ビックリマーク参上!!


ハイッビックリマークハ~イッ!!
みんなに笑顔をッ!!ひらめき電球ニコニコ太閤で~す
(*^∀^*)


イヤッホーイ!!


どぉもどぉもアップアップアップ


GW最終日ニコニコ明日からまた仕事ですろーしょぼん昨日は母上を連れてニコニコ下総松戸市〈本土寺〉を参拝した後、流山市の〈新撰組局長=近藤勇〉が官軍に敗れて潜伏していた最後の地に出陣車その後〈霧江戸川霧〉を渡り葛飾柴又へ車〈高木屋〉で草団子食べニコニコ〈柴又駅〉で〈寅さん〉と〈さくら〉の銅像見て〈帝釈天〉を参拝しパー〈東京タワー〉と〈竹芝桟橋〉から〈レインボーブリッジ〉の夜景を堪能して回転寿司で満腹してきて最初から最後までクライマックスだぜィビックリマーク


今日5月5日端午の節句は1551年天文20年に摂津〈芥川山城〉(現大阪府高槻市)〈飯盛山城〉(現大阪府四條畷市)主〈三好長慶〉岳父の、河内〈高屋城〉(現大阪府羽曳野市)主〈遊佐長教〉が〈室町幕府第13代将軍=足利義藤=後の足利義輝〉〈室町幕府菅領=細川晴元〉が放った刺客に暗殺された日ショック!


更に1556年弘治2年この頃、駿河富士山〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川義元〉の元で人質生活を送る〈松平次郎三郎元信=後の徳川家康〉が松平党の懇願によりショック!パー〈今川義元〉から許認可され7年振りに故郷の、三河〈岡崎城〉(現愛知県岡崎市)下の松平家菩提寺〈大樹寺〉を参拝したのだった。


更に1567年永禄10年に大和奈良〈東大寺〉で対陣中の〈三好三人衆=三好宗渭(政康)・三好長逸・岩成友通〉〈筒井藤勝入道順慶〉軍と〈多聞山城〉(現奈良県奈良市)主〈松永弾正少弼久秀〉軍に三好方として〈三好康長〉〈池田勝正〉軍5千が参陣した日

同じ日、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信入道信玄〉が上野〈総社城〉(現群馬県前橋市)を攻略して美容院〈安中丹後守〉の戦功を賞して〈箕輪城〉(現群馬県高崎市)領を与えた日。


更に1574年天正2年に天下統一を推し進める〈織田信長〉が、京都洛北〈上賀茂神社〉(現京都市北区)で神事である「賀茂競馬馬馬かもくらべうま」に自慢の名馬馬を走らせて馬競馬を挙行した日馬


京都〈上賀茂神社=賀茂別雷神社かもわけいかずちじんじゃ〉では、平安時代から朝廷の行事として豊作を祈念し「賀茂競馬かもくらべうま馬」の神事が挙行されていて…この「賀茂競馬馬」に〈織田信長〉は自慢の葦毛(あしげ)馬と、鹿毛の馬馬のそれぞれ二頭と織田家馬廻衆の内から、駿馬馬18頭を出走させ馬DASH!上等な鞍(くら)・鐙(あぶみ)・轡(くつわ)が装着された美しい姿の舎人(とねり)が付き従っていたのだった馬この「賀茂競馬」を見物しようとニコニコ京都洛中から群衆が〈上賀茂神社〉に押し寄せ、感嘆の声を挙げた日。


〈上賀茂神社〉は、現在ではニコニコ電気の神様として、祀られニコニコ多くの電力会社も参拝しており「暴れん坊将軍」や「水戸黄門」等の時代劇でもロケ地映画に使われていて…予もニコニコかつて〈上賀茂神社〉の氏子でござった

更に1576年天正4年に摂津大坂〈石山本願寺〉(現大阪城)を包囲する織田軍との〈石山合戦美容院=天王寺合戦美容院〉で〈塙(原田)直政〉らの討死を重くみたプンプン近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈右大臣=織田信長〉はプンプン未明に〈明智光秀〉〈荒木村重〉〈三好康長〉ら救援のため2千を率いて出陣馬河内〈若江城〉(現大阪府東大阪市)に入城し、京都に上洛中の織田領分国の諸将に出征を命じた日。


