俺
参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ

太閤で~す
(*^∀^*)
イヤッホーイ
どぉもどぉも


今朝もセレブ出勤
昨日は残業ナッシブルだったから体育館JYM鍛練に出陣
50分間鍛練し
まづは広背筋・大円筋鍛練デッドリフト110㌔負荷5set計50回+再び広背筋・大円筋鍛練シーテッドロー30㌔負荷3set計60回+再び広背筋・大円筋鍛練フロントプルダウン57㌔負荷2set計20回+リバースラットプルダウン57㌔負荷2set計20回+ラストバックプルダウン52㌔負荷1set計10回だけ鍛練して時間切れ鍛練してきたぜィ
ンでバイトの〈フィジーカー大河クン〉が救命救急士試験受験するらしくmonster差し入れたったぜィ
今日5月11日は1473年文明5年に〈応仁の乱
〉で室町幕府軍を率いた、東軍総大将〈細川勝元〉が急死した命日
享年44歳過ぐる3月18日に70歳で死去した
〈応仁の乱
〉で西軍総大将〈山名持豊入道宗全〉に続いて、全国の諸大名を巻き込み、京の都洛中を焦土と化した〈応仁の乱
〉の東西両軍の総帥の急死により〈応仁の乱
〉は次第に終息していくのであった…
更に1561年永禄4年に、美濃〈稲葉山城=後の岐阜城〉主(現岐阜県岐阜市)〈斎藤義竜〉が急死し
た命日
享年35歳
そして嫡男〈斎藤龍興〉が家督を継いだ日。
〈斎藤義竜〉は美濃守護職〈土岐頼芸ときよりのり〉の子であると宣言して
1556年弘治2年〈長良川の合戦
〉で、父〈蝮=斎藤利政入道道三〉を討ち滅ぼした事で、亡き〈斎藤道三〉が美濃一国を譲るとした遺言で娘〈帰蝶=濃姫〉の婿、尾張〈清洲城〉(現愛知県清須市)主〈織田信長〉に譲るとし〈織田信長〉は前年5月〈桶狭間の合戦
〉で、駿河
遠江・三河の大守〈今川義元〉を討ち取って以降、勢い盛んで、美濃侵攻を加速させてきている中での〈斎藤義竜〉の急死であった
そして〈織田信長〉は、亡き〈斎藤義竜〉の嫡子〈斎藤龍興〉を攻めたてていくのであった…
しかし〈斎藤義竜〉は、父〈蝮=斎藤道三〉を討った後、中国の歴史上で父を殺した者の名前をとって「范可はんか」と名乗ったのだった…
更に1569年永禄12年に相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏政〉隠居〈北条氏康〉父子が、三河〈岡崎城〉(現愛知県岡崎市)主〈徳川家康〉との「相三同盟」締結にあたり、一門衆〈黄八幡=北条綱成〉から、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信入道信玄〉に駿河
を追われ
遠江〈掛川城〉(現静岡県掛川市)主〈朝比奈備中守泰朝〉のもとに逃げ込み籠城中の〈今川氏真〉(今川義元嫡男)側近〈三浦左京亮元政〉に〈今川氏真〉が〈徳川家康〉と和睦し〈掛川城〉を開城後、北条領へ迎える使者〈御宿伯耆守入道〉を送ると伝え、既に徳川方との人質交換も済んだと伝えた日。
更に1570年元亀元年に天下統一を推し進める
美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田信長〉が、裏切った妹婿、北近江〈小谷城〉(現滋賀県長浜市)主〈浅井長政〉を討伐せんと
2万の織田軍を率いて迫る中
〈浅井長政〉の挙兵により窮地を救われた三代にわたる同盟関係の、越前〈一乗谷城〉(現福井県福井市)主〈朝倉義景〉は自ら出陣はせず〈朝倉景健〉を総大将とする援軍を派兵した日
更に1571年元亀2年に大和〈多聞山城〉(現奈良県奈良市)主〈松永弾正少弼久秀〉の嫡男〈松永久通〉〈竹内秀勝〉ら松永軍が9日に〈窪之庄城〉(現奈良県奈良市)を包囲し
救援に馳せ参じた
〈筒井藤勝入道順慶〉軍に撃退された日
