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今朝もセレブ出勤ニコニコ昨日はムッチャ残業だったから鍛練は断念ガーン今日は朝から夕方までスケジュールビッシリしょぼん昼飯も食べてる暇もナッシブルしょぼん最初から最後までクライマックスだぜィビックリマーク

今日3月30日は1546年天文15年この頃、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信=後の武田信玄〉が、信濃佐久郡〈海尻城〉(現長野県南佐久市)を攻撃し美容院城将〈井上清定〉〈清野清秀〉〈笠原新三郎清繁〉らは〈海尻城〉から脱出して落城したのだった美容院


更に1551年天文20年この頃、尾張〈中村〉の農民〈藤吉郎=後の豊臣秀吉〉が、亡き父〈木下弥右衛門〉の形見の「永楽銭」一貫文を持って〈清州城〉下(現愛知県清須市)で木綿針を買い、駿河富士山〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川治部大輔義元〉に仕官しようとプンプン遠江へ向かい〈曳馬ひくま〉(現静岡県浜松市)で〈頭陀寺城ずだじ〉(現静岡県浜松市南区)主〈松下加兵衛之綱〉に出逢い仕官し…〈藤吉郎〉は草刈・炭焼・草履売・鍜冶・魚屋・蔵まわり・研など様々な職業を転々としたのだった…


同じ頃、尾張〈那古屋城=後の名古屋城〉主〈織田上総介信長〉が弟〈織田勘十郎信行=織田信勝〉に、亡き父〈織田信秀〉の居城〈末森城〉(現愛知県名古屋市千種区)と宿老〈林佐渡守秀貞=林通勝〉〈林通具〉兄弟〈柴田権六勝家〉らを与えられたのだった。


更に1552年天文21年に〈関東菅領=山内上杉憲政〉が、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏康〉に、上野〈平井城〉(現群馬県藤岡市)を追われ走る人越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈長尾景虎=後の上杉謙信〉を頼った日ニコニコ


〈関東菅領=山内上杉憲政〉は1546年天文15年に〈扇ヶ谷上杉朝定〉と共に〈古河公方=足利晴氏〉ら擁し、関東の諸豪族を糾合の上8万余の大軍で北条方、武蔵〈河越城〉(現埼玉県川越市)を包囲したが〈北条氏康〉の巧みな策と、北条軍8千の夜襲〈河越の夜戦美容院〉で大敗を期して、上野〈平井城〉へと退却して走る人勢力挽回の為プンプン翌年、信濃への侵攻して馬甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信=後の武田信玄〉を討つべくプンプン山内上杉家家臣〈金井小源太秀景〉を大将として、信濃佐久郡へ派兵したが馬


関東菅領軍が〈碓井峠〉方面から接近中との報に接した〈武田晴信〉が、重臣〈板垣信方〉らを差し向け馬〈小田井原の合戦美容院〉(現長野県小諸市)で迎撃されて美容院再び大敗を期してしまったのだったショック!


〈関東菅領職=山内上杉憲政〉は、上野〈平井城〉で、北条氏侵攻への防備を固めていたが…次第に家臣らに見限られ〈北条氏康〉の侵攻を前に〈平井城〉を支えきれなくなりショック!〈三国峠〉を越えて、越後〈春日山城〉主〈長尾景虎=後の上杉謙信〉を頼ったのだった

以降〈山内上杉憲政〉は〈長尾景虎〉に庇護されて、後に〈長尾景虎〉は〈山内上杉憲政〉を奉じてプンプン関東へと度々出陣馬〈北条氏康〉と〈武田信玄〉を相手に、熾烈な戦いを繰り広げていく事になるのであった…

更に1556年弘治2年この頃、尾張〈那古屋城=後の名古屋城〉主〈織田信長〉が三河〈荒川城〉(現愛知県西尾市)を攻撃し美容院〈野寺原〉で駿河富士山〈駿府城〉主〈今川義元〉方の今川軍と遭遇戦となったのだった美容院


更に1563年永禄6年この頃、越後〈春日山城〉主〈関東菅領=山内上杉輝虎=後の上杉謙信〉が、相模〈小田原城〉主〈北条氏政〉隠居〈北条氏康〉父子方の、下野〈結城城〉(現茨城県結城市)主〈結城晴朝〉(小山秀綱弟)を攻撃して降伏開城させたのだった。

更に1564年永禄7年に駿河富士山〈駿府城〉主〈今川氏真〉に対して反旗を翻したプンプン遠江〈曳馬城〉主〈飯尾豊前守連竜〉が、今川重臣〈朝比奈備中守泰朝〉〈瀬名陸奥守氏俊〉〈瀬名中務大輔氏詮〉〈朝比奈兵衛大夫元長=朝比奈政貞=後の朝比奈信置〉らに自身の謀反の疑いの釈明をした日

