逼迫した濃密な時間に思考を晒し、
漲る緊張感に身を窶す。
イスラム国家の面影と現代イランの価値観に、
傍観ではない同行を、俯瞰の中にも共振を。


シネマな時間に考察を。

『別離』
2011年/イラン/123min
監督・脚本・プロデューサー:アスガー・ファルハディ
出演:レイラ・ハタミ、ペイマン・モアディ


緻密という言葉だけでは足りない程のディテールが幾重にも積み重なって進行し、緊迫感という言葉だけでは補えない程のスリリングな空気感がスクリーンの端々へと無限大に放射してゆく。

ファルハディ監督の前作『彼女が消えた浜辺』 を鑑賞した時の感慨が蘇る。ポストの中の暗闇からやがて外界のトンネルへと続いていく前作のオープニング映像に対し、本作のタイトルバック映像も実に秀逸だ。往復するスキャニングの刷り込まれるような感覚と、どこか圧されているような閉塞感。一目でイスラム人と解る身分証の写真に掛かる断続的な光のちらつきも意味深長である。冒頭だけでかなり多くを語っている。

シネマな時間に考察を。 前作同様、今回もファルハディ監督による完全オリジナル脚本のドラマである。俳優達の実に細やかなリアリティがせめぎ合う圧倒的な演技力は、一体どんな演出をすれば引き出せるものなのか一寸も想像できぬ程に。彼らの演技はその場の空気をも見事に視覚化してしまう。

細かいカットの多用と絶妙な尺の長回しを併用するそのバランス感覚が巧妙で、ファルハディ監督独特の彼しか持ちえない映画技巧が結実している。

前作では、登場人物それぞれに観ているこちらの魂が渡り歩くような感覚を覚えた。心理描写の緻密さはどちらも変わらないのに、本作において観客の視点は寧ろ俯瞰である。しかしその距離は限りなく近い。遠目ではない。傍観などしていられない緊迫したその距離感で、ラストまで息も付かせず同行させられるのだ。

物語の展開がめくるめく訳ではない。描かれるのはほんの数週間の出来事であり、舞台も変わらず殆どが室内劇である。しかしその構成に至っては重厚で淀みがない。

前作では、蔦のように絡まり合う「自己防衛によるエゴイズム」を提起してみせた。それは観客サイドを巻き込んでのエゴとの対決と言っても過言でなく。欧州化した現代イランであっても、スタックしたタイヤの如く抜け出そうともがけど抜け出せない社会のしがらみを見事に写し取った。

一方、本作で提起するのはエゴとは少し違う。2組の家族を主軸としており、夫婦並びに親子関係における信頼や絆を問いながら、各個人個人の価値観や思惑の違いを浮上させ、互いの心の奥に隠した秘密や嘘、防衛と譲歩と自責の念にぐいぐいと食い込んでいく手法。

自らの価値観に従って彼らは幾度か決断をする場面があるが、最も心を掴まれるのは家政婦ラジエーのこんな場面。認知症の老人が粗相をし、バスルームで着替えるように段どるが老人は自分で何もできない。彼女が手を貸さねばならない状況だ。そこで敬虔なイスラム信者である彼女はイスラムの聖職者と思われる人物に電話で尋ねるのだった。
「罪になりませんか?」と。はっとさせられるヒトコマである。


人としての倫理観を超え、ここでは宗教的な則りが重大な意味を成す。罪ではないか、嘘をついてないか。コーランに手を置いて誓えるのか。

シネマな時間に考察を。 妻は夫に従うべきであり家族は男が養うものであるというのがコーランの教えであるのに、ラジエーは失業中の夫に内緒で家政婦の仕事に来ており、彼女の中では事件の起こる以前に既に後ろめたさや背徳感に苛まれていたのだ。

ナデル側が和解金を支払うことで合意しようという働きかけにラジエーは酷く困惑する。外に出た老人を往来する車から守るために身体を張って撥ねられてしまったことが流産の原因だったかもしれず、そうであれば示談金を受け取ることは罪であり神に背くことになる。だから真実を打ち明けて金は支払わないでくれとナデルの妻シミンに頼んだにも関わらず、宗教にやや懐疑的なシミンはそれを重く受け止めず、後日示談のためにラジエー家を訪問してしまう。コーランに手を置いて流産はナデルのせいだと誓ってくれと言われたラジエーは完全に取り乱す。宗教がゆえの悲劇の終焉。

シネマな時間に考察を。 依然見えない幾つかの真相。
引出の金の行方は?老いた父がベッドの下に倒れ込んだまま喋れなくなったのは本当にラジエーに縛られた手で横転したのが原因だったのか。ラジエーの幼い娘が酸素吸入器に無垢ないたずらをしたせいだったかも知れず。またそれを見て老人が微笑んだ理由は一体?ラジエーが階段で転んだのは追い返そうとしたナデルのせいだったのか否か。この国の将来に不安を覚えるグローバルな考えを持つ母親と、この国に留まり娘にペルシャ語の大切さを教えたいとする父親と、その両親の離婚に際して11歳の娘テルメーが下した最終決断の行方とは。

ここで、観客である我々に迫られるのは何も陪審員としての判決などではない。誰をどう裁くかは全く問題ではない。なぜなら彼らは全員が善人であるからだ。この映画が我々に対峙させるのは、善悪の判定ではなく、罪か罰かでもなく、価値観についての思考である。

イスラム国家イランの面影と、グローバル化する現代イランとの歪による社会問題を深く意識させつつ、万国共通の普遍的テーマとしての命題をも浮き彫りにするという、ファルハディ監督の見事な手腕を今いちど大きく讃えながら。


『別離』:2012年5月8日 元町映画館にて鑑賞


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米国、時の大統領が「悪の巣窟」として名指しさえしたイランから出品された本作を、アメリカアカデミー協会が外国語映画賞のオスカーを与えた事実がただ素直に嬉しい。米国を少し見直した瞬間だった。