瞑想とは何か? 和尚 ラジニーシ
瞑想とは何か? 和尚 ラジニーシ (めるくまーる社出版・講話録 「反逆のスピリット」 より)瞑想は人間の心が引き受ける冒険、最も偉大な冒険だ。瞑想とは、何もせずにただ在ることーー無行為、無思考、無感情の状態だ。貴方はただ在るだけなのに、それは全く喜びとなる。貴方が何もしていないのに、この喜びはどこからやって来るのだろうか?それは、どこからともなくやって来る。それには原因が無い ・ ・ ・ と云うのも、《存在》は喜びと呼ばれる素材で造られているからだ。貴方が全く何もしていないときーー肉体的にも、精神的にも、どのレベルにおいてもーー全ての行為がやみ、貴方がだんだん在り、実存そのものであるとき、それが瞑想の何たるかだ。貴方はそれをすることは出来ない。貴方はそれを習練することは出来ない。貴方はそれを理解しなければならないだけだ。ただ在る為の時間が見つけられる時はいつでも、全ての行為を落としなさい。考えることも行為であり、集中することも行為であり、瞑想することも又行為だ。たとえほんの一瞬でも、何もせず、ただ自分の中心に完全にくつろいでいられるなら、それが瞑想だ。そしてひとたびそのコツを掴んだら、貴方は好きなだけその状態にとどまることが出来る。最後にはその状態に24時間とどまれるようになる。一度貴方が、存在がかき乱されずにとどまることの出来る、その方法に気付いたら、そうしたら徐々に、貴方は自分の存在がかき乱されないことに油断無く醒めたまま、ものごとをやり始めることが出来る。それが瞑想の第二の部分だ。最初、如何にしてただ在るかを学び、それから中心に据わったまま床を掃除したり、シャワーを浴びたりするのだ。やがて貴方はもっと複雑なことをすることも出来るようになる。例えば、私は貴方がたに向かって話しているが、私の瞑想は妨げられない。私は話し続けるが、私の正に中心ではさざ波一つさえ立っていない。それは全く静かだ。完全に静まりかえっている。だから瞑想は行為に対立しない。それは貴方が生から避難しなければならないようなものではない。それは、ただ貴方に新しい生き方を教えるに違いない。つまり、貴方が台風の中心になることを。貴方の生は続く。実際のところ、それはより強烈になって続く。より一層の喜びと、より一層の明晰さと、より一層のヴィジョンと創造性を伴って。・ ・ ・ だが、貴方はただ丘の上の観照者として一人離れたところに立ち、自分の周りで起こっている全ての物事を見守っている。貴方は行為者ではない。貴方は観照者だ。貴方が観照者になるということ、それが瞑想の全てだ。行為が、それ自体のレベルにおいて継続することには、何の問題も無い。木を切り、井戸から水を汲み出すこと、貴方はあらゆる事をすることが出来る。ただ一つのことだけが許されない。それは中心に据わっているという質を見失うことだ。その“気付き”、その注意深さは、絶対に曇らされず、邪魔されないままであるべきだ。瞑想の本質的な核心、その極意は、どのように見守るかを学ぶことにある。カラスが鳴く ・ ・ 貴方はそれを聴いている。これらは二つだ。客体と主体。だが、貴方には両者を見ている観照者が見えないだろうか。カラス、聴く者、なおかつそこには両者を見守っているだれかがいる。それは全く単純な現象だ。貴方は樹を見ているーー貴方はそこにいる。樹はそこに在る。だがもう一つ発見出来ないだろうか? ・ ・ ・ 自分が樹を見ているのを見守っている観照者が貴方の中にいるということを ・ ・ ・ 見守るということが瞑想だ。何を見守るかは問題ではない。貴方は木々を見守ることが出来る。貴方は川を見守ることが出来る。貴方は雲を見守ることが出来る。貴方は子供たちが遊ぶのを見守ることが出来る。見守ることが瞑想なのだ。何を見守るかはポイントではない。対処はポイントではない、見守り、気付き、油断なく醒めているという質 ・ ・ ・ それが瞑想の何たるかだ。一つ覚えておきなさい。瞑想とは気付くことを意味する。気付きながらすることは、何であれ瞑想だ。行為は問題ではなく、貴方が自分の行為に持ち込む質が問題なのだ。