更に1578年天正6年に越後の〈上杉謙信〉亡き後、遺言と称していち速く〈春日山城=本丸〉を占拠した〈上杉景勝〉(長尾政景次男・上杉謙信甥)方と〈春日山城=二の丸〉の〈上杉景虎〉(北条氏康七男)方と〈大場村〉で最初の武力衝突し美容院〈上杉景勝〉方は眼下に見下ろす二の丸に弓・鉄砲で攻撃し〈御館の乱美容院〉が勃発した日美容院


更に1579年天正7年に天下統一を推し進める近江〈安土城〉主〈前右大臣=織田信長〉から丹波・丹後平定を命じられた、近江〈坂本城〉(現滋賀県大津市)丹波〈亀山城〉(現京都府亀岡市)主〈明智光秀〉による兵糧責め中の〈氷上城〉(現兵庫県丹波市)主〈波多野主殿助宗長〉〈波多野美作守宗貞〉が自刃し〈氷上城〉を攻略した日美容院


更に1580年天正8年に遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉軍が馬甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田勝頼〉方の、駿河富士山〈用宗城=持舟城〉(現静岡県静岡市駿河区)将〈朝比奈信置〉方と〈当目峠の合戦美容院〉で〈朝比奈信置〉家臣〈長谷川左近〉〈朝比奈市兵衛〉らを討取り美容院〈武田勝頼〉軍が救援に出兵して来るやガーン〈掛川城〉(現静岡県掛川市)に撤退した日美容院


更に1583年天正11年この頃、越前〈北ノ庄城〉(現福井県福井市)主〈柴田勝家〉を攻め滅ぼした美容院山城〈山崎城=天王山〉(現京都府乙訓郡大山崎町)主〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉が〈北ノ庄城〉に人質として入城していた、能登〈小丸山城〉(現石川県七尾市)主〈槍の又左=前田利家〉三女〈摩阿姫まあひめ〉は〈柴田勝家〉家臣〈佐久間十蔵〉と婚約ししていたが〈賤ヶ岳の合戦美容院〉続く〈北ノ庄城〉落城で婚約者〈佐久間十蔵〉も自刃し〈摩阿姫〉は城外へ脱出して前田家に戻っていたが…再び〈羽柴秀吉〉への人質として差し出された上で側室となり〈加賀殿〉と呼ばれたのだった。


更に1586年天正14年この頃、信濃〈上田城〉(現長野県上田市)主〈真田安房守昌幸〉次男〈真田源二郎信繁=真田幸村〉が天下人〈関白=豊臣秀吉〉への人質として、摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)に差し出され移ったのだった。


更に1588年天正16年この頃、天下人〈関白秀吉〉が〈富田一白〉らを使者として派遣し、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏直〉隠居〈北条氏政〉父子の上洛を催促したのだった。


同じ日、信濃〈上田城〉主〈真田昌幸〉が、上野〈沼田城〉(現群馬県沼田市)将〈矢沢薩摩守頼綱〉(真田幸隆弟・真田昌幸叔父)を信濃へ呼び戻して〈上田原・武石・長窪・保屋・吉田〉等を宛がい、上野〈岩櫃城〉(現群馬県吾妻郡東吾妻町)を守備させ〈名胡桃城なぐるみ〉(現群馬県利根郡みなかみ町)将を〈鈴木主水重則〉に守備させた日。


更に1590年天正18年に天下人〈関白秀吉〉による〈小田原征伐美容院〉で〈浅野長吉=後の浅野長政〉〈木村重茲きむらしげこれ〉〈内藤家長〉(徳川家康家臣)ら関白豊臣軍が馬下総〈小金城〉(現千葉県松戸市)主〈高城胤則〉が〈小田原城〉に参陣して留守中に包囲攻撃され攻略された日美容院


更に1595年文禄4年に〈太閤=豊臣秀吉〉が、貨幣鋳造の為〈後藤徳乗〉に「慶長」貨幣ね鋳造を命じた日。


更に1615年元和元年に〈大御所=徳川家康〉本隊が京都洛中〈二条城〉(現京都府京都市上京区)を出陣し馬河内〈星田〉(現大阪府交野市)に着陣し馬九男〈徳川義利=後の徳川義直〉〈徳川頼将=後の徳川頼宣〉らが後陣を配し馬〈二代将軍=徳川秀忠〉本隊は、山城〈伏見木幡山城〉(現京都府京都市伏見区)を出陣して馬河内〈砂〉(現大阪府松原市)に着陣馬〈独眼竜=伊達政宗〉軍は〈道明寺口〉に着陣馬大和奈良からは〈水野勝成〉(徳川家康甥)軍は馬河内〈国府〉(現大阪府藤井寺市)で〈本多忠政〉〈松平忠明〉〈伊達政宗〉〈松平忠輝〉(徳川家康六男)軍と合流して馬亡き〈太閤=豊臣秀吉〉が築城した、難攻不落の摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)を包囲し〈大坂夏の陣美容院〉が開始された日馬


