俺
参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ

太閤で~す
(*^∀^*)
イヤッホーイ
どぉもどぉも


今朝もセレブ出勤
昨日はムッチャ残業だったから鍛練は断念
今日は朝から夕方までスケジュールビッシリ
昼飯も食べてる暇もナッシブル
最初から最後までクライマックスだぜィ
今日3月30日は1546年天文15年この頃、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信=後の武田信玄〉が、信濃佐久郡〈海尻城〉(現長野県南佐久市)を攻撃し
城将〈井上清定〉〈清野清秀〉〈笠原新三郎清繁〉らは〈海尻城〉から脱出して落城したのだった
更に1551年天文20年この頃、尾張〈中村〉の農民〈藤吉郎=後の豊臣秀吉〉が、亡き父〈木下弥右衛門〉の形見の「永楽銭」一貫文を持って〈清州城〉下(現愛知県清須市)で木綿針を買い、駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川治部大輔義元〉に仕官しようと
遠江へ向かい〈曳馬ひくま〉(現静岡県浜松市)で〈頭陀寺城ずだじ〉(現静岡県浜松市南区)主〈松下加兵衛之綱〉に出逢い仕官し…〈藤吉郎〉は草刈・炭焼・草履売・鍜冶・魚屋・蔵まわり・研など様々な職業を転々としたのだった…
同じ頃、尾張〈那古屋城=後の名古屋城〉主〈織田上総介信長〉が弟〈織田勘十郎信行=織田信勝〉に、亡き父〈織田信秀〉の居城〈末森城〉(現愛知県名古屋市千種区)と宿老〈林佐渡守秀貞=林通勝〉〈林通具〉兄弟〈柴田権六勝家〉らを与えられたのだった。
更に1552年天文21年に〈関東菅領=山内上杉憲政〉が、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏康〉に、上野〈平井城〉(現群馬県藤岡市)を追われ
越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈長尾景虎=後の上杉謙信〉を頼った日
〈関東菅領=山内上杉憲政〉は1546年天文15年に〈扇ヶ谷上杉朝定〉と共に〈古河公方=足利晴氏〉ら擁し、関東の諸豪族を糾合の上8万余の大軍で北条方、武蔵〈河越城〉(現埼玉県川越市)を包囲したが〈北条氏康〉の巧みな策と、北条軍8千の夜襲〈河越の夜戦
〉で大敗を期して、上野〈平井城〉へと退却して
勢力挽回の為
翌年、信濃への侵攻して
甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信=後の武田信玄〉を討つべく
山内上杉家家臣〈金井小源太秀景〉を大将として、信濃佐久郡へ派兵したが
関東菅領軍が〈碓井峠〉方面から接近中との報に接した〈武田晴信〉が、重臣〈板垣信方〉らを差し向け
〈小田井原の合戦
〉(現長野県小諸市)で迎撃されて
再び大敗を期してしまったのだった
〈関東菅領職=山内上杉憲政〉は、上野〈平井城〉で、北条氏侵攻への防備を固めていたが…次第に家臣らに見限られ〈北条氏康〉の侵攻を前に〈平井城〉を支えきれなくなり
〈三国峠〉を越えて、越後〈春日山城〉主〈長尾景虎=後の上杉謙信〉を頼ったのだった
以降〈山内上杉憲政〉は〈長尾景虎〉に庇護されて、後に〈長尾景虎〉は〈山内上杉憲政〉を奉じて
関東へと度々出陣
〈北条氏康〉と〈武田信玄〉を相手に、熾烈な戦いを繰り広げていく事になるのであった…
更に1556年弘治2年この頃、尾張〈那古屋城=後の名古屋城〉主〈織田信長〉が三河〈荒川城〉(現愛知県西尾市)を攻撃し
〈野寺原〉で駿河
〈駿府城〉主〈今川義元〉方の今川軍と遭遇戦となったのだった
更に1563年永禄6年この頃、越後〈春日山城〉主〈関東菅領=山内上杉輝虎=後の上杉謙信〉が、相模〈小田原城〉主〈北条氏政〉隠居〈北条氏康〉父子方の、下野〈結城城〉(現茨城県結城市)主〈結城晴朝〉(小山秀綱弟)を攻撃して降伏開城させたのだった。
