・犯行前に犯人を逮捕できたら…
『デジャヴ』の主人公のダグ・カーリン捜査官が言った一言。フィリップ・K・ディック原作の『マイノリティ・リポート』に登場する近未来では、そのシステムで主人公の警官が大変な目に遭ってしまうワケだけれど、基本的に警察という組織の人間からするとこれは悲願もいいとこ。
でも、モニターを使用し4日前の事件を解決しようとする際主人公は、橋で事故を起こしまくり何人殺してることか…。それに同僚も亡くしているので、惚れた女性を助けるためにいくつもの犠牲を払っている。
どこか、ダーティハリーならぬダーティダグといったとこである。

・運命を変えようとすると、かえって引き金になる
多くのタイムスリップものがそうであるように、過去に戻れたからと言って常に上手くいくとは限らない。むしろ、全体としては悲観的な結末を迎える作品の方が、ハッピーエンドの作品よりも多い。勿論、何を「ハッピー」と考えるかで意見も変わるけれど、例えば「悪役以外の登場人物全員が幸せな結末を迎える」という作品はあまり観たことがない。
というのも、当たり前だけれど過去の一要素を変えたところで、作品内の事件全体を取り巻く状況は変わらないし、
バタフライ・エフェクトに至っては「過去に戻れる能力を持った主人公のオツムが弱い」というある種の誰も変えられない宿命によって、本来上手く行ったはずの過去の改竄を台無しにし続けてしまう。
外野が「こうすればもっと上手く行った」とか講釈を垂れるのは至って不毛なことなのである。オツムの弱ささえ物語を動かす運命的要素なのだから。
その分『デジャヴ』は、ダグのファシスト的性質がそこまでマイナス要素として働くことなく、比較的スムーズな道のりを辿ることができる。
上手くいかないイライラ感に耐えられない人にはオススメしたいところ。

・既視感
タイトルは『デジャヴ』だけれど、タイムスリップしてしまったら「どこかで見たような状況」という既視感ではなくあからさまに目的的な「既視」になってしまう。と思ってたら…ラストシーンは様々な状況が織りなした結果によって明らかに「デジャヴ」が起こっている。それは見てのお楽しみだけれど、「ああ、なるほどね」というカタルシスを味わうことができるようなラスト。
課題として出ていたので『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』を鑑賞。それにしても何だこの邦題は…。と思ったら、やりたい放題(邦題だけに)にはできない事情があったことを最後の最後に知ることに。

・邦訳:いずれ血にまみれる
 まずこの邦題がどこから来ているのか。旧約聖書の中に預言として"There will be blood"という記述があり、そこから取ったのがこのタイトル。石油を血になぞらえていることと結末を兼ねてこのカタカナにせざるを得なかったんだろうけど…かえって逆効果では。英語としてはともかく、日本語(カタカナ語)としては何の意味も為さない。
ピアース・ブロスナンが出ていた頃の007が全部このパターン(ゴールデンアイは仕方ないとしても)で「何このやっつけ感」と思ったものだけど、やっぱり『バタリアン(原題:The Return of the Living Dead)』ほどぶっ飛んだモノにしなくてもいいから、英語をそのままカタカナに直したのではないそれなりの邦題が欲しいところ。そういえばこのパターンだ『スター・ウォーズ エピソード1 ファントム・メナス』もひどかった。
でも僕が考えるのは面倒なので、単にここでは軽い「カタカナ邦題論」程度にとどめておこうか。

・ブラック企業で石油掘ってるんだが、もう俺は限界かも知れない
 もうこの「ブラック企業」って単語見るだけでウンザリではあるんだけど、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』はワンマン社長による独裁が終始行われる物語。しがない山師が一事業の成功者へと上り詰める話となると、やっぱりその仕事に携わる様々な人間が犠牲となっていく。作業中に死者も出るし、息子は掘削中の事故で聴力を失い、作業場の真上の農場が潰されタダで土地が奪われる。それでも掘削作業は続くし、ダニエルも多くの犠牲に対しそこまで悪びれるところがない。しかも仕事にあまり参加せず酒びたり。真性のサイコパス社長でどこかのアノ人やコノ人を彷彿とさせ、なかなか感情移入しがたい人物。一般的な成功が必ずしも人の幸福感には繋がらないのだということが、彼の生き様から強烈なほどに伝わってくる。ダニエルのことは言えないくらい僕も人間嫌いだけど、いくら成功したとこで周りに誰も慕ってくれる人がいないのは寂しいものがある。