一方〈大坂城〉主〈右大臣=豊臣秀頼〉重臣〈木村長門守重成〉が〈今福〉を視察して、地形から徳川幕府軍の進行の可能性の低さを確認し目〈長宗我部盛親〉軍と共に〈道明寺〉(現大阪府藤井寺市)に転進することに決めて〈大坂城〉に帰還し〈天王寺〉に布陣中の〈真田左衛門佐幸村=真田信繁〉が〈毛利勝永〉と共に、夜陰に紛れて〈平野〉(現大阪府平野区)の〈後藤又兵衛基次〉(元黒田長政家臣)陣を訪れ〈道明寺〉で落ち合い徳川幕府軍を挟撃する作戦を確認した日。


よって件の如しビックリマーク
恐々謹言皐月五日
太閤
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ビックリマーク参上!!


ハイッビックリマークハ~イッ!!
みんなに笑顔をッ!!ひらめき電球ニコニコ太閤で~す
(*^∀^*)


イヤッホーイ!!


どぉもどぉもアップアップアップ


短いGW2日目ニコニコ昨日は盟友スーパーサイヤ人〈竜悟空〉に拉致られ車幕末徳川幕府老中〈阿部正睦〉の下総〈佐倉城跡〉と〈千葉氏〉累代の本拠〈本佐倉城跡〉に出陣してきたぜィビックリマーク


思ったより渋滞はナッシブルだったニコニコ


今日5月4日は1550年天文19年に摂津〈芥川山城〉(現大阪府高槻市)〈飯盛山城〉(現大阪府四條畷市)主〈三好長慶〉と対立した〈室町幕府第12代将軍=足利義晴〉が退避先の近江〈穴太あのう〉で死去した命日しょぼん享年40歳ショック!


更に1560年永禄3年この頃、上野〈国峯城〉(現群馬県甘楽郡甘楽町)将〈小幡重定=小幡憲重=小幡信実〉が〈箕輪城〉(現群馬県高崎市)主〈長野信濃守業正〉(関東菅領=山内上杉憲政重臣)と対立してプンプン甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信入道信玄〉に服属した為〈長野業正〉は〈武田信玄〉の西上野侵攻に備えてプンプン〈小幡重定〉の留守に乗じて〈国峯城〉を奪取して〈小幡景定〉を入城させたのだった

更に1569年永禄12年に相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏康〉が、駿河富士山〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川氏真〉の使僧〈東泉院=雪山〉に家臣〈市川半右衛門〉を同行させて、上野〈金山城〉(現群馬県太田市)主〈由良成繁〉を介して、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈関東菅領=山内上杉輝虎=後の上杉謙信〉家臣〈松本景繁〉に援軍要請し〈東泉院=雪山〉から口上により伝達させるとした日で〈北条氏康〉は、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田信玄〉の第二次駿河富士山侵攻への警戒から、娘婿〈今川氏真〉の使者を〈上杉輝虎〉に介して「越相同盟」締結を促進しようとしたのだった。


更に1572年元亀3年に薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉が〈日向守護職=伊東義祐〉を〈木崎原の合戦美容院〉で討ち敗った日ニコニコ


日向〈都於郡〉(現宮崎県西都市)主〈伊東義祐〉は、日向南部へ侵攻して馬弟〈伊東祐信〉を大将とする3千を派兵し馬〈加久藤城〉(現宮崎県えびの市)を攻めたが美容院苦戦を強いられた為ショック!〈木崎原きざきばる〉に一旦退き馬陣を敷いたのだった…


そこへ薩摩から〈島津義珍しまづよしたか=後の島津義弘〉(島津義久弟)が3千の軍勢を率いて馬〈伊東祐信〉軍馬を奇襲した〈木崎原の合戦美容院〉で伊東勢を撃破し〈伊東義祐〉は、自らの力では〈島津義久〉に対抗しきれずショック!隣国豊後〈府内城〉(現大分県大分市)主のキリシタン大名〈大友義鎮入道宗麟おおともよししげにゅうどうそうりん〉を頼って、豊後に落ちのびたのだった走る人