同じ日、朝廷が甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田信玄〉に天下統一を推し進める
美濃〈岐阜城〉主〈織田信長〉軍により焼き討ちされた〈比叡山=延暦寺〉の再興を要請した日。
更に1574年天正2年に出羽〈米沢城〉(現山形県米沢市)主〈伊達輝宗〉(伊達政宗の父親)が、隣国〈山形城〉(現山形県山形市)主で、正室〈義姫=お東の方〉(伊達政宗母親)の父親〈最上義守〉と、最上家長男〈最上義光もがみよしあき〉との最上家家督相続をめぐってのいさかいに
岳父である〈最上義守〉に加勢介入した日。
〈最上義光〉は〈伊達輝宗〉と、父親〈最上義守〉勢にも負けず、優勢を確保して
最上家を相続して出羽平定に向け
躍進していくのであった…
同じ日、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田四郎勝頼〉が
遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉方に寝返った〈奥平美作守貞能〉嫡男〈奥平九八郎貞昌=後の奥平信昌〉が守備する、三河〈長篠城〉(現愛知県新城市)への攻撃を開始し〈
寒狭川
=豊川〉に筏(いかだ)を浮かべて〈長篠城=野牛曲輪〉を攻撃するも武田軍は奥平方に撃退された日
更に1578年天正6年に亡き〈武田信玄〉により百姓から取立てられ、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈関東菅領=山内上杉謙信〉への抑えとして、北信濃〈海津城〉(現長野県長野市)に配置されていた、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田四郎勝頼〉重臣〈春日虎綱=高坂弾正昌宣〉が〈海津城〉で死去した命日享年52歳
更に1579年天正7年に「天下布武」のもと天下統一を推し進める〈前右大臣=織田信長〉の本拠、近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)天守が完成し
吉日ということで天守に居を移した日
〈織田信長〉は、前年5月甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田勝頼〉を、三河〈長篠設楽ヶ原の合戦
〉で討ち敗ると、翌年1576年天正4年2月から、重臣〈丹羽長秀〉に命じて〈観音寺山〉に連なる〈安土山〉に〈安土城〉の築城を開始し、美濃〈岐阜城〉から重臣〈佐久間信盛〉の屋敷に移り、次いで仮屋敷に移っていたが〈安土山〉山頂に五層七重の天守閣が完成すると〈織田信長〉は天守閣内に移り住み、天守閣内部には、当代きっての絵師〈狩野永徳〉による
豪華絢爛な障壁画が施され
最上階は、大和奈良の〈法隆寺=夢殿〉の如く、多角形の天守閣が造られていたのだった…
更に1582年天正10年に安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉方〈清水宗治〉の備中〈高松城水責め
〉を開始した〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉が〈
足守川
〉取水口を馬廻衆〈加藤虎之介清正〉に堤防南側に〈山内一豊〉を守備させ
〈龍王山〉から〈高松城〉東側〈石井山=蛙ヶ鼻かわずがはな〉に本陣を移した日
同じ日〈神戸(織田)信孝〉を総大将とする〈津田(織田)信澄〉(織田信行嫡男・織田信長甥)〈丹羽五郎左衛門長秀〉軍が
四国平定と土佐〈岡豊城〉(現高知県南国市)主〈長宗我部元親〉討伐の為、摂津〈住吉〉に集結して四国への渡海の準備を開始した日。