更に1566年永禄9年この頃、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田勝頼〉家臣〈武藤喜兵衛=後の真田昌幸〉の長男〈真田源三郎=後の真田信幸〉が誕生したのだったケーキ


同じ頃、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田信玄〉が、越後〈春日山城〉主〈関東菅領=山内上杉輝虎=後の上杉謙信〉方の、上野〈白井城〉(現群馬県渋川市)主〈白井城〉将〈長尾憲景〉を攻撃開始したが苦戦を強いられたのだった…


更に1570年永禄13年この頃、遠江〈堀江一揆〉が勃発して〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉が鎮圧したのだった。

更に1573年元亀4年この頃、越前〈一乗谷城〉(現福井県福井市)主〈朝倉義景〉が、美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田信長〉の越前侵攻を警戒して〈敦賀〉へ出陣し馬次いで三方郡〈佐柿〉まで出兵したのだった馬


同じ頃、天下統一を推し進める〈織田信長〉に屈伏し次男〈織田茶筅丸ちゃせんまる=後の織田信雄〉を養継子と定め隠居、剃髪した〈伊勢国司=北畠具教〉が反〈織田信長〉の意図で、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信入道信玄〉に密使を派遣したのだった…


更に1574年天正2年に甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田勝頼〉が三河〈足助城〉(現愛知県豊田市)を攻撃し美容院引き続き、遠江〈浜松城〉主〈徳川家康〉に奪取された〈長篠城〉(現愛知県新城市)将〈奥平九八郎貞昌〉攻めに向けた軍事行動を開始したのだった馬


同じ頃、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田勝頼〉が信濃木曽郡〈福島城〉(現長野県木曽郡木曽町)主〈木曽義昌〉(武田信玄娘婿)家臣〈山村良利〉〈山村良候やまむらよしとき〉父子に、かつて亡き父〈武田信玄〉が東美濃で与えた知行分を安堵しニコニコ同じく、かつて〈桶狭間の合戦美容院〉で討ち取られた亡君〈今川義元〉の首級返還を〈織田信長〉に要求して前線の尾張〈鳴海城〉(現愛知県名古屋市緑区)に籠城し続け首級を返還され〈駿府城〉へ帰還した忠臣〈岡部元信〉にも知行を与えた日。


更に1576年天正4年にこの頃、天下統一を推し進める〈織田信長〉と摂津大坂〈石山本願寺〉(現大阪城)の間で結ばれた第二次和睦が破られ〈石山本願寺〉が三度目の挙兵におよび〈木津〉〈難波〉に城を構えて織田軍の反攻に備えたのだったプンプン


更に1578年天正6年に軍神〈上杉謙信〉亡き後の〈御館の乱美容院〉で、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈上杉景勝〉(上杉謙信甥・長尾政景嫡男)が〈上杉景虎〉(北条氏康七男)の要請を受けた、相模〈小田原城〉主〈北条氏政〉軍の越後侵攻に備えてガーン越後〈坂戸城〉(現新潟県南魚沼市)将〈深沢利重〉に上野国境の守備の厳重化を命じた日。


同じ頃、摂津大坂〈石山本願寺〉が、織田軍との〈石山合戦美容院〉において、中核の戦闘傭兵集団の紀伊〈雑賀衆〉に再三にわたり〈淡路島〉の〈岩屋城〉(現兵庫県淡路市)への出兵を要請したのだった。


同じ頃、伊勢〈田丸城〉(現三重県度会郡玉城町)主〈北畠(織田)信雄〉のもとに伊賀郷士〈下山甲斐守〉が訪れて、伊賀攻めの手引きを申し出たことから〈北畠(織田)信雄〉はニコニコ近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)の父〈右大臣=織田信長〉への功名心から、家臣〈滝川三郎兵衛雄利〉に伊賀〈丸山城〉(現三重県伊賀市)修築を命じ〈第一次伊賀攻め美容院〉のきっかけとなるのだった…


同じ頃〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉に反旗を翻したプンプン播磨〈三木城〉(現兵庫県三木市)主〈別所長治〉方の支城〈志方城〉(現兵庫県加古川市)主〈櫛橋伊定くしはしこれさだ〉(黒田官兵衛孝高の舅)も〈別所長治〉に内通して〈志方城〉に籠城したのだったプンプン


