「ヴィヨンの詩」
冒頭で、茶沢さんがヴィヨンの詩を読む。
これは、原作者の古谷実さんに対する、監督からのアンサーソング的なものではなかろうか。
原作における住田君の台詞は、とても印象深いものが多い。
劇中では、茶沢さんの部屋に貼られた住田語録のポスターから、その一旦を読み取れる。
茶沢さんは、住田君の考え方に共感して、住田君に「ヴィヨン詩集」を渡す。
その後、ヴィヨンの詩を読むのは、住田君になる。
ヴィヨンの詩が、住田君を形容し、住田君の心情をより鮮明にしてく。
牛乳の中にいる蝿、その白黒はよくわかる
どんな人かは、着ているものでわかる
天気が良いか悪いかもわかる
林檎の木を見ればどんな林檎だかわかる
樹脂を見れば木がわかる
皆がみな同じであれば、よくわかる
働き者か怠け者かもわかる
何だってわかる、自分のこと以外なら
自分のことがよく分からないからこそ、世界のことがよく分かると感じるのではないか。
世界とは、実はすごく個人的なものだ。
自分の五感がとらえるもの、それが自分にとっての世界だといえるからだ。
つまり、自分のことを分からない状態とは、基準が存在しない、ということでもあると思う。
自分の意思で何とでも結論づけられるのだ。
中学生は未熟だ。
あの頃は、何の根拠もないのに、漠然とした未来に、夢や希望を抱いて日々を過ごしていた。
でもそれは、私が過ごした環境が、親や学校に守られていたからだと思う。
自分が分からない状態は、ポジティブにとらえれば、なんだって出来る、無限の可能性がある、といえる。
しかし、ネガティブにとらえれば、世界のことが良く見えすぎて、絶望してしまう。
世界を意識し始める時期、それもまた中学生だろう。
それまでのエスカレータ式人生とは異なり、次々と自分の人生について選択を迫られていく。
まだ「答え」もでていないのに。
ポジティブとは、放射であり、ネガティブは、収束であるといえる。
たくさんの「答え」に広がっていくのか、それともたった一つの「答え」に行き着いてしまうのか。
どちらに傾くかは、衝突にかかっていると思う。
物体は、衝突すると動き出す。
それは、ぶつかってきた相手からエネルギーをもらうからだ。
誰かと衝突を繰り返し、人は多くのことを学ぶのだ。
とはいえ、衝突をうけても、その衝撃を吸収してしまう場合もある。
要は、その衝突を否定するという行為だ。
自分が理解できないからといって、否定していては何も生まれないし、何も変わらない。
世界に直面したとき、あなたを受け止めてくれる人が誰かそばにいますか。
あなたに本気でぶつかってきてくれる人が誰かそばにいますか。
人は、一人で生きていくことが出来るかもしれない。
でも、「答え」はきっとそれでは見つからないだろう。
冒頭で、茶沢さんがヴィヨンの詩を読む。
これは、原作者の古谷実さんに対する、監督からのアンサーソング的なものではなかろうか。
原作における住田君の台詞は、とても印象深いものが多い。
劇中では、茶沢さんの部屋に貼られた住田語録のポスターから、その一旦を読み取れる。
茶沢さんは、住田君の考え方に共感して、住田君に「ヴィヨン詩集」を渡す。
その後、ヴィヨンの詩を読むのは、住田君になる。
ヴィヨンの詩が、住田君を形容し、住田君の心情をより鮮明にしてく。
牛乳の中にいる蝿、その白黒はよくわかる
どんな人かは、着ているものでわかる
天気が良いか悪いかもわかる
林檎の木を見ればどんな林檎だかわかる
樹脂を見れば木がわかる
皆がみな同じであれば、よくわかる
働き者か怠け者かもわかる
何だってわかる、自分のこと以外なら
自分のことがよく分からないからこそ、世界のことがよく分かると感じるのではないか。
世界とは、実はすごく個人的なものだ。
自分の五感がとらえるもの、それが自分にとっての世界だといえるからだ。
つまり、自分のことを分からない状態とは、基準が存在しない、ということでもあると思う。
自分の意思で何とでも結論づけられるのだ。
中学生は未熟だ。
あの頃は、何の根拠もないのに、漠然とした未来に、夢や希望を抱いて日々を過ごしていた。
でもそれは、私が過ごした環境が、親や学校に守られていたからだと思う。
自分が分からない状態は、ポジティブにとらえれば、なんだって出来る、無限の可能性がある、といえる。
しかし、ネガティブにとらえれば、世界のことが良く見えすぎて、絶望してしまう。
世界を意識し始める時期、それもまた中学生だろう。
それまでのエスカレータ式人生とは異なり、次々と自分の人生について選択を迫られていく。
まだ「答え」もでていないのに。
ポジティブとは、放射であり、ネガティブは、収束であるといえる。
たくさんの「答え」に広がっていくのか、それともたった一つの「答え」に行き着いてしまうのか。
どちらに傾くかは、衝突にかかっていると思う。
物体は、衝突すると動き出す。
それは、ぶつかってきた相手からエネルギーをもらうからだ。
誰かと衝突を繰り返し、人は多くのことを学ぶのだ。
とはいえ、衝突をうけても、その衝撃を吸収してしまう場合もある。
要は、その衝突を否定するという行為だ。
自分が理解できないからといって、否定していては何も生まれないし、何も変わらない。
世界に直面したとき、あなたを受け止めてくれる人が誰かそばにいますか。
あなたに本気でぶつかってきてくれる人が誰かそばにいますか。
人は、一人で生きていくことが出来るかもしれない。
でも、「答え」はきっとそれでは見つからないだろう。