同じ日、遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉が駿河
拝領と、甲斐の河内領を安堵された〈穴山信君入道梅雪〉(武田信玄娘婿)と共に、近江〈安土城〉主〈前右大臣信長〉に御礼のため出立して
三河〈岡崎城〉(現愛知県岡崎市)に入城し
〈松平家忠〉が出迎えた日。
更に1584年天正12年に〈小牧・長久手の合戦
〉で〈羽柴秀吉=後の豊臣秀吉〉軍が
尾張〈清洲城〉(現愛知県清須市)主〈織田信雄〉(織田信長次男)方支城、美濃〈竹ヶ鼻城〉(現岐阜県羽島市)水責めの為
堤防構築を開始した日
同じ日、織田家普代重臣の亡き〈佐久間信盛〉次男〈佐久間道徳〉が京都洛中一条に拠り〈羽柴秀吉〉に謀反に及び、山城〈淀城〉(現京都府京都市伏見区)代〈小野木重次=小野木重勝〉が手勢3百を率いて一条車之町~実相院町を包囲するも〈佐久間道徳〉は逃亡し
町人40人が捕らえられ〈淀城〉に連行された日。
更に1586年天正14年に相模〈小田原城〉主〈北条氏直〉が、武蔵〈鉢形城〉(現埼玉県大里郡寄居町)主〈北条安房守氏邦〉(北条氏康五男)に命じて、信濃小県郡〈上田城〉(現長野県上田市)主〈真田安房守昌幸〉方支城の、上野〈沼田城〉(現群馬県沼田市)将〈矢沢薩摩守頼綱〉(真田幸隆弟・真田昌幸叔父)に降服開城を促すも〈矢沢頼綱〉は断固拒絶し
〈北条氏邦〉軍が〈沼田城〉を決定した日
更に1591年天正19年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉による〈小田原征伐
〉で降伏して紀伊〈高野山=金剛峯寺〉に追放されていた〈北条氏直〉が〈関白秀吉〉から、摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)下の、改易された〈大納言=織田信雄〉邸を与えられたのだった。
更に1596年文禄5年に加賀〈金沢城〉(現石川県金沢市)主〈槍の又左=前田利家〉が朝廷から「従二位」「権大納言」に任じられた日で、以降〈加賀大納言=前田利家〉と呼ばれるようになったのだった。
更に1607年慶長12年に徳川幕府が、亡き〈太閤=豊臣秀吉〉の〈朝鮮出兵=文禄・慶長の役
〉により
国交が断絶していた〈朝鮮〉〈明国〉両国との、国交正常化に向けて〈大御所=徳川家康〉は、薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津維新入道義弘〉が、西軍〈石田三成〉方となり〈内大臣=徳川家康〉本陣への突撃を敢行した1600年慶長5年天下分け目の〈関ヶ原の合戦
〉で、滅亡の危機的状況にあった島津氏の、隠居していた先代〈島津義久入道龍伯斎〉に領地安堵を行った上
新当主となった〈島津家久〉を通じて〈明国〉の朝貢国である〈琉球りゅうきゅう〉(現沖縄県)を介して〈明国〉との国交正常化交渉を〈対馬〉領主〈宗義智〉に命じて〈朝鮮〉の〈李朝〉との国交正常化交渉を続けてきたが…〈李朝〉が徳川幕府との国交正常化を許認可し、国書
を携えて〈朝鮮通信使〉が訪日した日。
徳川幕府は、その後〈大坂夏の陣
〉で豊臣氏を攻め滅ぼし
亡き〈太閤秀吉〉を奉る、京都〈豊国大明神=太閤秀吉〉の神号を剥奪し
〈豊国神社〉も破壊して、豊臣家の痕跡を歴史上から抹殺していく作業に専念するのだった…
更に1615年慶長20年に〈大坂夏の陣
〉後、徳川幕府による
豊臣方の残党狩りが本格的に始まり
山城〈石清水八幡宮〉(現京都府八幡市)付近に潜伏していた〈長宗我部盛親〉(長宗我部元親四男)が〈蜂須賀家政〉(蜂須賀小六正勝嫡男)家臣〈長坂七郎左衛門〉に捕らえられ
京都洛中〈二条城〉(現京都府京都市上京区)門外の柵に縛りつけられた日。
よって件の如し
恐々謹言皐月十一日
太閤