更に1580年天正8年に信濃小県郡〈松尾城=真田城〉主〈真田安房守昌幸〉が、上野吾妻郡〈岩櫃城〉(現群馬県吾妻郡東吾妻町)の大叔父〈矢沢薩摩守頼綱〉(真田幸隆次男)に、上野〈沼田城〉(現群馬県沼田市)を攻略させて美容院〈名胡桃城〉(現群馬県利根郡みなかみ町)主〈鈴木主水重則〉〈小川城〉(現みなかみ町)主〈小川可遊斎〉らを味方つけた日。


同じ頃、天下統一を推し進める〈前右大臣=織田信長〉に反旗を翻したプンプン摂津〈有岡城〉(現兵庫県伊丹市)主〈荒木村重〉は織田軍重囲下、安芸〈吉田郡山城〉主〈毛利輝元〉に救援を要請すべく、前年11月夜陰やや欠け月に紛れて〈有岡城〉に妻子を残したまま秘かに脱出して〈尼崎城〉(現兵庫県尼崎市)に入城した後、備後〈尾道〉へと逃れて、安芸〈吉田郡山城〉主〈毛利輝元〉を頼り〈尾道〉の〈西郷寺〉(現広島県尾道市)で茶の湯の道に修身していったのだった…


更に1583年天正11年に山城〈山崎城=天王山〉(現京都府乙訓郡大山崎町)主〈羽柴秀吉=後の豊臣秀吉〉が伊勢〈桑名城〉(現三重県桑名市)主〈滝川左近将監一益〉を攻めるべく出陣し馬北近江〈長浜城〉(現滋賀県長浜市)で〈柳ヶ瀬〉一帯に布陣する、越前〈北ノ庄城〉(現福井県福井市)主〈柴田勝家〉率いる北国軍との天下分け目の決戦を前にプンプン〈木之本〉(現滋賀県長浜市木ノ本町)に布陣する馬舎弟〈羽柴秀長〉と軍師〈黒田官兵衛孝高〉らにプンプン自陣の砦周囲の小屋の撤去するよう命じプンプン空き地へ翌日〈羽柴秀吉〉本隊が着陣するまで撤退してはならない!と厳命した日プンプン


更に1584年天正12年この頃、播磨で後の剣豪〈宮本武蔵〉が誕生したのだったケーキ


同じ頃、摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)主〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉の命により、重臣〈蜂須賀小六正勝〉と軍師〈黒田官兵衛孝高〉らが和睦した、安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉の外交僧〈安国寺恵瓊〉との領国境界画定に赴き決定させたのだった。


更に1587年天正15年この頃、天下人〈関白=豊臣秀吉〉による、薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉征伐で美容院〈羽柴秀康=後の結城秀康〉(徳川家康次男)14歳が
初陣した日馬


更に1600年慶長5年3月16日にオランダ商船船〈リーフデ号〉が船豊後〈臼杵うすき〉(現大分県臼杵市)に漂着し船このときのオランダ船船の日本来航は初めてであった為ショック!摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)の豊臣政権に注進され馬豊臣家五大老筆頭〈内大臣=徳川家康〉は、和泉〈堺〉(現大阪府堺市)への回航を命じたのだったしょぼんパー


そして〈内府家康〉が〈ウィリアム・アダムス〉〈ヤン・ヨーステン〉らに、摂津〈大坂城〉内で謁見して〈リーフデ号船〉乗組員が使用していた西洋甲冑と兜を武蔵〈江戸城〉(現皇居)に送り、甲冑師に和風の鎧兜の製作を命じた〈リーフデ号船〉が登載していた大砲20門を陸上げさせた日

同じ頃、信濃〈川中島〉へ加増転封となった〈森忠政〉(森可成六男)が〈善光寺平=川中島〉に、かつて〈武田信玄〉の軍師〈山本勘介入道道鬼〉が築城した〈海津城〉を〈松代城〉(現長野県長野市)と改名したのだった。


更に1615年慶長20年に亡き〈浅野幸長〉(浅野長政嫡男)息女〈春姫=高原院〉が尾張〈名古屋城〉(現愛知県名古屋市)主〈徳川義利=後の徳川義直〉(徳川家康九男)との婚儀のため紀伊〈和歌山城〉(現和歌山県和歌山市)を発った日。


更に1617年元和3年この頃、信濃小県郡〈上田城〉(現長野県上田市)主〈真田伊豆守信之〉(真田昌幸長男)が居城を上野〈沼田城〉(現群馬県沼田市)から再び〈上田城〉に移し、嫡男〈真田信吉〉を〈沼田城〉主としたのだった。


