺の父親にすごく似ているよ。ついこないだ初めて会ったけど、母さんに聞いてた通りの人だった。顔だけ無駄に綺麗で、中身は真っ黒だったよ」
 「また会いたいか?」
 「ううん、もうこりごりだ。元々いなかったんだ、会いたいとも思わない。トンソルと一緒だよ」
 「でも知りたがってる」
 「・・・」
 自分でも分からなかった。あいつのことはどうでもいいと口では言っているけど、事実ハルキはトンソルについてきてまで、母さんの教えてくれないことを知ろうとしている。それでも、会ったばかりのトンソルにそう言われるのには、腹が立った。
 「自分のことを知ろうとするのは、当たり前じゃないか。母さんは何も答えてくれないし、何より俺や母さんを捨てたあいつのことを責めないことに、腹が立つんだ」
 トンソルはしばらく何も語らないまま、車を走らせる。知らぬ間に、海の色が深い瑠璃色から眩いオレンジ色に変わっていた。
 「お前の父親と母親は、今までいた家に住んでたんだ。彼はお前の母さんを愛してたし、それ以上にお前の母さんはお前の父さんを愛してた」
 いきなりハルキの両親のことを話し始めたトンソルに、ハルキは少したじろいだ。それでもすぐに背を正して、トンソルの言葉に耳を傾ける。
 「二人だけじゃなかった。あの家にいたのは。もう一人、女がいたんだ。三人にとって、一緒に住む事が普通だった。お前には、至極奇妙に聞こえるだろうが、三人とっては一緒に住まないことほうが、不自然だった。俺もその場所にいたわけではないから、あの人達の気持ちなんて皆目分からないけれど、ただそれでも、三人が幸せだったことだけは、自信を持って言えるよ」
 相変わらず視線を一寸もずらさないトンソルの口元が、そっとほほ笑んだように見えた。
 「彼女は、二人の事を応援してたし、順位を付けられないくらいに、二人のことが大好きだった。三人の関係は、友情やら恋愛感情やらお前が思いつくような、そんな一言でまとめられるものじゃない。けれど、それを壊すことが起きる」
 聞きたくない、とハルキは思った。トンソルが何を言うかも、そしてそれが何を意味するかも、ハルキには分かった。
 「彼女が、恋に落ちた。止めようとしたけれど、止まらなかった。本当に悔やんでいたよ。それでも、彼女とお前の母親のお腹には命が宿って、そしてそれは、二人を大きく傷つけた。彼女は身を引こうとした。どこか遠い所へ、誰にも見つからないような場所へ、行こうとした」
 「・・・その、彼女は、俺の父親と話をしたの?」
 「いや。想いを伝えるには辛すぎて、忘れるには近すぎた。姿を消すのが、彼女にとっても一番楽だったんだよ。ただ、彼女が去るよりも先に、お前の母親がお前を連れて、消息を絶った」
 「それで、東京に行ったんだね」
 「ああ。君の母親のいなくなった空しい家で、君の父親と彼女は話し合い、彼らもまた別々に生きることを選んだ。君の父親が家を出て、彼女は残ることになった。彼女は自分の犯した過ちを、一番辛い場所で子供を育てることで、君の母親に償おうとしたんだ」
 ハルキは言葉を失った。そして、思いつく。
 「なあ、トンソル。その、子供って」
 「年月が経ち、マサオが君の兄さんの所で、あまり良くないことに巻き込まれていることを、俺は知った」
 トンソルはハルキの言葉を遮って、半ば強引に話し続ける。トンソルを横目で見ると、頭上の標識に目を向けていた。
 「結果だけいうと、俺はあまり褒められないやり方でマサオを取り戻した。安心していい。今俺達を追い回しているあいつらが狙っているのは、お前じゃない。怖い思いをさせて、悪かった」
 ハルキには、トンソルが何か急いでいるように感じた。まるで、もう時間がないみたいに。
 「なあ、どうして、今全てを話そうとするの?言ったじゃないか、一緒にいれば徐々に昔のことが分かるだろうって。なあ、何でだよ」