更に1564年永禄7年に駿河
〈駿府城〉主〈今川氏真〉に対して反旗を翻した
遠江〈曳馬城〉主〈飯尾豊前守連竜〉が、今川重臣〈朝比奈備中守泰朝〉〈瀬名陸奥守氏俊〉〈瀬名中務大輔氏詮〉〈朝比奈兵衛大夫元長=朝比奈政貞=後の朝比奈信置〉らに自身の謀反の疑いの釈明をした日
更に1566年永禄9年この頃、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田勝頼〉家臣〈武藤喜兵衛=後の真田昌幸〉の長男〈真田源三郎=後の真田信幸〉が誕生したのだった
同じ頃、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田信玄〉が、越後〈春日山城〉主〈関東菅領=山内上杉輝虎=後の上杉謙信〉方の、上野〈白井城〉(現群馬県渋川市)主〈白井城〉将〈長尾憲景〉を攻撃開始したが苦戦を強いられたのだった…
更に1570年永禄13年この頃、遠江〈堀江一揆〉が勃発して〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉が鎮圧したのだった。
更に1573年元亀4年この頃、越前〈一乗谷城〉(現福井県福井市)主〈朝倉義景〉が、美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田信長〉の越前侵攻を警戒して〈敦賀〉へ出陣し
次いで三方郡〈佐柿〉まで出兵したのだった
同じ頃、天下統一を推し進める〈織田信長〉に屈伏し次男〈織田茶筅丸ちゃせんまる=後の織田信雄〉を養継子と定め隠居、剃髪した〈伊勢国司=北畠具教〉が反〈織田信長〉の意図で、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信入道信玄〉に密使を派遣したのだった…
更に1574年天正2年に甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田勝頼〉が三河〈足助城〉(現愛知県豊田市)を攻撃し
引き続き、遠江〈浜松城〉主〈徳川家康〉に奪取された〈長篠城〉(現愛知県新城市)将〈奥平九八郎貞昌〉攻めに向けた軍事行動を開始したのだった
同じ頃、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田勝頼〉が信濃木曽郡〈福島城〉(現長野県木曽郡木曽町)主〈木曽義昌〉(武田信玄娘婿)家臣〈山村良利〉〈山村良候やまむらよしとき〉父子に、かつて亡き父〈武田信玄〉が東美濃で与えた知行分を安堵し
同じく、かつて〈桶狭間の合戦
〉で討ち取られた亡君〈今川義元〉の首級返還を〈織田信長〉に要求して前線の尾張〈鳴海城〉(現愛知県名古屋市緑区)に籠城し続け首級を返還され〈駿府城〉へ帰還した忠臣〈岡部元信〉にも知行を与えた日。
更に1576年天正4年にこの頃、天下統一を推し進める〈織田信長〉と摂津大坂〈石山本願寺〉(現大阪城)の間で結ばれた第二次和睦が破られ〈石山本願寺〉が三度目の挙兵におよび〈木津〉〈難波〉に城を構えて織田軍の反攻に備えたのだった
更に1578年天正6年に軍神〈上杉謙信〉亡き後の〈御館の乱
〉で、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈上杉景勝〉(上杉謙信甥・長尾政景嫡男)が〈上杉景虎〉(北条氏康七男)の要請を受けた、相模〈小田原城〉主〈北条氏政〉軍の越後侵攻に備えて
越後〈坂戸城〉(現新潟県南魚沼市)将〈深沢利重〉に上野国境の守備の厳重化を命じた日。
同じ頃、摂津大坂〈石山本願寺〉が、織田軍との〈石山合戦
〉において、中核の戦闘傭兵集団の紀伊〈雑賀衆〉に再三にわたり〈淡路島〉の〈岩屋城〉(現兵庫県淡路市)への出兵を要請したのだった。