〈真田信吉〉正室は当初〈長篠設楽ヶ原の合戦美容院で討死した真田家長男〈真田源太左衛門信綱〉息女〈清音院〉だったが…徳川幕府の天下では片身が狭くショック!〈真田信之〉が〈二代将軍=徳川秀忠〉の幕閣重臣〈酒井忠世〉息女〈松仙院〉を正室に迎えさせたのだった…


よって件の如しビックリマーク
恐々謹言弥生三十日
太閤
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今朝もセレブ出勤ニコニコ昨日は無駄な残業させられたからしょぼん帰還して急ぎ体育館JYM鍛練に出陣車此度はまづ肩三角筋鍛練ケーブルサイドレイズ30㌔負荷左右各6setづつ各計70回づつ+再び肩三角筋鍛練ダンベルアーノルドプレス22㌔負荷6set計50回+肩三角筋後部鍛練ダンベルリアレイズ14㌔負荷5set計100回+肩三角筋前部鍛練ダンベルフロントレイズ14㌔負荷4set計40回鍛練仕り申したぜィビックリマーク
p(^^)q


今日3月29日は1537年天文6年に相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏綱〉が、駿河富士山〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川義元〉方の奥三河〈作手城〉(現愛知県新城市)主〈奥平九八郎貞勝〉に遠江〈井伊谷城〉(現静岡県浜松市北区)主〈井伊〉や〈見付端城〉(現静岡県磐田市)主〈堀越氏延〉らと〈今川義元〉に反旗を翻すよう要請した日。

更に1547年天文16年に〈室町幕府第12代将軍=足利義晴〉〈足利義藤=後の将軍義輝〉父子が〈室町幕府管領=細川晴元〉を捨てて〈細川氏綱〉と手を結び〈近衛稙家このえたねいえ〉ら公家衆や幕臣9百余騎と共に〈細川晴元〉討伐の為プンプン京都〈北白川城〉(現京都府京都市左京区)に入城した日馬


更に1556年弘治2年に〈室町幕府第13代将軍=足利義輝〉が、越前〈一乗谷城〉(現福井県福井市)主〈朝倉義景〉に、摂津大坂〈石山本願寺〉(現大阪城)と和睦して加賀より撤退するよう勧めた日。


更に1560年永禄3年に越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈長尾景虎=後の上杉謙信〉が、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信入道信玄〉に内通した、越中〈富山城〉(現富山県富山市)主〈神保長職じんぼながもと〉を討伐すべくプンプン〈松倉城〉(現富山県魚津市)主〈椎名康康胤〉を支援して〈富山城〉を攻撃した日美容院


更に1563年永禄6年に越後〈春日山城〉主〈関東菅領=山内上杉輝虎=後の上杉謙信〉が、相模〈小田原城〉主〈北条氏政〉方に内応した、下野〈小山城〉(現栃木県小山市)主〈小山秀綱〉を攻撃し美容院〈小山秀綱〉は嫡男〈小山小四郎政種〉を人質に差し出して降伏開城したのだった。


更に1569年永禄12年に安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利元就〉が筑前の戦線の総指揮を執るべく出陣したのだった馬


同じ頃、豊後〈府内城〉(現大分県大分市)主〈大友義鎮入道宗麟〉重臣〈戸次鑑連べっきあきつら=後の立花道雪〉〈臼杵鑑速うすきあきはや〉〈吉弘鑑理よしひろあきまさ〉ら大友軍が、肥前〈佐賀城〉(現佐賀県佐賀市)主〈龍造寺隆信〉攻めを開始したのだった美容院


更に1573年元亀4年に〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉幕臣〈細川藤孝〉と〈荒木村重〉が〈将軍義昭〉を見限り、近江へ進軍して来た美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田弾正上信長〉に臣従する為、近江〈逢坂おうさか〉(現滋賀県大津市)で〈織田信長〉上洛を出迎え〈粟田口〉に〈霧鴨川霧=三条河原〉に織田軍が着陣し馬〈織田信長〉は〈知恩院〉(現京都府京都市東山区)に本陣を敷いた日馬


一方〈将軍義昭〉は京都洛中〈二条城〉(現京都府京都市上京区)に籠城して守備を固め臨戦態勢に入ったのだった。


更に1577年天正5年に越後〈春日山城〉主〈関東菅領=山内上杉輝虎入道謙信〉が、上野〈沼田城〉(現群馬県沼田市)代〈河田重親〉に対して、執政家老〈直江大和守景綱〉を関東に後詰めとして出兵させると伝えた日。