その為〈大友宗麟〉は、日向にキリシタンの理想国家を建国すべくニコニコ日向へ進行して〈島津義久〉と雌雄を決する事になるのであった

更に1575年天正3年に天下統一を推し進める美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田信長〉に、本拠〈観音寺城〉(現滋賀県近江八幡市)を追われ〈甲賀〉へ逃れていた〈六角義賢入道承禎〉が、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田四郎勝頼〉親類衆筆頭〈穴山信君〉に、武田軍の三河侵攻で馬遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉方属城攻略を賞賛しニコニコ武田軍に従軍させた次男〈六角次郎賢永=六角義定〉への待遇に対して感謝し、織田軍の摂津大坂〈石山本願寺〉(現大阪城)方面の戦況を書状手紙では詳細が伝えられないので〈六角高盛〉〈落合八郎左衛門〉に伝達させると知らせた日。


更に1578年天正6年に天下統一を推し進める近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈前右大臣=織田信長〉からプンプン反旗を翻した播磨〈三木城〉(現兵庫県三木市)主〈別所長治〉を包囲中の〈羽柴秀吉=後の豊臣秀吉〉の援軍を命じられたプンプン嫡男〈秋田城介=織田信忠〉を総大将とする〈北畠(織田)信雄〉〈神戸(織田)信孝〉〈佐久間信盛〉〈明智光秀〉〈細川藤孝〉ら織田軍が播磨〈書写山=円教寺〉(現兵庫県姫路市)に着陣した日馬


更に1580年天正8年に甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田勝頼〉家臣、信濃〈松尾城=真田城〉(現長野県上田市)主〈真田安房守昌幸〉が上野〈沼田城〉(現群馬県沼田市)主〈藤田能登守信吉〉を攻撃して美容院攻略し美容院叔父〈矢沢薩摩守頼綱〉(真田幸隆弟)を入城させた日美容院


更に1582年天正10年に〈正親町天皇おうぎまち〉が勅使(ちょくし)として〈武家伝奏役=勧修寺晴豊〉を近江〈安土城〉に派遣して〈正親町天皇〉の宸翰(しんかん)他の品々を下賜し、取次いだ小姓〈森蘭丸〉(森吉可次男)に官位を辞任した〈前右大臣信長〉の「征夷大将軍」への任官と幕府開幕を勧めた日でパー〈織田信長〉に任官の意志は無くしょぼん勅使には逢わず即答を避けたのだった…


更に1585年天正13年に摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)主〈羽柴秀吉=後の豊臣秀吉〉が、土佐〈岡豊城〉(現高知県南国市)主〈長宗我部元親〉征伐美容院を6月3日と定めプンプン軍師〈黒田官兵衛孝高〉に先鋒を命じプンプン〈淡路島〉に出陣を〈一柳直末〉に〈明石〉待機を命じた日。


同じ日、摂津〈大坂城〉主〈羽柴秀吉〉が、キリスト教イエズス会日本管区長〈ガスパル・コエリョ〉に対して、天下統一は目前でありニコニコ〈朝鮮〉〈明国〉も征伐するつもりであると述べプンプン〈南蛮=ポルトガル〉に対して支那へのキリスト教布教を許認可する代わりに〈南蛮〉軍船船派遣を要請した日。


更に1586年天正14年に、天下統一を推し進める〈織田信長〉に敵対する、摂津大坂〈石山本願寺〉(現大阪城)は織田軍に包囲されていた中〈織田信長〉から「摂津守護」にまで取り立てられていた〈有岡城〉(現兵庫県伊丹市)主〈荒木村重〉が突如謀叛を起こしショック!〈荒木村重〉は〈織田信長〉に追放された〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉と、安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉らに内通して、毛利方に救援を要請していた為プンプン激怒した〈織田信長〉は〈有岡城〉を包囲したが…