参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ


太閤で~す(*^∀^*)
イヤッホーイ

どぉもどぉも



今朝もセレブ出勤
昨日は残業ナッシブルだったから体育館JYM鍛練に出陣
50分間鍛練し
まづは広背筋・大円筋鍛練デッドリフト110㌔負荷5set計50回+再び広背筋・大円筋鍛練シーテッドロー30㌔負荷3set計60回+再び広背筋・大円筋鍛練フロントプルダウン57㌔負荷2set計20回+リバースラットプルダウン57㌔負荷2set計20回+ラストバックプルダウン52㌔負荷1set計10回だけ鍛練して時間切れ鍛練してきたぜィ
ンでバイトの〈フィジーカー大河クン〉が救命救急士試験受験するらしくmonster差し入れたったぜィ

今日5月11日は1473年文明5年に〈応仁の乱
〉で室町幕府軍を率いた、東軍総大将〈細川勝元〉が急死した命日
享年44歳過ぐる3月18日に70歳で死去した
〈応仁の乱
〉で西軍総大将〈山名持豊入道宗全〉に続いて、全国の諸大名を巻き込み、京の都洛中を焦土と化した〈応仁の乱
〉の東西両軍の総帥の急死により〈応仁の乱
〉は次第に終息していくのであった…更に1561年永禄4年に、美濃〈稲葉山城=後の岐阜城〉主(現岐阜県岐阜市)〈斎藤義竜〉が急死し
た命日
享年35歳
そして嫡男〈斎藤龍興〉が家督を継いだ日。〈斎藤義竜〉は美濃守護職〈土岐頼芸ときよりのり〉の子であると宣言して
1556年弘治2年〈長良川の合戦
〉で、父〈蝮=斎藤利政入道道三〉を討ち滅ぼした事で、亡き〈斎藤道三〉が美濃一国を譲るとした遺言で娘〈帰蝶=濃姫〉の婿、尾張〈清洲城〉(現愛知県清須市)主〈織田信長〉に譲るとし〈織田信長〉は前年5月〈桶狭間の合戦
〉で、駿河
遠江・三河の大守〈今川義元〉を討ち取って以降、勢い盛んで、美濃侵攻を加速させてきている中での〈斎藤義竜〉の急死であった
そして〈織田信長〉は、亡き〈斎藤義竜〉の嫡子〈斎藤龍興〉を攻めたてていくのであった…しかし〈斎藤義竜〉は、父〈蝮=斎藤道三〉を討った後、中国の歴史上で父を殺した者の名前をとって「范可はんか」と名乗ったのだった…
更に1569年永禄12年に相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏政〉隠居〈北条氏康〉父子が、三河〈岡崎城〉(現愛知県岡崎市)主〈徳川家康〉との「相三同盟」締結にあたり、一門衆〈黄八幡=北条綱成〉から、甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信入道信玄〉に駿河
を追われ
遠江〈掛川城〉(現静岡県掛川市)主〈朝比奈備中守泰朝〉のもとに逃げ込み籠城中の〈今川氏真〉(今川義元嫡男)側近〈三浦左京亮元政〉に〈今川氏真〉が〈徳川家康〉と和睦し〈掛川城〉を開城後、北条領へ迎える使者〈御宿伯耆守入道〉を送ると伝え、既に徳川方との人質交換も済んだと伝えた日。更に1570年元亀元年に天下統一を推し進める
美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田信長〉が、裏切った妹婿、北近江〈小谷城〉(現滋賀県長浜市)主〈浅井長政〉を討伐せんと
2万の織田軍を率いて迫る中
〈浅井長政〉の挙兵により窮地を救われた三代にわたる同盟関係の、越前〈一乗谷城〉(現福井県福井市)主〈朝倉義景〉は自ら出陣はせず〈朝倉景健〉を総大将とする援軍を派兵した日
更に1571年元亀2年に大和〈多聞山城〉(現奈良県奈良市)主〈松永弾正少弼久秀〉の嫡男〈松永久通〉〈竹内秀勝〉ら松永軍が9日に〈窪之庄城〉(現奈良県奈良市)を包囲し
救援に馳せ参じた
〈筒井藤勝入道順慶〉軍に撃退された日
同じ日、朝廷が甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田信玄〉に天下統一を推し進める
美濃〈岐阜城〉主〈織田信長〉軍により焼き討ちされた〈比叡山=延暦寺〉の再興を要請した日。更に1574年天正2年に出羽〈米沢城〉(現山形県米沢市)主〈伊達輝宗〉(伊達政宗の父親)が、隣国〈山形城〉(現山形県山形市)主で、正室〈義姫=お東の方〉(伊達政宗母親)の父親〈最上義守〉と、最上家長男〈最上義光もがみよしあき〉との最上家家督相続をめぐってのいさかいに
岳父である〈最上義守〉に加勢介入した日。〈最上義光〉は〈伊達輝宗〉と、父親〈最上義守〉勢にも負けず、優勢を確保して
最上家を相続して出羽平定に向け
躍進していくのであった…同じ日、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田四郎勝頼〉が
遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉方に寝返った〈奥平美作守貞能〉嫡男〈奥平九八郎貞昌=後の奥平信昌〉が守備する、三河〈長篠城〉(現愛知県新城市)への攻撃を開始し〈
寒狭川
=豊川〉に筏(いかだ)を浮かべて〈長篠城=野牛曲輪〉を攻撃するも武田軍は奥平方に撃退された日
更に1578年天正6年に亡き〈武田信玄〉により百姓から取立てられ、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈関東菅領=山内上杉謙信〉への抑えとして、北信濃〈海津城〉(現長野県長野市)に配置されていた、甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田四郎勝頼〉重臣〈春日虎綱=高坂弾正昌宣〉が〈海津城〉で死去した命日享年52歳