更に1578年天正6年に「天下布武」のもとプンプン天下統一を推し進める〈織田信長〉に京都を追放された〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉を奉じる、安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉討伐に、家臣〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉を差し向けて馬播磨〈姫路城〉(現兵庫県姫路市)に入城した〈羽柴秀吉〉は、軍師〈黒田官兵衛〉の調略により、播磨の国衆達が悉く織田家の味方となっていったが…2月突如、播磨〈三木城〉(現兵庫県三木市)主〈別所長治〉が毛利方に内応して織田家に反旗を翻した為、中国経略は早々頓挫する形となってしまったガーン

その為〈羽柴秀吉〉は3万の大軍を率いて馬播磨〈書写山しょしゃざん〉(現兵庫県姫路市)に本陣を敷いて〈三木城〉の〈別所長治〉が、畿内の織田方との補給路を遮断するのを恐れてガーン1万の軍勢を反転させ馬〈平井山〉(現兵庫県三木市)に本陣を敷いてプンプン5千の〈三木城〉を包囲し馬〈三木城〉の支城〈淡河城おうご〉(現兵庫県神戸市北区)〈神吉城かんき〉(現兵庫県加古川市)〈志方城〉(加古川市)〈高砂城〉(現兵庫県高砂市)〈野口城〉(加古川市)と3月29日から城攻め開始した日美容院


更に1581年天正9年に甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田勝頼〉方〈小浜景隆〉率いる武田水軍船が、伊豆〈久竜津〉(現静岡県沼津市)を攻撃して美容院伊豆〈長浜城〉(現静岡県沼津市)の〈梶原備前守景宗〉率いる北条水軍船と海戦で撃退した日美容院


更に1582年天正10年に3月11日〈武田勝頼〉〈武田信勝〉父子を攻め滅ぼした〈秋田城介=織田信忠〉が信濃〈法華寺〉(現長野県茅野市)に本陣を敷く父〈前右大臣=織田信長〉に参上しm(__)m武田旧領知行割り当てを行いニコニコ〈徳川家康〉に駿河富士山を〈河尻秀隆〉に、徳川方に内応した〈穴山信君入道梅雪〉領を除外した甲斐及び信濃諏訪郡を〈滝川左近将監一益〉に信濃小県郡・佐久郡と上野を〈森長可〉(森吉成長男・森蘭丸兄)には信濃高井郡・水内郡・更科郡・埴科郡を、織田方に降った〈木曽義昌〉に信濃木曽郡を安堵し、新たに安曇郡・筑摩郡を〈毛利秀頼〉に信濃伊那郡を与えニコニコ信濃・甲斐の関所を廃止し道路普請を命じた日。


更に1584年天正12年に摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)主(羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉)が、尾張〈清州城〉(現愛知県清須市)主〈織田信雄〉遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉との対決のためプンプン尾張〈楽田城〉(現愛知県犬山市)に入城すると馬〈織田信雄〉は〈小牧山城〉(現愛知県小牧市)に移陣し馬〈徳川家康〉は〈田楽砦〉(現愛知県春日井市)を築いて〈小牧山城〉への軍道を整備した日。


更に1585年天正13年この頃、筑前〈古処山城〉(現福岡県朝倉市)主〈秋月種実〉が、豊後〈府内城〉主〈大友義統〉隠居〈大友宗麟〉重臣〈立花(戸次)鑑連入道道雪〉が筑後へ出陣中の隙を突いて、筑前〈立花山城〉(現福岡県福岡市東区)を攻撃するも美容院留守居の婿養子〈立花(高橋)統虎=後の立花宗茂〉(高橋鎮種入道紹運嫡男)が秋月勢を撃退したのだった美容院


更に1586年天正14年この頃、天下人〈関白=豊臣秀吉〉の京都政庁〈聚楽第じゅらくてい〉(現京都府京都市上京区)の堀工事が開始され、京都洛中に〈千人斬り〉が出没し出したのだった…


同じ頃、摂津〈大坂城〉に登城して来た薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉の使者として家臣〈鎌田政近〉に対して〈関白秀吉〉は占領地の過半を豊後〈府内城〉主〈大友義統〉(大友宗麟嫡男)へ返還するとした国分け案の条々を提示したのだったニコニコ当然〈関白秀吉〉の国分け案に憤激した〈島津義久〉は拒絶しプンプンパー〈島津征伐美容院〉の口実となるのであった…


更に1587年天正15年に天下人〈関白秀吉〉による薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉征伐で美容院〈大和大納言=豊臣秀長〉軍が馬島津方の北日向〈松尾城〉(現宮崎県延岡市)を攻略し美容院〈関白秀吉〉本隊が豊前〈馬嶽〉(現福岡県行橋市)に着陣した日馬