・ダニエルとイーライの関係
 ある意味もう一人の主人公として登場するのがキリスト教をベースとしたカルト教団の教祖イーライ。パフォーマンスで派手な悪魔祓いをし、ダニエルと方向性は違えど金に執着するという曲者。ブラック企業の社長が石油を掘り進め、怪しげな教祖がその辺りを布教して回る…書いてみてメチャクチャな映画だと改めて思わされた。この二人の関連性は一見そこまで無いように見えて、例えば掘りたかった土地の人々がイーライに既に洗脳されていて、石油を掘るためダニエルが渋々入信したり、イーライの家族の土地をダニエルが奪い取ってたりとなかなかドロドロした昼ドラのような関係。石油という自然の法則によって同じ土地に導かれて、結局切っても切れない関係になる両者は、最後まで醜く争い続けることに…。ラスト5分の、ミュージカル映画ばりの二人の怪演に注目。
 地元の映画館でもうじき上映終了らしくあわてて鑑賞した『スカイフォール』。「アカデミー賞射程圏内」とCMで煽られていて、でも007シリーズはいい意味でそういう賞とは無縁じゃないかと思いつつ鑑賞。
結論としては、あながちそれも嘘じゃないなと。007らしさも残しつつ、というか今まで全作品観ているファンは思わずニヤついてしまうような仕掛けが盛り沢山で、しかも現代風にも仕上がっていて。最新作にして最高傑作じゃないかと思ったくらい。
それに所謂「批評家受け」というやつも『スカイフォール』ではバッチリクリアしており、なかなか考えさせる内容でもあったし。
ここではもうネタバレに関して一切躊躇しないことに決めたけれど、今回は禁を破って(って普通逆だよな)核心部分にあまり触れないレビューでいきます。

・007シリーズの過去と現在
 『スカイフォール』でしきりに繰り返されるのが、時間に関してのセリフ。ハイテク化が進んだ現代では冷戦時代のスタイルのスパイやMI6のやり方が古いとMらが審問にかけられるシーンもそうだし、
先代とは真逆で俗にいう「ゆとり世代」丸出しのスレたガキである二代目Qが「ボールペン型爆弾なんてアンティークです」と過去の作品に登場した道具を揶揄するようなセリフをボンドに言ったりもする。
そしてさながら『ゴールデン・アイ』のトレヴェルヤン+『トゥモロー・ネバー・ダイ』のエリオット・カーヴァーといった印象の悪役シルヴァも、現代を象徴するかのように最新鋭の技術を駆使しテロ行為を繰り返していく。彼については後述。
それから前述の通りオマージュも『スカイフォール』ではふんだんに使用されている。OPに至るまでの流れが『007は二度死ぬ』を彷彿とさせ(ついでにOP映像も主題歌もどこか懐かしい)、『ゴールドフィンガー』のオッドジョブに酷似したアジア系のボディガードも登場し、ラスト間際は『女王陛下の007』を思わせる展開(って若干こじつけかな)で、しかもボンドの相棒のアレとアレ(これは観てのお楽しみ)やあの人まで意外な形で登場。多分まだまだ過去作のオマージュはあるんだろうけど、歳のせいか記憶が…。
ディテールで残念だったのは、フィリックス・ライターと"Vodka Martini, Shaken, not stirred(ウォッカ・マティーニ自体は多分登場)"が今回登場しなかったところ…ってそれくらいはいいか。

・二匹の鼠
 『スカイフォール』に登場する、ある意味では過去最強の敵シルヴァの登場シーンでのセリフが「二匹の鼠」。これはつまり、罠にはめられ樽の中に落ちた沢山の鼠が共食いを始め、最後に残った二匹が野に放たれるも元の鼠には戻れず鼠以外を食べなくなってしまったという彼自身の体験に基づくエピソード。
コレはボンドの元MI6の工作員であったシルヴァとボンドの関係でもあり、また足を洗おうにもそれが叶わない工作員の悲しい部分も示している。
シルヴァは任務に失敗しMに見放されたことから彼女を恨み、執念深く追い詰めていく。ただ一方でおかしな愛情をMに抱いていることも見て取れる。
涼しい顔で人を殺したり人を食ったようなセリフの数々といったり、どこかレクター博士やジョーカーのようにサイコキラー的だけれど、これはPTSDによりソシオパス(サイコパスと違って先天性ではなく後天性のもの)になってしまった人間のように見えた。どちらかと言えばベトナム戦争を経て狂人化したランボーや『タクシードライバー』のトラヴィスのようなパターンというか。
性格から戦法、Mへの感情まで何から何まで対照的な二匹の鼠が如何にして喰い合うかも見所。そしてそこで初めて明らかになる「スカイフォール」とは…?