更に1579年天正7年に「天下布武」のもと天下統一を推し進める〈前右大臣=織田信長〉の本拠、近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)天守が完成し
吉日ということで天守に居を移した日
〈織田信長〉は、前年5月甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田勝頼〉を、三河〈長篠設楽ヶ原の合戦
〉で討ち敗ると、翌年1576年天正4年2月から、重臣〈丹羽長秀〉に命じて〈観音寺山〉に連なる〈安土山〉に〈安土城〉の築城を開始し、美濃〈岐阜城〉から重臣〈佐久間信盛〉の屋敷に移り、次いで仮屋敷に移っていたが〈安土山〉山頂に五層七重の天守閣が完成すると〈織田信長〉は天守閣内に移り住み、天守閣内部には、当代きっての絵師〈狩野永徳〉による
豪華絢爛な障壁画が施され
最上階は、大和奈良の〈法隆寺=夢殿〉の如く、多角形の天守閣が造られていたのだった…更に1582年天正10年に安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉方〈清水宗治〉の備中〈高松城水責め
〉を開始した〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉が〈
足守川
〉取水口を馬廻衆〈加藤虎之介清正〉に堤防南側に〈山内一豊〉を守備させ
〈龍王山〉から〈高松城〉東側〈石井山=蛙ヶ鼻かわずがはな〉に本陣を移した日
同じ日〈神戸(織田)信孝〉を総大将とする〈津田(織田)信澄〉(織田信行嫡男・織田信長甥)〈丹羽五郎左衛門長秀〉軍が
四国平定と土佐〈岡豊城〉(現高知県南国市)主〈長宗我部元親〉討伐の為、摂津〈住吉〉に集結して四国への渡海の準備を開始した日。同じ日、遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉が駿河
拝領と、甲斐の河内領を安堵された〈穴山信君入道梅雪〉(武田信玄娘婿)と共に、近江〈安土城〉主〈前右大臣信長〉に御礼のため出立して
三河〈岡崎城〉(現愛知県岡崎市)に入城し
〈松平家忠〉が出迎えた日。更に1584年天正12年に〈小牧・長久手の合戦
〉で〈羽柴秀吉=後の豊臣秀吉〉軍が
尾張〈清洲城〉(現愛知県清須市)主〈織田信雄〉(織田信長次男)方支城、美濃〈竹ヶ鼻城〉(現岐阜県羽島市)水責めの為
堤防構築を開始した日同じ日、織田家普代重臣の亡き〈佐久間信盛〉次男〈佐久間道徳〉が京都洛中一条に拠り〈羽柴秀吉〉に謀反に及び、山城〈淀城〉(現京都府京都市伏見区)代〈小野木重次=小野木重勝〉が手勢3百を率いて一条車之町~実相院町を包囲するも〈佐久間道徳〉は逃亡し
町人40人が捕らえられ〈淀城〉に連行された日。更に1586年天正14年に相模〈小田原城〉主〈北条氏直〉が、武蔵〈鉢形城〉(現埼玉県大里郡寄居町)主〈北条安房守氏邦〉(北条氏康五男)に命じて、信濃小県郡〈上田城〉(現長野県上田市)主〈真田安房守昌幸〉方支城の、上野〈沼田城〉(現群馬県沼田市)将〈矢沢薩摩守頼綱〉(真田幸隆弟・真田昌幸叔父)に降服開城を促すも〈矢沢頼綱〉は断固拒絶し