同じ頃、キリシタンとなった軍師〈黒田官兵衛孝高〉の影響により、嫡男〈黒田長政〉も豊後においてキリスト教に入信したのだった

更に1590年天正18年に、亡き〈織田信長〉の意志を継いで天下統一を推し進める天下人〈関白秀吉〉による「関東奥羽惣無事令そうぶじれい」(私戦停止令)に違反し、既に〈関白秀吉〉に臣従していた、信濃〈上田城〉(現長野県上田市)主〈真田昌幸〉方の、上野吾妻郡〈名胡桃城なぐるみ〉(現群馬県利根郡みなかみ町)を奪取した、相模〈小田原城〉主〈北条氏直〉隠居〈北条氏政〉父子に宣戦布告した〈関白秀吉〉はプンプン全国の諸大名に〈小田原征伐美容院〉を布告しプンプンパー〈駿河富士山大納言=徳川家康〉を先鋒として、東海道を東へ怒涛の如く進軍していた馬


その為、北条方が豊臣方の大軍を迎え討ちプンプン本城〈小田原城〉を防衛する為、天然の要害〈箱根峠〉に築城された〈山中城〉(現静岡市三島市)将〈松田康長〉を〈関白秀吉〉の甥〈豊臣秀次〉率いる〈中村一氏〉〈山内一豊〉〈一柳直末〉軍が攻撃し美容院豊臣方〈一柳直末〉が討死しながらもショック!僅か反日で〈山中城〉が落城玉砕した日美容院


同じ日〈織田信雄〉を総大将とする〈麒麟児=蒲生氏郷〉らが馬伊豆〈韮山城〉(現静岡県伊豆の国市)主〈北条美濃守氏規〉(北条氏康四男)攻めが開始された日美容院


そして北条方〈足柄城〉(現静岡県小山町)将〈北条氏光〉(北条氏康八男)は、多勢に無勢で抵抗しきれないと判断しガーン〈小田原城〉へ撤退してしまった為走る人これにより〈関白秀吉〉軍は、なんなく〈箱根湯本〉(現神奈川県箱根町)にまで到達し馬北条氏歴代当主の菩提寺〈早雲寺〉(現神奈川県足柄下郡箱根町)を本陣に定めたのだった…


一方北条方は〈上杉謙信〉〈武田信玄〉の相次ぐ攻撃をも、難攻不落の〈小田原城〉での籠城戦で退けた自信と、鎌倉時代以来の「坂東武者」の誇りに賭けてプンプン上方勢を迎え討つべくプンプン抗戦の構えでプンプン同盟関係の陸奥会津〈黒川城〉(現福島県会津若松市)主〈独眼竜=伊達政宗〉からの援軍を頼みとしているのであった…


よって件の如しビックリマーク
恐々謹言弥生二十九日
太閤
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どぉもどぉもアップアップアップ


今朝もセレブ出勤ニコニコ昨日は自粛生活して夕方から体育館JYM鍛練に出陣車まづは広背筋・大円筋鍛練フロントプルダウン57㌔負荷5set計60回+リバースラットプルダウン57㌔負荷5set計60回+再び広背筋・大円筋鍛練シーテッドロー30㌔負荷9set計108回+再び広背筋・大円筋鍛練バックプルダウン57㌔負荷5set計50回+


ウォーキング2.1キロ走る人+腹斜筋鍛練インクラインサイドベント15㌔負荷左右各5setづつ各計110回づつ+腹直筋鍛練デクラインシットアップ4set計100回+ラスト腰脊柱起立筋鍛練バッグエクステンション1set計50回鍛練仕り申したぜィビックリマークp(^^)q


今日3月28日は1550年天文19年に摂津〈越水城〉(現兵庫県西宮市)主〈三好長慶〉と〈伊丹城〉(現兵庫県伊丹市)主〈伊丹親興〉が、河内〈若江城〉(現大阪府東大阪市)主〈畠山政国〉重臣〈遊佐長教〉(三好長慶岳父)の仲介により〈本興寺〉(現兵庫県尼崎市)で和睦した日。


更に1551年天文20年この頃、尾張〈那古屋城=後の名古屋城〉主〈織田上総介信長〉に〈荒子城〉(現愛知県名古屋市中川区)主〈前田利昌〉四男〈前田犬千代=後の前田利家〉14歳が仕官したのだった。


更に1574年天正2年に「天下布武」のもと天下統一を推し進める〈織田信長〉が、大和奈良〈多聞山城〉(現奈良県奈良市)で〈東大寺=正倉院〉収蔵の名香木〈蘭奢待らんじゃたい〉を切り取った日。