〈荒木村重〉に同調する様に〈別所長治〉が反旗を翻した為、播磨〈三木城〉(現兵庫県三木市)を包囲中の〈羽柴秀吉〉の軍師〈黒田官兵衛孝高〉が同じくキリシタン同士の〈荒木村重〉説得に〈有岡城〉に来たところを逆に捕らえてショック!石牢に幽閉し、籠城戦を続けていたが…毛利からの援軍を得られないまま籠城戦は長引きガーン〈荒木村重〉は、ついには単身〈有岡城〉を脱出して走る人〈伊丹城〉へ逃亡し走る人その後の織田軍の総攻撃で〈有岡城〉は落城し美容院荒木一族は、捕らえられ殺害されたのだった…


その後〈荒木村重〉は〈毛利輝元〉からの援軍を得られないまま自落しダウン諸国を流浪後、天下人〈関白=豊臣秀吉〉に仕えて、茶匠〈千利休〉の門弟〈荒木道糞あらきどうふん〉と号していたが、後に〈荒木道薫〉と改名して世捨て人のまま死去した日。享年52歳ショック!

同じ日、天下人〈関白秀吉〉がキリスト教イエズス会に布教許可証を発給した日

更に1597年慶長2年に天下人〈太閤=豊臣秀吉〉が、甥の〈後の関白豊臣秀次〉を養子として、京都洛中〈聚楽第じゅらくてい〉(現京都府京都市上京区)と「関白」職を譲りニコニコ隠居城を築城を諸大名に普請させていたが、新造成った〈伏見指月城〉(現京都府京都市伏見区)に移った日。

更に1601年慶長6年に前年天下分け目の〈関ヶ原の合戦美容院〉で〈石田三成〉ら西軍に大勝した、大老筆頭〈内府家康〉が九州において東軍として、戦功を挙げた、豊前〈中津城〉(現大分県大分市)主〈黒田官兵衛孝高入道如水圓清〉に畿内において所領と官位を恩賞を与えると提示したが〈黒田如水〉は辞退した日で、中央政権への関与することなく隠居したのだった

更に1602年慶長7年に加賀〈金沢城〉(現石川県金沢市)主〈大納言=前田利長〉(前田利家嫡男)重臣〈横山長知〉が、主君〈大納言利長〉の命で反徳川派の〈大聖寺城〉(現石川県加賀市)主〈太田長知〉(前田利家正室まつ=芳春院甥)を殺害した日ショック!


更に1614年慶長19年に信濃〈小諸城〉(現長野県小諸市)主〈仙石秀久〉が死去した命日ショック!享年63歳で三男〈仙石忠政〉が家督を相続したのだった。


更に1632年寛永9年に徳川幕府幕臣となっていた〈真田信尹さなだのぶただ=加津野信昌〉(真田昌幸弟・真田幸村叔父)が武蔵〈江戸〉で死去した命日ショック!享年86歳しょぼん


よって件の如しビックリマーク
恐々謹言皐月四日
太閤


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ビックリマーク参上!!


ハイッビックリマークハ~イッ!!
みんなに笑顔をッ!!ひらめき電球ニコニコ太閤で~す
(*^∀^*)


イヤッホーイ!!


どぉもどぉもアップアップアップ


ようやく我が方もGW突入さあてニコニコ昔からGWには出陣車してたしにひひ暇だから晴れいづこかに出陣すっかナァだが…既に渋滞車車車開始(笑)


今日5月3日は1558年永禄元年に摂津〈芥川山城〉(現大阪府高槻市)〈飯盛山城〉(現大阪府四條畷市)主〈三好長慶〉と対立してプンプン近江〈朽木谷〉(現滋賀県)に避難していた〈室町幕府第13代将軍=足利義輝〉〈室町幕府菅領=細川晴元〉ら幕府奉公衆3千を率いて〈坂本〉に移った日馬


更に1562年永禄5年に尾張〈清州城〉(現愛知県清須市)主〈織田信長〉が亡き舅〈蝮=斎藤道三〉の遺言「美濃譲り渡し状手紙」に従って美濃へ出兵して馬美濃〈稲葉山城〉(現岐阜県岐阜市)主〈斎藤龍興〉(斎藤義竜嫡男)軍と〈軽海の合戦美容院〉で戦い美容院〈織田信長〉馬廻衆〈槍の又左=前田利家〉〈佐々内蔵助成政〉らが軍功を挙げた日美容院

同じ日、尾張〈清州城〉主〈織田信長〉方の知多郡の〈知多水軍船千賀孫兵衛重親〉が、駿河富士山〈駿府城〉(現静岡県静岡市)主〈今川氏真〉(今川義元嫡男)方から織田方に服属した日。