〈北条氏邦〉軍が〈沼田城〉を決定した日
更に1591年天正19年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉による〈小田原征伐
〉で降伏して紀伊〈高野山=金剛峯寺〉に追放されていた〈北条氏直〉が〈関白秀吉〉から、摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)下の、改易された〈大納言=織田信雄〉邸を与えられたのだった。更に1596年文禄5年に加賀〈金沢城〉(現石川県金沢市)主〈槍の又左=前田利家〉が朝廷から「従二位」「権大納言」に任じられた日で、以降〈加賀大納言=前田利家〉と呼ばれるようになったのだった。
更に1607年慶長12年に徳川幕府が、亡き〈太閤=豊臣秀吉〉の〈朝鮮出兵=文禄・慶長の役
〉により
国交が断絶していた〈朝鮮〉〈明国〉両国との、国交正常化に向けて〈大御所=徳川家康〉は、薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津維新入道義弘〉が、西軍〈石田三成〉方となり〈内大臣=徳川家康〉本陣への突撃を敢行した1600年慶長5年天下分け目の〈関ヶ原の合戦
〉で、滅亡の危機的状況にあった島津氏の、隠居していた先代〈島津義久入道龍伯斎〉に領地安堵を行った上新当主となった〈島津家久〉を通じて〈明国〉の朝貢国である〈琉球りゅうきゅう〉(現沖縄県)を介して〈明国〉との国交正常化交渉を〈対馬〉領主〈宗義智〉に命じて〈朝鮮〉の〈李朝〉との国交正常化交渉を続けてきたが…〈李朝〉が徳川幕府との国交正常化を許認可し、国書
を携えて〈朝鮮通信使〉が訪日した日。徳川幕府は、その後〈大坂夏の陣
〉で豊臣氏を攻め滅ぼし
亡き〈太閤秀吉〉を奉る、京都〈豊国大明神=太閤秀吉〉の神号を剥奪し
〈豊国神社〉も破壊して、豊臣家の痕跡を歴史上から抹殺していく作業に専念するのだった…更に1615年慶長20年に〈大坂夏の陣
〉後、徳川幕府による
豊臣方の残党狩りが本格的に始まり
山城〈石清水八幡宮〉(現京都府八幡市)付近に潜伏していた〈長宗我部盛親〉(長宗我部元親四男)が〈蜂須賀家政〉(蜂須賀小六正勝嫡男)家臣〈長坂七郎左衛門〉に捕らえられ
京都洛中〈二条城〉(現京都府京都市上京区)門外の柵に縛りつけられた日。よって件の如し

恐々謹言皐月十一日
太閤








帰りもセレブ帰還したぜィ
部長にノルマせかされ
=川浦温泉〉の温泉施設拡張を命じた日
で増水していた〈
信濃更級郡の〈岡田十左衛門〉に命じて6日誅殺し






追加仕り申した次第。
戦い後、京都で〈雑賀衆頭領=鈴木重秀=雑賀孫一〉の首級が晒された日で、この〈雑賀孫一〉の首は偽物であった。