もし貴方が油断なく醒めて歩けば、貴方が自分の行為に持ち込む質が問題なのだ。もし貴方が油断なく醒めて歩けば、歩くことは瞑想になりうる。もし貴方が油断なく醒めて座れば、座ることは瞑想になりうる。もし貴方が油断なく醒め、注意深いままであれば、貴方の内面の騒音に耳を傾けることは瞑想になりうる。その核心の全ては、人は眠りの中で動くべきではないということだ。そうすれば、貴方のすることは何であれ瞑想となる。“気付き”の第一歩は、貴方の肉体そのものを注意深く見守ることだ。次第に人それぞれのしぐさ、それぞれの動作に対して、油断なく醒めてくるようになる。そして貴方が気付いてくるにつれ、奇跡が起こり始める。貴方が以前にしていた多くのことが単純に消え失せる。貴方の肉体はより一層くつろぐ。貴方の肉体はより一層調和してくる。深い安らぎが、貴方の肉体をすら覆い始める。玄妙なる音楽が貴方の中で脈打つ。そしたら貴方の思考に気付きはじめなさい。同じことが思考についてもなされなければならない。それらは肉体より微妙だし、もちろんより一層危険でもある。そして自分の思考に気付くようになれば、貴方は自分の内部で起こっていることに驚くだろう。いつでもいいから、起こっていることを書き留めてみれば、貴方は大変な驚きに見舞われるだろう。貴方はそれが自分の内部で起きていることだとは信じられない。そして十分後に、それを読んでごらん。貴方はそこに狂ったマインド(精神) を見るだろう!私達が気付いていないがゆえに、この狂気全体が潮流のように底を流れつづけるのだ。 それは貴方が何をしていようと影響をおよぼす。 それは、貴方が何をしていなくても影響をおよぼす。 それはあらゆる事に影響をおよぼす。そしてその総計が貴方の人生になる!だから、この狂人が変えられなければならない。そして“気付き”の奇跡とは、ただ気付くこと以外に何も必要としない、ということにある。それを見守るという、正にその現象そのものが、それを変えてしまう。次第に狂人の声は細くなり、ゆっくりと思考は一定のパターンの中に落ち着き始める。もはやそこに混沌はない。それらはより宇宙的なものになる。そしてその時再び、より一層深い安らぎが貴方を覆う。そして貴方の肉体とマインド(精神)がくつろいでいるとき、貴方はその二つがお互いに協調しあっているのを知る。そこには橋がある。今や彼らは異なった方向に走っていない。彼らは別々の馬に乗ってはいない。初めてそこに調和がある。そしてその調和は、計り知れないほど第三段階への働きかけを助ける。それは貴方の感覚、感情、気分に気付くようになることだ。それはもっとも微妙な層であり、もっとも難しい。だが、もし貴方が思考に気付けるようになれば、それならそれはあと一歩だ。もう少し強烈な“気付き”があれば、貴方は自分の気分、感情、感覚を映し始める。一度貴方がこれら三つの全てに気付けば、これらは全て一つの現象へと連結される。そしてこれら全てが一つである時 ・ ・ ・ 完璧に一緒に機能し、一緒にハミングしているなら、貴方は三つの全ての音楽を感じることが出来る。それらはオーケストラになっているーーその時、第四のものが起きる。それは貴方がすることの出来るものではない。それはひとりでに起こる。それは全体からの贈り物であり、これら三つの段階をすませた者に対する報酬なのだ。そして第四のものとは、人を覚醒させる究極の“気付き”だ。人は“気付き”に対して気付くようになる。それが第四のものだ。それはブッダを(覚者) を生み出す。そしてその覚醒の中でのみ、人は至福の何たるかを知る。肉体は快楽を知り、精神は幸福を知り、ハートは喜びを知り、第四のものは至福を知る。至福がサニヤス(探求者) であることのゴールであり、“気付き”がそこに至る道だ。注意深くあること、見守るのを忘れないこと、見守って ・ ・ ・ 見守っていることが重要なのだ。すると次第に観照者がより一層固定し、定着し、揺るぎなくなり、変容が起こる。貴方の見守っているものごとが消え失せる。その時初めて、観照者自身が観照されるものとなる ・ ・ ・ 貴方は我が家にたどり着いた。 (水瓶座讃歌 № 36 より)