更に1569年永禄12年に駿河富士山国守〈今川氏真〉が、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田晴信入道信玄〉からの侵攻を受けて馬駿河富士山を追われ、相模〈小田原城〉主〈北条氏政〉と舅〈北条氏康〉の庇護を受けていたが…〈太田十郎氏房〉(北条氏直弟)〈富士兵部少輔信忠〉〈垪和氏続はがうじつぐ〉に「駿河守」を〈北条氏政〉嫡男〈北条国王丸=後の北条氏直〉に相続させたと宣言した日。


更に1569年永禄12年に豊後〈府内城〉(現大分県大分市)主〈大友義鎮入道宗麟〉方の筑前〈立花山城〉(現福岡県福岡市東区)将〈津留原掃部助〉〈田北民部丞〉〈臼杵進士兵衛〉ら大友三将は、安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利元就〉の命によりプンプン次男〈吉川元春〉三男〈小早川隆景〉ら毛利軍が〈立花山城〉を兵糧責めとし、金堀衆を使い水の手を絶つ策に出た為、大友三将は〈大友宗麟〉の命を仰ぎ降伏開城した日。


更に1573年元亀4年に北近江〈小谷城〉(現滋賀県長浜市)主〈浅井長政〉と〈お市の方〉(織田信長妹)の次男〈乙若丸=万寿丸〉が誕生した日ケーキ


更に1576年天正4年に天下統一を推し進めるプンプン近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈右大臣=織田信長〉が包囲攻撃する美容院摂津大坂〈石山本願寺〉(現大阪城)との〈石山合戦美容院〉で、早朝から〈石山本願寺〉傭兵集団、紀伊〈雑賀党〉の〈鈴木重秀=雑賀孫一〉ら〈一向一揆衆=本願寺門徒衆〉が、織田方〈三津寺砦〉(現大阪府大阪市中央区)を攻撃して美容院〈雑賀党〉3千挺の鉄砲隊が織田軍を敗走させ走る人〈一向一揆衆〉の追撃により織田軍〈塙(原田)直政〉〈塙安弘〉〈塙小七郎〉〈丹羽小四郎〉〈蓑浦無右衛門〉が〈天王寺の合戦美容院〉で討死しショック!


勝ちに乗じて〈雑賀党〉が織田軍〈佐久郡信栄〉(佐久間信盛)〈明智十兵衛光秀〉〈荒木村重〉〈猪子兵助高就〉〈大津長昌〉らが守備する〈天王寺砦〉(現大阪府大阪市天王寺区)を包囲した日。


更に1584年天正12年に〈小牧・長久手の合戦美容院〉で尾張〈清州城〉主〈織田信雄〉が〈小牧山城〉(現愛知県小牧市)の陣所から伊勢〈長島城〉(現三重県桑名市)に帰還して同盟国の、土佐〈岡豊城〉(現高知県南国市)主〈長宗我部元親〉弟〈香宗我部親泰〉に、尾張〈犬山〉において対陣していた〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉軍を〈長久手の合戦美容院〉で討ち敗り美容院羽柴方〈池田恒興入道勝入斎〉〈森長可〉らを討ち取った戦果知らせた日。


一方〈羽柴秀吉〉軍が織田方の、美濃〈加賀野井城〉(現岐阜県羽島市)〈竹ヶ鼻城〉(現岐阜県羽島市)と尾張〈奥城〉(現愛知県一宮市)を包囲した日馬


更に1585年天正13年に天下統一を推し進める、摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)主〈羽柴秀吉=後の豊臣秀吉〉が、亡君〈織田信長〉と〈石山合戦美容院〉を繰り広げプンプン法主〈顕如光佐けんにょこうさ〉上人が紀伊に退去して以来の〈本願寺〉へ、摂津〈中島=渡辺〉に寺地を与えた日。


更に1587年天正15年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉による、諸大名に対して私戦を禁ずる「惣無事令そうぶじれい」に違反して九州全土征服を目指す、薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉は〈関白秀吉〉の仲裁案を不服としてプンプン豊後〈府内城〉(大友義統〉(大友宗麟嫡男)領の筑前・豊前・豊後への侵攻を続けていた馬


