ここのところ、障害を生きる息子のそばで私が感じることは…。
悲しいという感情。
私は普段はあまり障害という言葉を口しません。
障害は息子を表すものではなく、息子の中にある一面だからかな…。
病院などでは障害があって理解が難しいことはお伝えしていますが…。
今日はそんな私の気持ちを洗いざらいに書いてみたくなりました。
今を生きる中で、どうしてか障害があることを特別なことだと考える人が多いと感じてしまいます。
もちろん全ての方ではありませんが、お話する節々でハンディを生きる息子に対する思いや、私に対する思いに距離を感じる時があるのです。
まずは息子は決して腫れ物ではなくみんなと同じ人間ですと言いたいです。
(あっ💦表現が挑戦的かもしれませんがお許しください。感じたままです。)
寄り添おうとして下さる気持ちが嬉しいけれど、どこか距離が遠くて寂しい…
「障害」は決して特別なものではなくて、誰しも年を取ると必然的に、足が悪くなったり、身体が悪くなる。
認知だってそうで…。
人はだんだんとわかっていたものが、わからなくなる時がきます。
「普通」と言われる人でもいずれは障害を負うことになるのです。
そんな時、あなたはどう思うのでしょうか…と思いました。
話もできず、細かな思いを伝えられず、困りごとを抱えながら自己解決する生き方。
もしあなたなら
側にいて、支えて欲しいと思いませんか❓
助けて欲しいと思いませんか❓
言ってもわからないからと、また何か言ってるわと距離をおかれては悲しくありませんか❓と思いました。
突然自分にできていたものができなくなったらどうしますか❓
障害も目に見える障害と、見えない障害があり、困りごとも一人一人違う。
もう「その人」を理解しよう、助けたいと思ってくださる愛しかないんだと思うのです。
そこには伝わりやすいように専門的と言われる工夫が必要だったりもします。
そして、それを求めたり、して頂いているご本人や家族が申し訳なく思っていることをわかって頂きたいなと思うのです…。
障害は特別なことではないんだと知って欲しいと願ってやみません……。
同じ人間で同じ命で、この世に産まれてきたことを慈しみ、大切に生きてきた仲間なのよと思うのです。
そして、私達が人の手を借りることは許されないのだろうかと悩んでいることも…。
困ったことが出てきたら、障害のせいにされてしまっていると感じてしまう…。
仕方ないとは、家族は思えないのです。
どうにかしてあげたいと思うばかりなのです…。
相談しても悩みは解決されなくて、一つ一つに繋がりがなくて…。
そんな中で、安心できる環境も約束されないなんて、悲しすぎます。
年度年度で環境が変わる、対応が変わる。
どうしても障害をもつ方にも担当して下さる方の好き嫌いがあったりもします。
普通の人もそのように…。
これが甘えになるのだったら、神様は難しい試練を与えすぎだと思ってしまいます。
時々私はわからなくなるのです。
人は元気だったら…
普通だったらよいのかと…
昔娘と行っていた子育て支援センターにいらっしゃった、ハンディをもった男性。
その方は、掃除機をすることがお仕事なのですが、人がいても掃除機をかけてしまうのです。
そこにいた先生がその方に、
「もうここはいいからあっちして。」
と、偉そうに言っていました。
そこにいた子供たちも、
「またあの人やー。」
と言っていて、先生は
「ほんまやなぁ。また来たな。」
と言っていた。
私は娘だけで、障害のある息子はまだいなかったけど、彼が可哀想だと思いました。
「すみません。」と彼が掃除しようとしている場所をのくことしか、あの頃の私にはできませんでした。
子供を育てる場でそのような教育がされているのです…。
それから私はそこの子育てセンターには行かなくなりました。
彼はきっちり仕事をされていたし、今考えると、どれほどの思いで親子さんが心配し、支え、ここまでになられた彼のことを思うと、そんなことも陰ながら乗り越えている彼に、胸が痛みます。
そこで、いつもお掃除ありがとうと伝えれば良かった。
どうして同じ人間なのに、優しい気持ちになれないんだろう。
同じ人間なのに、従わせたりしないで欲しいです。
あなたの家族や子供、あなたの大切な人にいないからなの❓
と考えてしまいます。
私達は恵まれすぎているのかな。
恵まれているから小さな幸せに気が付かないのだと思います。
食べて、座って、自分の思いどうりに身体を動かせ話せることは、当たり前だけど、できなくて痛みも辛さも訴えることができない人がいる。
ダメだとわかっていてもできなくて、注意されてばかりの人もいるんだよ。
「普通」は感謝を忘れ、痛みに気付けない。
私には障害はありません。
だからご本人の辛さはまだわからない所がたくさんあると思います。