同じ頃、伊勢〈田丸城〉(現三重県度会郡玉城町)主〈北畠(織田)信雄〉のもとに伊賀郷士〈下山甲斐守〉が訪れて、伊賀攻めの手引きを申し出たことから〈北畠(織田)信雄〉は
近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)の父〈右大臣=織田信長〉への功名心から、家臣〈滝川三郎兵衛雄利〉に伊賀〈丸山城〉(現三重県伊賀市)修築を命じ〈第一次伊賀攻め
〉のきっかけとなるのだった…
同じ頃〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉に反旗を翻した
播磨〈三木城〉(現兵庫県三木市)主〈別所長治〉方の支城〈志方城〉(現兵庫県加古川市)主〈櫛橋伊定くしはしこれさだ〉(黒田官兵衛孝高の舅)も〈別所長治〉に内通して〈志方城〉に籠城したのだった
更に1580年天正8年に信濃小県郡〈松尾城=真田城〉主〈真田安房守昌幸〉が、上野吾妻郡〈岩櫃城〉(現群馬県吾妻郡東吾妻町)の大叔父〈矢沢薩摩守頼綱〉(真田幸隆次男)に、上野〈沼田城〉(現群馬県沼田市)を攻略させて
〈名胡桃城〉(現群馬県利根郡みなかみ町)主〈鈴木主水重則〉〈小川城〉(現みなかみ町)主〈小川可遊斎〉らを味方つけた日。
同じ頃、天下統一を推し進める〈前右大臣=織田信長〉に反旗を翻した
摂津〈有岡城〉(現兵庫県伊丹市)主〈荒木村重〉は織田軍重囲下、安芸〈吉田郡山城〉主〈毛利輝元〉に救援を要請すべく、前年11月夜陰
に紛れて〈有岡城〉に妻子を残したまま秘かに脱出して〈尼崎城〉(現兵庫県尼崎市)に入城した後、備後〈尾道〉へと逃れて、安芸〈吉田郡山城〉主〈毛利輝元〉を頼り〈尾道〉の〈西郷寺〉(現広島県尾道市)で茶の湯の道に修身していったのだった…
更に1583年天正11年に山城〈山崎城=天王山〉(現京都府乙訓郡大山崎町)主〈羽柴秀吉=後の豊臣秀吉〉が伊勢〈桑名城〉(現三重県桑名市)主〈滝川左近将監一益〉を攻めるべく出陣し
北近江〈長浜城〉(現滋賀県長浜市)で〈柳ヶ瀬〉一帯に布陣する、越前〈北ノ庄城〉(現福井県福井市)主〈柴田勝家〉率いる北国軍との天下分け目の決戦を前に
〈木之本〉(現滋賀県長浜市木ノ本町)に布陣する
舎弟〈羽柴秀長〉と軍師〈黒田官兵衛孝高〉らに
自陣の砦周囲の小屋の撤去するよう命じ
空き地へ翌日〈羽柴秀吉〉本隊が着陣するまで撤退してはならない!と厳命した日
更に1584年天正12年この頃、播磨で後の剣豪〈宮本武蔵〉が誕生したのだった
同じ頃、摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)主〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉の命により、重臣〈蜂須賀小六正勝〉と軍師〈黒田官兵衛孝高〉らが和睦した、安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉の外交僧〈安国寺恵瓊〉との領国境界画定に赴き決定させたのだった。
更に1587年天正15年この頃、天下人〈関白=豊臣秀吉〉による、薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉征伐で
〈羽柴秀康=後の結城秀康〉(徳川家康次男)14歳が
初陣した日
更に1600年慶長5年3月16日にオランダ商船
〈リーフデ号〉が
豊後〈臼杵うすき〉(現大分県臼杵市)に漂着し
このときのオランダ船
の日本来航は初めてであった為
摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)の豊臣政権に注進され
豊臣家五大老筆頭〈内大臣=徳川家康〉は、和泉〈堺〉(現大阪府堺市)への回航を命じたのだった