この島津氏の侵攻に窮したガーン豊後〈臼杵城〉(現大分県臼杵市)の隠居でキリシタン大名〈大友義鎮入道宗麟〉は摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)に登城して、天下人〈関白=豊臣秀吉〉に謁見しm(__)m救援要請と〈島津義久〉討伐を要請した為〈関白秀吉〉は〈島津征伐美容院〉を決定しプンプン自らも大軍を率いて九州への出陣を決定したのだった。


一方〈島津義久〉〈島津義珍しまづよしたか=後の島津義弘〉兄弟は〈高橋鑑種入道紹運たかはしじょううん〉(立花宗茂実父)の、筑前〈岩屋城〉(現福岡県太宰府市)を攻略し美容院〈立花山城〉(現福岡県福岡市東区)攻撃中美容院筑前平定の直前に〈関白秀吉〉の命により出陣して来た船安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉備後〈三原城〉(現広島県三原市)主〈小早川隆景〉ら大軍が来援して来るに至り、北九州から撤退していったが…


〈島津義久〉〈島津義弘〉兄弟は2万馬の軍勢で、日向〈高城〉(現宮崎県木城町)に入城して馬南下して来る〈大和大納言=豊臣秀長〉(関白秀吉弟)の大軍に備えて4月17日日向〈根白坂〉で迎撃したが美容院大敗を期して美容院更には、後方から〈関白秀吉〉本隊が、肥後方面から薩摩に進軍、南下して来ていた為ガーン〈島津義久〉は5月3日家臣〈河野通貞〉を〈関白秀吉〉本陣〈泰平寺〉に派遣して、全面降伏を申し入れた日

更に1590年天正18年に天下統一を推し進める〈関白秀吉〉による〈小田原征伐美容院〉で〈前田利家〉率いる〈上杉景勝〉〈真田安房守昌幸〉ら北陸方面軍が、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏直〉方の、武蔵〈河越城〉(現埼玉県川越市)将〈大道寺直英〉(大道寺政繁子息)を包囲したが…父〈大道寺政繁〉が西上野〈松井田城〉(現群馬県安中市)の守将だったが〈前田利家〉率いる北国方面軍に降伏開城した為〈大道寺直英〉も同じように降伏開城した日美容院


更に1592年文禄元年に天下人〈太閤=豊臣秀吉〉による〈朝鮮出兵=文禄の役美容院〉で、朝鮮の都〈漢城=ソウル〉に、先鋒第1軍〈小西行長〉〈宗義智〉隊馬が〈興仁門〉から馬第2軍〈加藤清正〉〈鍋島直茂〉隊が馬〈南大門〉から入城し馬第3軍〈黒田長政〉〈毛利吉成=毛利勝信〉隊馬に〈小早川隆景〉も入城した日馬


肥後〈宇土城〉(現熊本県宇土市)主〈小西行長〉は、敬虔(けいけん)なキリシタン大名で、同じく肥後〈熊本城〉(熊本県熊本市)主〈加藤清正〉は、日蓮宗を熱心に信仰しニコニコ互いに朝鮮半島で競い合いながら、朝鮮半島を北上して行ったのだった馬


第3軍として出陣する予定だった〈島津維新入道義弘〉は水軍船が間に合わず朝鮮半島への渡海が出来ずしょぼんようやく賃船船で〈釜山プサン〉に上陸した日船


更に1594年文禄3年に、後に徳川将軍家剣術指南役となる「柳生新陰流やぎゅうしんかげりゅう」の開祖、大和〈柳生〉の里(現奈良県柳生町)に〈柳生石舟斎宗厳やぎゅうせきしゅうさいむねよし〉に隠棲していた〈柳生石舟斎宗厳〉は〈大御所=徳川家康〉に請われてパー京都〈鷹峯たかがみね〉(現京都市北区)で「新陰流兵法」を〈大御所家康〉に伝授した日。


〈柳生宗厳〉は〈明智光秀〉の与力大名、大和〈郡山城〉(現奈良県大和郡山市)主〈筒井藤勝入道順慶〉の家老でニコニコ若いときから武芸諸流を習いニコニコ1563年永禄6年からは槍の名手〈宝蔵院胤栄ほうぞういんいんえい〉らと共に「新陰流」の祖で、上野〈箕輪城〉(現群馬県榛東村)主〈長野業盛〉の家老〈上泉伊勢守信綱〉に教えを請いショック!パー入門、二年余り修行鍛錬の後「新陰流」免許皆伝を与えられたのだったニコニコパー