奈良時代〈聖武天皇しょうむ〉所縁の〈東大寺=正倉院〉(現奈良県奈良市)に秘蔵されていた「伽羅きゃら」の香木〈蘭奢待〉はニコニコ長さ1.5㍍重さ13㌔で、時の歴代天下人から所望されてもパー朝廷から「勅許ちょっきょ」(天皇の許認可)を得られなかった代物で、史上〈室町幕府第8代将軍=足利義政〉から数えて、既に100年ちかく「勅許」が出ていなかったが…天下統一を果たしてもいない〈織田信長〉が、自らの権力を内外に見せつける権威の象徴となるプンプン朝廷の宝物〈蘭奢待〉を朝廷に奏上、所望したのだったプンプンパー


〈比叡山=延暦寺〉をも、焼き討ちする程の〈織田信長〉を恐れる朝廷は汗この〈織田信長〉からの申し出に致し方なくガーン「勅許」を下したのだった…


そして〈織田信長〉は「蘭奢待」を〈多聞山城〉に運ばせて一寸八分(約5.5㌢)に切り取り4月3日京都洛中〈相国寺〉で茶会を開催し〈千宗易=後の千利休〉〈津田宗及つだそうぎゅう〉らを招いてニコニコ一階の商人で茶人達に、朝廷秘蔵の「蘭奢待」を切り取って与えた上に〈織田信長〉は、その「蘭奢待」を〈正親町天皇〉に献上したのだった

〈正親町天皇〉は、届けられた木片を見て「不覚にも正倉院を開けられてしまった」と悔しさを露にしてしょぼん〈織田信長〉への無言の抗議の意味を込めて、織田家と敵対中の安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉に木片を贈ったのだった。


更に1575年天正3年に天下統一を推し進める〈右大臣=織田信長〉が養女を〈関白=二条晴良〉嫡男〈大納言=二条昭実〉に嫁がせ縁戚と成した日ドキドキそして織田家嫡男〈織田信忠〉に朝廷は「出羽介=秋田城介」に任じたのだった。


更に1579年天正7年この頃、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田四郎勝頼〉が遠江へ侵攻し馬〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川三河守家康〉軍と対峙したのだった馬


更に1581年天正9年に北近江〈長浜城〉(現滋賀県長浜市)主〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉が〈長浜城〉下の商人に日本海波での自由運航を許認可し、若狭・丹後の海賊衆の不法行為に備えさせた日。


更に1582年天正10年に相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏直〉の父親〈北条氏政〉が〈前右大臣=織田信長〉との好を深くせんことを伊豆〈三島神社〉に祈願した日。


更に1583年天正11年に〈本能寺の変美容院〉後の混乱に乗じた信濃・甲斐・上野・駿河富士山の武田旧領をめぐる〈天正壬午の乱美容院〉で、遠江〈浜松城〉主〈徳川家康〉が甲斐〈古府中=甲府〉に在って馬服属した、信濃諏訪郡〈高島城〉(現長野県諏訪市)主〈諏訪頼忠〉に諏訪郡を安堵し、家臣〈柴田康忠〉を〈高島城〉代に任じた日。


更に1584年天正12年に摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)主〈羽柴秀吉=後の豊臣秀吉〉が、尾張〈清州城〉(現愛知県清須市)主〈織田信雄〉遠江〈浜松城〉主〈徳川家康〉連合軍と対決すべくプンプン尾張に進軍して〈楽田城〉(現愛知県犬山市)に入城馬対する〈徳川家康〉は〈小牧山城〉(現愛知県小牧市)に布陣して馬両軍は長期間対峙しと戦線は膠着状態になった日。


更に1587年天正15年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉によるプンプン薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉征伐で美容院〈関白秀吉〉本隊が長門〈赤間関〉(現山口県下関市)から関門海峡を渡り船豊前〈小倉〉に着陣し馬奉行〈大谷刑部少輔吉継〉が〈吉川広家〉(吉川元春次男)に翌日には、筑前〈古処山城〉(現福岡県朝倉市)主〈秋月種実〉攻めに出陣する旨を伝達し、豊後に進軍した舎弟〈大和大納言=豊臣秀長〉〈宇喜多秀家〉らに日向へ進軍を命じ〈関白秀吉〉本隊は筑前→肥後へ進軍すると通達した日。