そして〈内府家康〉が〈ウィリアム・アダムス〉〈ヤン・ヨーステン〉らに、摂津〈大坂城〉内で謁見して〈リーフデ号
〉乗組員が使用していた西洋甲冑と兜を武蔵〈江戸城〉(現皇居)に送り、甲冑師に和風の鎧兜の製作を命じた〈リーフデ号
〉が登載していた大砲20門を陸上げさせた日
同じ頃、信濃〈川中島〉へ加増転封となった〈森忠政〉(森可成六男)が〈善光寺平=川中島〉に、かつて〈武田信玄〉の軍師〈山本勘介入道道鬼〉が築城した〈海津城〉を〈松代城〉(現長野県長野市)と改名したのだった。
更に1615年慶長20年に亡き〈浅野幸長〉(浅野長政嫡男)息女〈春姫=高原院〉が尾張〈名古屋城〉(現愛知県名古屋市)主〈徳川義利=後の徳川義直〉(徳川家康九男)との婚儀のため紀伊〈和歌山城〉(現和歌山県和歌山市)を発った日。
更に1617年元和3年この頃、信濃小県郡〈上田城〉(現長野県上田市)主〈真田伊豆守信之〉(真田昌幸長男)が居城を上野〈沼田城〉(現群馬県沼田市)から再び〈上田城〉に移し、嫡男〈真田信吉〉を〈沼田城〉主としたのだった。
〈真田信吉〉正室は当初〈長篠設楽ヶ原の合戦
で討死した真田家長男〈真田源太左衛門信綱〉息女〈清音院〉だったが…徳川幕府の天下では片身が狭く
〈真田信之〉が〈二代将軍=徳川秀忠〉の幕閣重臣〈酒井忠世〉息女〈松仙院〉を正室に迎えさせたのだった…
よって件の如し
恐々謹言弥生三十日
太閤




