卵巣腫瘍 成熟嚢胞性奇形腫
12月15日に手術を控えている。
腫瘍マーカーの数値から他の臓器の悪性の可能性と、卵巣摘出後に顕微鏡で見てからの良性か悪性かの結果を聞くまでわたしの心は不安定だ。
共感能力の低い母親との関係性から本当に辛い時こそ弱音を吐けないめんどくさい自分の性格にほとほと嫌気が差しながらも、しっかりと意地を張り、手術前日の入院も誰にも頼まずタクシーで行こうかと悩みながら、惨めで悲しく泣く自分がいる。
旦那にも着いて来て欲しいと頼まず、仕事していた方がいいよって言ってしまう可愛くないわたしが、また、より一層自分を惨めにしてしまう。
結局は、自分でコントロール出来ることでしか悩む必要も、悩む意味もないのに、わたしは誰にどんな気持ちをどんな言葉を望んでこんなにも意地を張っているんだろう。
期待するとは、期待されるとは、支配欲とコントロール欲の延長なのに、それでも、わたしは母親や旦那への寄り添いを期待する。
自分から弱音を吐いて素直に伝えるという自分の責任を差し置いて、愛を望む。
愛着の問題って根強いなって、まだ、わたしは母なるものを、言葉にしなくて分かってもらえるという甘えたい欲求を抱えたアダルトチルドレンを生きているのかと、小さな子供のようなおばさんの自分に気付かされる。
自分がどうするか答えはそれしかないのに、悩むならそこしか意味はないのに、悩みの取捨選択も忘れて愛を求めて彷徨う亡霊と化す。
1人じゃ不安だから送ってくれる?
この一言が、喉のあたりで引っかかって出ないまま代わりに涙を出して、また、飲み込む。
誰のせいでもない。
ただ、わたしがこの選択をしているだけだ。
こうすることで何を守っているのか。
傷付くことを恐れて、期待しては母から違う答えが返って来た幼少期の傷を今だに疼かせているんだなと気付く。
旦那はわたしの母ではない。
理解と共感と寄り添いをくれる母を求めても、そんなものどこにもないのに、旦那にもそれと同じものを望んでしまっていた。
悩みの取捨選択。
自分でコントロール出来るのは、自分だけ。
母の言動も、旦那の言動も、それぞれの自由。
頼んで助けてもらえたらありがたい。
忙しかったらタクシーで行けばいい。
ただ、それだけのことを複雑にしているのは誰かに頼るかタクシーで行くかという行動面のことではなくて、素直に弱音が吐けないわたしだけの心の問題なのだろう。
自分を信じて自分のことをこなして行けるほど自立出来ていない寂しさを抱えたアダルトチルドレン。
ここまで気付けたら、あとは忙しい中申し訳ないけど、乗せて行ってもらえる?と母に聞いて、難しいそうならタクシーで行こうという結論になった。
自分を信じて。
自信を持って。
旦那に母親をさせずに、自由に、幸せに、旦那らしく生きれる人生を応援できる奥さんでありたい。
両親も旦那もわたし自身も、まして、子供たちも。
自分らしく幸せに生きれる中で助け合っていけます様に。