更に1590年天正18年に天下人〈関白秀吉〉による〈小田原征伐美容院〉で、相模〈小田原城〉主〈北条氏直〉方の箱根峠に築城された支城〈山中城〉(現静岡県三島市)と伊豆〈韮山城〉(現静岡県伊豆の国市)を〈関白秀吉〉と〈駿河大納言=徳川家康〉が巡察して〈織田信雄〉に〈韮山城〉主〈北条美濃守氏規〉(北条氏康四男)を、甥〈豊臣秀次〉に〈山中城〉将〈松田康長〉攻略を命じた日

同じ日〈小田原征伐美容院〉における、西上野〈松井田城〉(現群馬県安中市)将〈大道寺駿河守政繁〉〈大道寺直繁〉父子を〈前田利家〉率いる北国軍〈真田安房守昌幸〉〈真田伊豆守信幸〉〈真田左衛門佐信繁=真田幸村〉父子が攻撃するも〈松井田城〉は持ちこたえ、一方北国軍総大将〈前田利家〉軍は、武蔵〈八王子城〉(現東京都八王子市)への攻撃を開始した日。


〈八王子城〉主〈北条陸奥守氏照〉(北条氏康三男)は〈小田原城〉に主力軍を率いて入城中で留守居の将〈中山勘解由家範〉らが守備していたのだった…


更に1601年慶長6年に前日朝廷が、摂津〈大坂城〉主〈豊臣秀頼〉を「権大納言」に任じた翌日〈豊臣秀頼〉正室〈千姫〉(徳川秀忠長女)に一日遅れて同じく「権大納言」に任じた日。


更に1611年慶長16年に〈大御所=徳川家康〉が、京都洛中〈二条城〉(現京都府京都市中京区)で〈右大臣=豊臣秀頼〉と対面会談した日ニコニコ〈徳川家康〉は1605年慶長10年に「征夷大将軍」を嫡男〈徳川秀忠〉に継がしめニコニコ亡き〈太閤=豊臣秀吉〉の遺児〈豊臣秀頼〉に対して、新将軍就任祝賀の挨拶に、京の都への上洛を要請したが、亡き〈太閤秀吉〉の側室で嫡男〈豊臣秀頼〉の母親〈茶々=淀殿〉や、豊臣家側近らの猛反対でプンプンパー上洛挨拶の実現は難航していたが…


6年後〈大御所=徳川家康〉は、再び摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)主〈豊臣秀頼〉に、京都への上洛を要請したがパーこれにも〈淀殿〉らが再び猛反対したがプンプンパー今度拒否すればショック!徳川幕府に開戦の口実を与え、軍事衝突美容院は必至だとショック!亡き〈太閤秀吉〉恩顧の家臣〈加藤清正〉〈福島正則〉〈浅野幸長〉らと、亡き〈太閤秀吉〉の正室〈北政所=ねね〉必死の説得で〈淀殿〉も了承しショック!〈北政所〉〈加藤清正〉〈浅野幸長〉の3人が〈豊臣秀頼〉に付き従いニコニコ3月28日ようやく京都洛中〈二条城〉での対面が実現したのだったニコニコ


この〈大御所家康〉と〈豊臣秀頼〉の対面式で、世間に豊臣家と徳川家の地位が逆転した事を内外に示せた事で〈大御所家康〉は、上機嫌であったニコニコだが、一方で〈大御所家康〉は、亡き〈太閤秀吉〉の天下人としての資質を兼ね備える、成長した貴公子〈豊臣秀頼〉にショック!危機感を持つ、きっかけとなってしまったのであった…


更に1614年慶長19年1月19日に〈大久保長保事件〉に連座した疑いにより譜代重臣〈大久保忠隣〉が改易され、近江粟田郡に配流されたが…駿河富士山〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈大御所=徳川家康〉の側近〈南光坊=天海〉僧正を頼り〈大御所家康〉に無実を訴え出たが、実らなかったのだった…


しかし〈大御所家康〉の側近たる、徳川幕府幕閣重鎮〈本多佐渡守正信〉〈本多上野介正純〉父子との政争で〈二代将軍=徳川秀忠〉の側近だった〈大久保忠隣〉は幕閣から失脚させられたのだった…


更に1615年慶長20年に摂津〈大坂城〉主〈右大臣=豊臣秀頼〉重臣〈大野治〉(大野治長弟)の招請を受けて〈大坂城〉へ入城した武田旧臣〈小幡景憲〉が徳川幕府の〈京都所司代=板倉勝重〉に内通しているとの洛中〈妙心寺〉からの密告を受けて討手が差し向けられる前に〈大坂城〉から脱出して走る人山城〈伏見〉に至り〈板倉勝重〉に豊臣方の内情を報告した日。


よって件の如しビックリマーク
恐々謹言弥生二十八日
太閤