参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ


太閤で~す(*^∀^*)
イヤッホーイ

どぉもどぉも



今朝もセレブ出勤
昨日はムッチャ残業だったから鍛練は断念
今日は朝から夕方までスケジュールビッシリ
昼飯も食べてる暇もナッシブル
最初から最後までクライマックスだぜィ
今日3月30日は1546年天文15年この頃、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信=後の武田信玄〉が、信濃佐久郡〈海尻城〉(現長野県南佐久市)を攻撃し
城将〈井上清定〉〈清野清秀〉〈笠原新三郎清繁〉らは〈海尻城〉から脱出して落城したのだった
更に1551年天文20年この頃、尾張〈中村〉の農民〈藤吉郎=後の豊臣秀吉〉が、亡き父〈木下弥右衛門〉の形見の「永楽銭」一貫文を持って〈清州城〉下(現愛知県清須市)で木綿針を買い、駿河
〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川治部大輔義元〉に仕官しようと
遠江へ向かい〈曳馬ひくま〉(現静岡県浜松市)で〈頭陀寺城ずだじ〉(現静岡県浜松市南区)主〈松下加兵衛之綱〉に出逢い仕官し…〈藤吉郎〉は草刈・炭焼・草履売・鍜冶・魚屋・蔵まわり・研など様々な職業を転々としたのだった…同じ頃、尾張〈那古屋城=後の名古屋城〉主〈織田上総介信長〉が弟〈織田勘十郎信行=織田信勝〉に、亡き父〈織田信秀〉の居城〈末森城〉(現愛知県名古屋市千種区)と宿老〈林佐渡守秀貞=林通勝〉〈林通具〉兄弟〈柴田権六勝家〉らを与えられたのだった。
更に1552年天文21年に〈関東菅領=山内上杉憲政〉が、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏康〉に、上野〈平井城〉(現群馬県藤岡市)を追われ
越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈長尾景虎=後の上杉謙信〉を頼った日
〈関東菅領=山内上杉憲政〉は1546年天文15年に〈扇ヶ谷上杉朝定〉と共に〈古河公方=足利晴氏〉ら擁し、関東の諸豪族を糾合の上8万余の大軍で北条方、武蔵〈河越城〉(現埼玉県川越市)を包囲したが〈北条氏康〉の巧みな策と、北条軍8千の夜襲〈河越の夜戦
〉で大敗を期して、上野〈平井城〉へと退却して
勢力挽回の為
翌年、信濃への侵攻して
甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信=後の武田信玄〉を討つべく
山内上杉家家臣〈金井小源太秀景〉を大将として、信濃佐久郡へ派兵したが
関東菅領軍が〈碓井峠〉方面から接近中との報に接した〈武田晴信〉が、重臣〈板垣信方〉らを差し向け
〈小田井原の合戦
〉(現長野県小諸市)で迎撃されて
再び大敗を期してしまったのだった
〈関東菅領職=山内上杉憲政〉は、上野〈平井城〉で、北条氏侵攻への防備を固めていたが…次第に家臣らに見限られ〈北条氏康〉の侵攻を前に〈平井城〉を支えきれなくなり
〈三国峠〉を越えて、越後〈春日山城〉主〈長尾景虎=後の上杉謙信〉を頼ったのだった以降〈山内上杉憲政〉は〈長尾景虎〉に庇護されて、後に〈長尾景虎〉は〈山内上杉憲政〉を奉じて
関東へと度々出陣
〈北条氏康〉と〈武田信玄〉を相手に、熾烈な戦いを繰り広げていく事になるのであった…更に1556年弘治2年この頃、尾張〈那古屋城=後の名古屋城〉主〈織田信長〉が三河〈荒川城〉(現愛知県西尾市)を攻撃し
〈野寺原〉で駿河
〈駿府城〉主〈今川義元〉方の今川軍と遭遇戦となったのだった
更に1563年永禄6年この頃、越後〈春日山城〉主〈関東菅領=山内上杉輝虎=後の上杉謙信〉が、相模〈小田原城〉主〈北条氏政〉隠居〈北条氏康〉父子方の、下野〈結城城〉(現茨城県結城市)主〈結城晴朝〉(小山秀綱弟)を攻撃して降伏開城させたのだった。
更に1564年永禄7年に駿河
〈駿府城〉主〈今川氏真〉に対して反旗を翻した
遠江〈曳馬城〉主〈飯尾豊前守連竜〉が、今川重臣〈朝比奈備中守泰朝〉〈瀬名陸奥守氏俊〉〈瀬名中務大輔氏詮〉〈朝比奈兵衛大夫元長=朝比奈政貞=後の朝比奈信置〉らに自身の謀反の疑いの釈明をした日更に1566年永禄9年この頃、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田勝頼〉家臣〈武藤喜兵衛=後の真田昌幸〉の長男〈真田源三郎=後の真田信幸〉が誕生したのだった

同じ頃、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田信玄〉が、越後〈春日山城〉主〈関東菅領=山内上杉輝虎=後の上杉謙信〉方の、上野〈白井城〉(現群馬県渋川市)主〈白井城〉将〈長尾憲景〉を攻撃開始したが苦戦を強いられたのだった…
更に1570年永禄13年この頃、遠江〈堀江一揆〉が勃発して〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉が鎮圧したのだった。
更に1573年元亀4年この頃、越前〈一乗谷城〉(現福井県福井市)主〈朝倉義景〉が、美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田信長〉の越前侵攻を警戒して〈敦賀〉へ出陣し
次いで三方郡〈佐柿〉まで出兵したのだった
同じ頃、天下統一を推し進める〈織田信長〉に屈伏し次男〈織田茶筅丸ちゃせんまる=後の織田信雄〉を養継子と定め隠居、剃髪した〈伊勢国司=北畠具教〉が反〈織田信長〉の意図で、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信入道信玄〉に密使を派遣したのだった…
更に1574年天正2年に甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田勝頼〉が三河〈足助城〉(現愛知県豊田市)を攻撃し
引き続き、遠江〈浜松城〉主〈徳川家康〉に奪取された〈長篠城〉(現愛知県新城市)将〈奥平九八郎貞昌〉攻めに向けた軍事行動を開始したのだった
同じ頃、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田勝頼〉が信濃木曽郡〈福島城〉(現長野県木曽郡木曽町)主〈木曽義昌〉(武田信玄娘婿)家臣〈山村良利〉〈山村良候やまむらよしとき〉父子に、かつて亡き父〈武田信玄〉が東美濃で与えた知行分を安堵し
同じく、かつて〈桶狭間の合戦
〉で討ち取られた亡君〈今川義元〉の首級返還を〈織田信長〉に要求して前線の尾張〈鳴海城〉(現愛知県名古屋市緑区)に籠城し続け首級を返還され〈駿府城〉へ帰還した忠臣〈岡部元信〉にも知行を与えた日。更に1576年天正4年にこの頃、天下統一を推し進める〈織田信長〉と摂津大坂〈石山本願寺〉(現大阪城)の間で結ばれた第二次和睦が破られ〈石山本願寺〉が三度目の挙兵におよび〈木津〉〈難波〉に城を構えて織田軍の反攻に備えたのだった