・M=Ma'am?
 先述のような二匹の鼠というだけでなく、Mを母親的な存在とするとボンドとシルヴァは彼女を巡って兄弟喧嘩をしているようにも見える。ボンドの実の母親がMonique=頭文字がMだったことからも、彼が少なからず母親のようにMを見ていたのは明らか。
さしずめボンド=文句を言い悪態をつきながらも結局素直に言うことを聞く弟、シルヴァ=優秀ながらも母親に捨てられ、恨みながらも屈折した愛情を抱く兄といったところ。
ボンドがクレイグに代わってからは完全に仕切り直しということで一人の人間としての側面が強くなったけれど、過去2作を凌ぐほど今回はそれが出ていた。
Mへの感情もそうだし、殺されかけヤケ酒に走り体調が悪化したり、それまでに触れられなかった部分も出たりとシリーズでは異例と言っていいほどかも知れない。
一度観ただけではこの捉えどころのないこの作品がまったく理解できなかった僕だけど、再チャレンジしこの『ノーカントリー』という映画の特性に幾つか気付いたので雑感を書きます。

・"No Country for Old Men"
 邦題は『ノーカントリー』だけれど、原題はそれに"for Old Men"が付いており、言うなれば「老人には故郷(かつての平和だった国)がない」といったところ。
物語はトミー・リー・ジョーンズ演じる、退職を決意した保安官のシーンから始まり、そしてラストシーンも彼が見た夢を語る場面で幕が閉じられる。
結局活躍らしい活躍もなく、大金を持ち逃走するルウェリンも確保できずシガーを追い詰めることさえできなかった彼が何故この扱いなのか。

 詳しくは次項に記すとして、『ノーカントリー』はつまるところ、運命に飲み込まれた哀しい一人の老人の物語なのだというのが僕の持論。
かつては銃さえ携帯しなかった保安官も、シガーをはじめとする得体の知れない犯罪者の増加で当然のように銃を持ち、そうでなければ治安を維持することもできない。
今回この保安官が遭遇した事件を通し、そのことを痛感したため古い考えや人間の出番はもはやなく、形以外はかつての故郷さえ存在しないと引退を決意することとなった。
だが、この星の…ってやかましいわ。

・誰も止められない運命
 『ノーカントリー』はラストも含め全体的に、何だかぶつ切り感というかモヤモヤ感が否めない。
たまたま銃撃戦の現場に出くわし200万ドルもの大金を手にしたルウェリン・モスは途中でアッサリ殺害され脇役同然に舞台から追いやられ、
バナナマン日村に酷似した殺人鬼アントン・シガーも交通事故で突然の退場を余儀なくされる。
メインとなる逃亡者と追跡者を巡る攻防はあまりにぞんざいにさえ見え、何がしたかったのかと理解に苦しむ。

 それでも実はここがミソで、この作品のもう一人の主人公は人間を取り巻く「運命」なのだと再鑑賞時に気付いた。
日常的に起こる、幾つもの偶然が重なったことによる理不尽さに僕も含め様々な人が巻き込まれる。
それを象徴するのがコイントス。シガーは偶然出会った人をいきなり殺すこともあればそのまま逃がすこともある。
彼は世の中が作った「ルール」には目もくれず、日々のコイントス(偶然)の結果今の自分がいるのだという行動規範に従い続ける。
ガソリンスタンドで彼が投げたコイン同様、誰も逆らえないあらゆることが積み重なってここに流れ着いたのだという信念。
単なる快楽殺人者ではなく、復讐に燃える殺人鬼でもなく、あくまで運命に従っただけ。
そういう意味では全く新しいタイプの殺人鬼で、同様に作品も従来の映画の文法を新たな方法でぶち壊した興味深い一作になったのかなと感じた。

 

 参考になるかは分からないけれど、全く分からなかった人にはこの辺りを念頭に置いて観てもらえるとありがたいです。