 「いいか、お前が俺についてきたって、何にもならないんだ。お互い、必要のない存在なんだよ、ハルキ」
 遠くに見える飛行機を見て、トンソルが何を考えているのかがハルキにははっきりと分かった。どうにかして、車を止めさせようとトンソルの腕に掴みかかるけれど、彼の意志はハルキの中途半端な力になんて少しも動かされなかった。
 「なあ、お願いだよ、一緒に行かせてよ。まだまだ、聞いてないことがたくさんあるだろう?お前がどんな人生を生きてきたかとか、どうやってマサオを助けたのかとか、全部話して聞かせてよ!帰らなくたって、何も困ることはないんだ。確かに、俺、邪魔だけど、お前は俺のこと嫌いかもしれないけど、嫌いで当たり前だけど・・・!」
 ハルキはトンソルの腕を痣が出来る程の強さで掴んで、子供のように揺すった。それでも、トンソルは全くハルキに見向きもしなかった。そんな中、車は空港へ着実に足を進ませる。
 「なあ、おい、聞いてんのか?!こっち見ろよ、話してんだろ!なあ・・・」
 ハルキの目から、大粒の涙が零れ落ちて、細身のトンソルによく似合う、黒いジャージの袖を濡らしていく。
 「一緒にいさせてよ・・・」
 車が空港の敷地内に足を踏み入れ、空港内へ続く自動扉がもうすぐそこに見えた。
 「降りないからな、絶対に降りないから」
 そう言って、ハルキは胸の前のシートベルトをぎゅっと握った。トンソルが突然車を今は何も止まっていないシャトルバス用のスペースに寄せ、ハルキの頭にそっと手を乗せる。ハンドルを握っていた細い指からは想像もつかない程に大きな掌が、ハルキを包んだ。
 「必ず、必ずお前を見つけるから。会いに行くから。全て終わったら、もう大丈夫だと思ったら、すぐに会いに行くから。だから、それまで、忘れてくれないか。俺のことも、俺が話したことも、全部。次に会えたら、知りたいこと、何時間かかってもいい、ちゃんと話すから」
 ハルキを見つめる、刺すように真っすぐ瞳は、心なしか滲んでいた。このまま駄々をこねたってどうにもならないことくらい、ハルキにも分かっていた。
 「・・・もういい。帰る」
 ハルキはトンソルの手を振り払って、窓の外を見た。
 「せめてそこのドアまで、送ってってよ」
 窓ガラスを見つめたままハルキはそう言い、トンソルはゆっくりと車を走らせた。国際便用の出口に着いた時、ハルキはぎゅっとトンソルを抱きしめて、そのままドアを開け車に背を向けた。後ろを振り向いたら、また恥ずかしげもなく泣いてしまいそうで、ハルキは少し上を見ながら足早に歩く。後ろで車が走り出す音が聞こえた。



目覚ましの音が鳴る。ハルキはいつものように歯を磨き、髪を整え、スーツを着る。朝ごはんは会社に遅れそうなので、今日は食べない。ふと携帯を見ると、ランプが点滅していた。見るとアキコから、昨日デートをドタキャンした事への怒りのメールが入っていた。何て返そうか少し迷った後、結局見ていないことにしようと画面を閉じて鞄にしまう。時計を見ると、いつも家を出る時間より、5分程遅かった。焦って靴を履こうとするけれど、かえって踵が引っかかる。
あれから、どれほどの時が経っただろう。1か月かもしれないし、5年かも分からなかった。あの時の事はあまりに突然で、日本の地に足を降ろした後どうやって家に辿り着いたのかも、きちんと覚えていない。それこそ本が書けるくらいに突拍子もなかった。
ハルキは外に出て扉の鍵を閉める前に、いつものようにポストを開けた。そこには、一枚の封筒が入っていた。宛名も送り主もない不審な封筒を開けて中身を取り出すと、そこには海をバックに三人の男女の笑った顔が写っていた。アパートから飛び出して辺りを見回したけれど、そこに彼の姿があるわけもなく、また部屋へ向かう。
歩きながら、写真を眺める。そういえば、母さんの部屋の机に貼ってあったな、とふと思い出す。