更に1578年天正6年に軍神〈上杉謙信〉亡き後の〈御館の乱
〉で、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈上杉景勝〉(上杉謙信甥・長尾政景嫡男)が〈上杉景虎〉(北条氏康七男)の要請を受けた、相模〈小田原城〉主〈北条氏政〉軍の越後侵攻に備えて
越後〈坂戸城〉(現新潟県南魚沼市)将〈深沢利重〉に上野国境の守備の厳重化を命じた日。同じ頃、摂津大坂〈石山本願寺〉が、織田軍との〈石山合戦
〉において、中核の戦闘傭兵集団の紀伊〈雑賀衆〉に再三にわたり〈淡路島〉の〈岩屋城〉(現兵庫県淡路市)への出兵を要請したのだった。同じ頃、伊勢〈田丸城〉(現三重県度会郡玉城町)主〈北畠(織田)信雄〉のもとに伊賀郷士〈下山甲斐守〉が訪れて、伊賀攻めの手引きを申し出たことから〈北畠(織田)信雄〉は
近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)の父〈右大臣=織田信長〉への功名心から、家臣〈滝川三郎兵衛雄利〉に伊賀〈丸山城〉(現三重県伊賀市)修築を命じ〈第一次伊賀攻め
〉のきっかけとなるのだった…同じ頃〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉に反旗を翻した
播磨〈三木城〉(現兵庫県三木市)主〈別所長治〉方の支城〈志方城〉(現兵庫県加古川市)主〈櫛橋伊定くしはしこれさだ〉(黒田官兵衛孝高の舅)も〈別所長治〉に内通して〈志方城〉に籠城したのだった
更に1580年天正8年に信濃小県郡〈松尾城=真田城〉主〈真田安房守昌幸〉が、上野吾妻郡〈岩櫃城〉(現群馬県吾妻郡東吾妻町)の大叔父〈矢沢薩摩守頼綱〉(真田幸隆次男)に、上野〈沼田城〉(現群馬県沼田市)を攻略させて
〈名胡桃城〉(現群馬県利根郡みなかみ町)主〈鈴木主水重則〉〈小川城〉(現みなかみ町)主〈小川可遊斎〉らを味方つけた日。同じ頃、天下統一を推し進める〈前右大臣=織田信長〉に反旗を翻した
摂津〈有岡城〉(現兵庫県伊丹市)主〈荒木村重〉は織田軍重囲下、安芸〈吉田郡山城〉主〈毛利輝元〉に救援を要請すべく、前年11月夜陰
に紛れて〈有岡城〉に妻子を残したまま秘かに脱出して〈尼崎城〉(現兵庫県尼崎市)に入城した後、備後〈尾道〉へと逃れて、安芸〈吉田郡山城〉主〈毛利輝元〉を頼り〈尾道〉の〈西郷寺〉(現広島県尾道市)で茶の湯の道に修身していったのだった…更に1583年天正11年に山城〈山崎城=天王山〉(現京都府乙訓郡大山崎町)主〈羽柴秀吉=後の豊臣秀吉〉が伊勢〈桑名城〉(現三重県桑名市)主〈滝川左近将監一益〉を攻めるべく出陣し
北近江〈長浜城〉(現滋賀県長浜市)で〈柳ヶ瀬〉一帯に布陣する、越前〈北ノ庄城〉(現福井県福井市)主〈柴田勝家〉率いる北国軍との天下分け目の決戦を前に
〈木之本〉(現滋賀県長浜市木ノ本町)に布陣する
舎弟〈羽柴秀長〉と軍師〈黒田官兵衛孝高〉らに
自陣の砦周囲の小屋の撤去するよう命じ
空き地へ翌日〈羽柴秀吉〉本隊が着陣するまで撤退してはならない!と厳命した日
更に1584年天正12年この頃、播磨で後の剣豪〈宮本武蔵〉が誕生したのだった