〈大御所家康〉は〈柳生石舟斎〉に、徳川将軍家剣術指南役を命じたが〈石舟斎〉は、老齢を理由に辞退してショック!パー代わりに同行させて来た五男〈柳生宗矩やぎゅうむねのり〉を〈大御所家康〉に薦めパー〈二代征夷大将軍=徳川秀忠〉〈三代征夷大将軍=徳川家光〉の剣術指南役となり〈柳生但馬守宗矩〉として「柳生新陰流」の繁栄させたのであった…


更に1598年慶長3年に天下人〈太閤関白秀吉〉による〈朝鮮出兵=慶長の役美容院〉で〈鍋島直茂〉〈鍋島勝茂〉父子に〈太閤秀吉〉がプンプン朝鮮半島に在鮮の諸卒が逃亡する者が出た場合、成敗すべき事を〈浅野長吉=後の浅野長政〉〈稲葉重通〉(稲葉一鉄庶長子〉に伝達させた日。


更に1600年慶長5年に天下人〈太閤秀吉〉亡き後、専横著しい豊臣家五大老筆頭〈内大臣=徳川家康〉に対して豊臣家五奉行」から失脚させられた〈石田三成〉が五大老〈会津中納言=上杉景勝〉の執政家老〈直江山城守兼続〉と図り、東西から〈内府家康〉を挟み討つ策を講じたのだった

一方〈内府家康〉は〈太閤秀吉〉亡き後「五大老」「五奉行」の指導体制を無力化させる機会を狙いシラー最初に目をつけたのが、加賀〈金沢城〉(現石川県金沢市)主〈前田利長〉(大納言前田利家嫡男)であったが、亡き〈加賀大納言=前田利家〉の正室で〈前田利長〉の母親〈まつ=芳春院〉が、徳川の本拠〈江戸〉に人質に行くという形で、加賀前田攻めは白紙になっていた…


その為、五大老〈会津中納言=上杉景勝〉が、亡き〈太閤秀吉〉の命令で、越後から会津120万石に移封になり〈太閤秀吉〉死去後、会津〈若松城〉(現福島県会津若松市)に帰国して、内政に執り懸かり、城の修築や道路・橋の整備・家臣の新規召し抱え等を急いでいた中…


これに目をつけた〈内府家康〉は〈上杉景勝〉に対して再び京都に上洛して、不穏な会津領内の備えについて弁明する様に求めてきたが〈上杉景勝〉は内政干渉を理由に、上洛要請に応じなかったのだった…


その為〈内府家康〉は、詰問使として、家臣〈伊奈昭綱〉らを、会津〈若松城〉に派遣すると同時に「京都五山」〈相国寺〉の僧侶〈西笑承兌さいしょうしょうたい〉に〈上杉景勝〉の「非違八カ条」を、上杉家執政家老〈直江山城守兼続〉に宛てに書き〈伊奈図書頭昭綱〉が会津から大坂表に戻り〈直江兼続〉が、全文十六カ条からなる長文「直江状手紙」を返書手紙を書き連ねて〈内府家康〉の懸念を、根拠の無い言い掛かりだとしてしょぼんパー正面から堂々と弁明すると共にしょぼん〈内府家康〉の不正を逆に批判したのだったプンプンこの「直江状手紙」に〈内府家康〉は激怒してむかっ〈会津上杉征伐美容院〉を決定した日プンプン


更に1614年慶長19年に陸奥〈仙台城〉(現宮城県仙台市)主〈独眼竜=伊達政宗〉が家臣〈支倉常長〉他30人がスペイン艦隊に便乗して〈慶長遣欧使節団〉となり、日本人初のメキシコから大西洋を渡った日船


更に1616年元和2年に亡き父親〈大御所=徳川家康〉の神号を〈二代将軍=徳川秀忠〉が〈南光坊天海〉と〈金地院崇伝〉と〈神龍院梵舜〉に奇想するよう命じ〈崇伝〉と〈梵舜〉は「大明神」を〈天海〉は「大権現」を主張して〈天海〉僧正は「豊国大明神」を主張して対立しプンプン〈将軍秀忠〉の問いに対して〈天海〉僧正は「豊国大明神」(太閤秀吉)の嫡男〈豊臣秀頼〉は滅亡した為「大明神」は不吉であるとした発言で〈将軍秀忠〉は「東照大権現」とする事を決定した日。


よって件の如しビックリマーク
恐々謹言皐月三日
太閤
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