(誰でも少なからずの障害はあると思うし、私もあるとは思います。)
ハァー(・´д`・)。
先の人生が見えてたなら、児童心理士さんとか福祉に携わったり、人を助けるお仕事をしていたら良かったなと思います。
息子をより理解できたかもしれません。
今からでも遅くないのかな…。
息子を育てながらそれは難しいでしょ…
そしてそんなに簡単なものじゃない…
人にはそれぞれに役割がある。
これは夢のまた夢だけど、
許されるのなら、産まれ変われたら、人を助けることに生きたい。
そして、愛のある人生を送りたい。
私はもう産まれかわらなくていい、これでおしまいにしたいと思ってたけど、違うかった💦
やりたいことが増えてしまいました。
今の人生では、子供を愛し育てることと、得た学びに葛藤する人生かもしれません。
いやいや、まだまだ私にはこれから先のことなんてわかりません。
ただ、人を愛し大切にたい。
人を癒したい気持ちは深くなるばかりです。
大きな大きな夢だけれど、
「人に頼む前に自分でなんとかしなさい」
の世の中を変えたい。
身近に苦しむ人達に手を差しのべてあげて欲しいです。
小さなことでも必ずして頂いたことは、心にいつまでも残り、忘れるものではありません。
私がそうであるように…。
ここまでブログを書いていたら、いつもメール便を配達して下さるハンディをもつ男性が今さっき来てくれました。
彼は大切にしまわれた袋から、手紙を取り出し、これーと渡してくれました。
「いつもありがとう。」
こんなに感情を込めて伝えられたのは数えるぐらいでしょうか…。
心からの感謝の気持ちが言えました。
私は今日、あの日言えなかったありがとうが言えたのです…。
鏡に写った私は満面の笑みを浮かべていて、こんなに気持ちのこもったありがとうを言える日はそうそうないなと思うと、涙が出てきました。
彼は私に言われて少しビックリしたような照れたような顔をして、玄関のつばめを見上げ、微笑んでいきました。
彼がお母さんから向けられる顔に似ていたのかもしれません。
私が彼に向けた笑顔は、息子に向ける想いそのものでした。
やっぱり神様はいるのかもしれませんね💦
神様にぶつくさ悪口を言う私に学びを与えているのかもしれません。
あなたが選んだ人生なのだよと…。
いつもいつも長々と好き勝手に書いてしまいすみません💦
私の気持ちはとんちんかんだと思います。
ふと思ったのでした。
読んで頂きありがとうございます
悲しいという感情。
私は普段はあまり障害という言葉を口しません。
障害は息子を表すものではなく、息子の中にある一面だからかな…。
病院などでは障害があって理解が難しいことはお伝えしていますが…。
今日はそんな私の気持ちを洗いざらいに書いてみたくなりました。
今を生きる中で、どうしてか障害があることを特別なことだと考える人が多いと感じてしまいます。
もちろん全ての方ではありませんが、お話する節々でハンディを生きる息子に対する思いや、私に対する思いに距離を感じる時があるのです。
まずは息子は決して腫れ物ではなくみんなと同じ人間ですと言いたいです。
(あっ💦表現が挑戦的かもしれませんがお許しください。感じたままです。)
寄り添おうとして下さる気持ちが嬉しいけれど、どこか距離が遠くて寂しい…
「障害」は決して特別なものではなくて、誰しも年を取ると必然的に、足が悪くなったり、身体が悪くなる。
認知だってそうで…。
人はだんだんとわかっていたものが、わからなくなる時がきます。
「普通」と言われる人でもいずれは障害を負うことになるのです。
そんな時、あなたはどう思うのでしょうか…と思いました。
話もできず、細かな思いを伝えられず、困りごとを抱えながら自己解決する生き方。
もしあなたなら
側にいて、支えて欲しいと思いませんか❓
助けて欲しいと思いませんか❓
言ってもわからないからと、また何か言ってるわと距離をおかれては悲しくありませんか❓と思いました。
突然自分にできていたものができなくなったらどうしますか❓
障害も目に見える障害と、見えない障害があり、困りごとも一人一人違う。
もう「その人」を理解しよう、助けたいと思ってくださる愛しかないんだと思うのです。
そこには伝わりやすいように専門的と言われる工夫が必要だったりもします。
そして、それを求めたり、して頂いているご本人や家族が申し訳なく思っていることをわかって頂きたいなと思うのです…。
障害は特別なことではないんだと知って欲しいと願ってやみません……。
同じ人間で同じ命で、この世に産まれてきたことを慈しみ、大切に生きてきた仲間なのよと思うのです。
そして、私達が人の手を借りることは許されないのだろうかと悩んでいることも…。
困ったことが出てきたら、障害のせいにされてしまっていると感じてしまう…。
仕方ないとは、家族は思えないのです。