同じ頃、摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)主〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉の命により、重臣〈蜂須賀小六正勝〉と軍師〈黒田官兵衛孝高〉らが和睦した、安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉の外交僧〈安国寺恵瓊〉との領国境界画定に赴き決定させたのだった。
更に1587年天正15年この頃、天下人〈関白=豊臣秀吉〉による、薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉征伐で
〈羽柴秀康=後の結城秀康〉(徳川家康次男)14歳が初陣した日

更に1600年慶長5年3月16日にオランダ商船
〈リーフデ号〉が
豊後〈臼杵うすき〉(現大分県臼杵市)に漂着し
このときのオランダ船
の日本来航は初めてであった為
摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)の豊臣政権に注進され
豊臣家五大老筆頭〈内大臣=徳川家康〉は、和泉〈堺〉(現大阪府堺市)への回航を命じたのだった

そして〈内府家康〉が〈ウィリアム・アダムス〉〈ヤン・ヨーステン〉らに、摂津〈大坂城〉内で謁見して〈リーフデ号
〉乗組員が使用していた西洋甲冑と兜を武蔵〈江戸城〉(現皇居)に送り、甲冑師に和風の鎧兜の製作を命じた〈リーフデ号
〉が登載していた大砲20門を陸上げさせた日同じ頃、信濃〈川中島〉へ加増転封となった〈森忠政〉(森可成六男)が〈善光寺平=川中島〉に、かつて〈武田信玄〉の軍師〈山本勘介入道道鬼〉が築城した〈海津城〉を〈松代城〉(現長野県長野市)と改名したのだった。
更に1615年慶長20年に亡き〈浅野幸長〉(浅野長政嫡男)息女〈春姫=高原院〉が尾張〈名古屋城〉(現愛知県名古屋市)主〈徳川義利=後の徳川義直〉(徳川家康九男)との婚儀のため紀伊〈和歌山城〉(現和歌山県和歌山市)を発った日。
更に1617年元和3年この頃、信濃小県郡〈上田城〉(現長野県上田市)主〈真田伊豆守信之〉(真田昌幸長男)が居城を上野〈沼田城〉(現群馬県沼田市)から再び〈上田城〉に移し、嫡男〈真田信吉〉を〈沼田城〉主としたのだった。
〈真田信吉〉正室は当初〈長篠設楽ヶ原の合戦
で討死した真田家長男〈真田源太左衛門信綱〉息女〈清音院〉だったが…徳川幕府の天下では片身が狭く
〈真田信之〉が〈二代将軍=徳川秀忠〉の幕閣重臣〈酒井忠世〉息女〈松仙院〉を正室に迎えさせたのだった…よって件の如し

恐々謹言弥生三十日
太閤




此度はまづ肩三角筋鍛練ケーブルサイドレイズ30㌔負荷左右
各6setづつ各計70回づつ+再び肩三角筋鍛練ダンベルアーノルドプレス22㌔負荷6set計50回+肩三角筋後部鍛練ダンベルリアレイズ14㌔負荷5set計100回+肩三角筋前部鍛練ダンベルフロントレイズ14㌔負荷4set計40回鍛練仕り申したぜィ
鴨川







この〈織田信長〉からの申し出に致し方なく
そして織田家嫡男〈織田信忠〉に朝廷は「出羽介=秋田城介」に任じたのだった。
での自由運航を許認可し、若狭・丹後の海賊衆の不法行為に備えさせた日。