ブログというものに掲載するのは人生で初めて。
私の信念【手の届く範囲でいい、「愛」「笑顔」を!今すぐ、できることをする。】
今したいのはこの本を一人でも多くの人に読んでもらうこと。この本には「命」の尊さ「戦争の愚かさ」「人間の絆」が綴られています。このブログを通じて誰かに生きていることの尊さを感じてもらえたなら、その人の「足るを知る」に繋がると思うんです。
少しづつ、ブログを通して読んでみてください
サザーン・クロス「大島欣二追悼録」より(昭和二十三年)
本間日臣
昭和十年の夏休みであった。一高旅行部は富山から北アルプスに入った。剣の眺望、八峰キレットの難所。薬師を経て黒部峡谷から祖母谷温泉へ。更に白馬から鑓へ。そのコースに沿って今なお鮮やかに浮んでくる美しい思い出の花が撒かれていった。││青い空があった。白い雲があった。アイゼンで一歩一歩ふみ越えた雪渓があった。色とりどりのお花畑があった。ザイルで冷汗をかいたロッククライミングがあった。ランプの下に夜のいろりがあった。いろりを囲んで冗談と笑声とがあった。杉、木下両君の屁のひり合いがあった。わなにかかった兎と、かん詰と、ジャックナイフと旺盛な食欲と。
欣二君と私とが親しく接するようになったのはその時が最初だった。どこだっただろう?真昼の山腹だった。眩しい日光だった。ゴロゴロした坂道で低い這い松がまばらに生えていた。遠くに青い山脈が見えていた。我々は仰向けに寝転がって握り飯をかじっていた。遅れた二人がつづら折りの山道を下の方から登って来た。欣二君と武田勝君とであった。彼は細いからだの割には「壁」と呼ばれていた板のような広い背に、頭にかぶさるほど詰めこんだキスリングを背負って一歩一歩近づいて来たが、例のすずやかな微笑を口唇にほころばせながら、手を上げて合図をした。北アルプスの連峰を背にしたこの時の彼の姿は今もはっきりと写真のように私の網膜にやきついている。
だが、学校時代の彼のおもかげについては、他の多数の先輩友人に譲ることにしよう。私には、彼の生涯の最後の半年を、テニアン島で共に過した唯一の友人として、当時の記憶をしるさなければならない義務がある。