どうにかしてあげたいと思うばかりなのです…。
相談しても悩みは解決されなくて、一つ一つに繋がりがなくて…。
そんな中で、安心できる環境も約束されないなんて、悲しすぎます。
年度年度で環境が変わる、対応が変わる。
どうしても障害をもつ方にも担当して下さる方の好き嫌いがあったりもします。
普通の人もそのように…。
これが甘えになるのだったら、神様は難しい試練を与えすぎだと思ってしまいます。
時々私はわからなくなるのです。
人は元気だったら…
普通だったらよいのかと…
昔娘と行っていた子育て支援センターにいらっしゃった、ハンディをもった男性。
その方は、掃除機をすることがお仕事なのですが、人がいても掃除機をかけてしまうのです。
そこにいた先生がその方に、
「もうここはいいからあっちして。」
と、偉そうに言っていました。
そこにいた子供たちも、
「またあの人やー。」
と言っていて、先生は
「ほんまやなぁ。また来たな。」
と言っていた。
私は娘だけで、障害のある息子はまだいなかったけど、彼が可哀想だと思いました。
「すみません。」と彼が掃除しようとしている場所をのくことしか、あの頃の私にはできませんでした。
子供を育てる場でそのような教育がされているのです…。
それから私はそこの子育てセンターには行かなくなりました。
彼はきっちり仕事をされていたし、今考えると、どれほどの思いで親子さんが心配し、支え、ここまでになられた彼のことを思うと、そんなことも陰ながら乗り越えている彼に、胸が痛みます。
そこで、いつもお掃除ありがとうと伝えれば良かった。
どうして同じ人間なのに、優しい気持ちになれないんだろう。
同じ人間なのに、従わせたりしないで欲しいです。
あなたの家族や子供、あなたの大切な人にいないからなの❓
と考えてしまいます。
私達は恵まれすぎているのかな。
恵まれているから小さな幸せに気が付かないのだと思います。
食べて、座って、自分の思いどうりに身体を動かせ話せることは、当たり前だけど、できなくて痛みも辛さも訴えることができない人がいる。
ダメだとわかっていてもできなくて、注意されてばかりの人もいるんだよ。
「普通」は感謝を忘れ、痛みに気付けない。
私には障害はありません。
だからご本人の辛さはまだわからない所がたくさんあると思います。
(誰でも少なからずの障害はあると思うし、私もあるとは思います。)
ハァー(・´д`・)。
先の人生が見えてたなら、児童心理士さんとか福祉に携わったり、人を助けるお仕事をしていたら良かったなと思います。
息子をより理解できたかもしれません。
今からでも遅くないのかな…。
息子を育てながらそれは難しいでしょ…
そしてそんなに簡単なものじゃない…
人にはそれぞれに役割がある。
これは夢のまた夢だけど、
許されるのなら、産まれ変われたら、人を助けることに生きたい。
そして、愛のある人生を送りたい。
私はもう産まれかわらなくていい、これでおしまいにしたいと思ってたけど、違うかった💦
やりたいことが増えてしまいました。
今の人生では、子供を愛し育てることと、得た学びに葛藤する人生かもしれません。
いやいや、まだまだ私にはこれから先のことなんてわかりません。
ただ、人を愛し大切にたい。
人を癒したい気持ちは深くなるばかりです。
大きな大きな夢だけれど、
「人に頼む前に自分でなんとかしなさい」
の世の中を変えたい。
身近に苦しむ人達に手を差しのべてあげて欲しいです。
小さなことでも必ずして頂いたことは、心にいつまでも残り、忘れるものではありません。
私がそうであるように…。
ここまでブログを書いていたら、いつもメール便を配達して下さるハンディをもつ男性が今さっき来てくれました。
彼は大切にしまわれた袋から、手紙を取り出し、これーと渡してくれました。
「いつもありがとう。」
こんなに感情を込めて伝えられたのは数えるぐらいでしょうか…。
心からの感謝の気持ちが言えました。
私は今日、あの日言えなかったありがとうが言えたのです…。
鏡に写った私は満面の笑みを浮かべていて、こんなに気持ちのこもったありがとうを言える日はそうそうないなと思うと、涙が出てきました。
彼は私に言われて少しビックリしたような照れたような顔をして、玄関のつばめを見上げ、微笑んでいきました。
彼がお母さんから向けられる顔に似ていたのかもしれません。
私が彼に向けた笑顔は、息子に向ける想いそのものでした。
やっぱり神様はいるのかもしれませんね💦
神様にぶつくさ悪口を言う私に学びを与えているのかもしれません。
あなたが選んだ人生なのだよと…。
いつもいつも長々と好き勝手に書いてしまいすみません💦
私の気持ちはとんちんかんだと思います。
ふと思ったのでした。
読んで頂きありがとうございます