俺
参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ

太閤で~す
(*^∀^*)
イヤッホーイ
どぉもどぉも


今朝もセレブ出勤
昨日も夕方から体育館JYM鍛練に出陣
まづは広背筋・大円筋・大腿二頭筋ハムストリング・前腕筋鍛練デッドリフト110㌔負荷6set計30回+再び広背筋・大円筋鍛練シーテッドロー30㌔負荷4set計80回+ワンハンドロー22㌔負荷左右
各1setづつ各計12回づつ+腹直筋下部鍛練ハンキングレッグレイズ6set計130回+ウォーキング2.3キロ+ラスト腹斜筋鍛練インクラインサイドベント15㌔負荷左右
各1setづつ各計30回づつ鍛練仕り申したぜィ
p(^^)q
今日6月13日は1523年大永3年に安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利元就〉が、出雲〈富田月山城〉(現島根県安来市)主〈尼子経久〉の大軍の勢威に屈して
周防〈山口〉の守護大名〈大内義隆〉方から寝返り、尼子方となって参陣し〈大内義隆〉方、西条〈鏡山城〉(現広島県東広島市)主〈蔵田房信〉を攻めた日
更に1535年天文4年に越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈越後守護代=長尾為景〉(上杉謙信父親)が〈上条城〉(現新潟県柏崎市)主〈上条定憲〉討伐のための正当性を求め〈応仁の乱
〉以降、権威の失墜している室町幕府ではなく朝廷に「御旗」の発給を奏上しm(__)m〈後奈良天皇〉が発給した日。
更に1537年天文6年に相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏綱〉が〈河東の一乱
〉で海上が荒れ
北条水軍
進退不能の中、再び駿河
へ出陣した日
更に1545年天文14年に甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信=後の武田信玄〉が、信濃伊那郡〈箕輪城=福与城〉(現長野県上伊那郡箕輪町)主〈藤沢頼親〉を降伏開城させた、筑摩郡〈林城〉(現長野県松本市)主〈信濃守護職=小笠原長時〉領〈塩尻〉に出陣し〈桔梗ヶ原〉に進軍して小笠原方の〈熊野井城〉(現長野県塩尻市)が自落した日。
更に1573年元亀4年に〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉が擁立に貢献した、美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田信長〉の傀儡(かいらい)となることを嫌い
挙兵を企て、兵糧米提供を、安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉(毛利元就嫡孫)に要請した日
更に1577年天正5年に天下統一を推し進める
近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市〉主〈右大臣=織田信長〉軍の包囲下にある、摂津大坂〈石山本願寺〉(現大阪城)法主〈顕如光佐けんにょこうさ〉上人が、信濃〈長沼〉の〈浄興寺〉の
甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田四郎勝頼〉に救援を要請した日。
更に1578年天正6年に越後の〈上杉謙信〉亡き後の二人の養子による〈御館の乱
〉で〈春日山城=本丸〉をいち速く占拠した〈上杉景勝〉(長尾政景次男・上杉謙信甥)方が、亡き〈上杉謙信〉が養父〈関東菅領=山内上杉憲政〉のために築いた〈御館〉(現新潟県上越市)の〈上杉景虎〉(北条氏康七男)方を攻撃再開し〈府中=直江津〉を焼き払い
〈御館〉を丸裸同然にした日。
更に1579年天正7年に美濃〈菩提山城〉(現岐阜県垂井町)主で〈羽柴秀吉=後の豊臣秀吉〉の稀代の名軍師〈竹中半兵衛重治〉が、播磨〈三木城〉攻めの〈平井山〉(現兵庫県三木市)陣中で病死した命日
享年36歳
軍師〈竹中半兵衛重治〉は、後年天下分け目の合戦
が行われた〈関ヶ原〉付近の美濃〈菩提山城〉主で、美濃〈稲葉山城〉(現岐阜県岐阜市)主〈蝮=斎藤利政入道道三〉〈斎藤義竜〉〈斎藤龍興〉の三代に仕えたが〈蝮=斎藤道三〉を攻め滅ぼした、嫡男〈斎藤義竜〉が急死し
〈斎藤龍興〉が家督を継ぐと、酒色におぼれ、治世が乱れて家臣の諫言にも耳を傾けない放蕩三昧の有り様に
美濃の行く末を懸念していた〈竹中半兵衛〉は岳父〈安藤伊賀守守就〉に協力を頼み、僅かな供廻りで〈斎藤竜興〉から〈稲葉山城〉を奪取したのだった…
美濃一国を譲り渡すとした、亡き舅〈蝮=斎藤道三〉の遺言状
により、隣国尾張〈清洲城〉(現愛知県清須市)→後に〈小牧山城〉主(現愛知県小牧市)と〈織田信長〉は美濃侵攻にために〈竹中半兵衛〉に、再三の〈稲葉山城〉明け渡しと織田家への仕官を要請したが〈竹中半兵衛〉は、それを拒み
あっさりと〈斎藤竜興〉に〈稲葉山城〉を返還したのだった
その後、織田家家臣〈木下藤吉郎秀吉=後の豊臣秀吉〉から「三顧の礼」をもって軍師に迎え入れられ〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉を常に補佐して天下統一を願いながら〈黒田官兵衛孝高〉と共に〈羽柴秀吉〉を支えて、織田方から毛利方に寝返った〈別所長治〉の播磨〈三木城〉を包囲する〈平井山〉の陣所で、病身を推して指揮を執り〈前右大臣=織田信長〉に謀叛した〈荒木村重〉の説得に向かい、摂津〈有岡城〉内の石牢に幽閉されていた〈黒田官兵衛〉嫡男〈松寿丸=後の黒田長政〉を匿ったまま〈平井山〉陣中で〈羽柴秀吉〉の天下統一を〈黒田官兵衛〉に託して陣没したのであった
更に1580年天正8年に力士〈円浄寺源七〉が、近江〈安土城〉主〈前右大臣信長〉の勘気を蒙り
追放された日。
更に1582年天正10年6月2日早暁〈本能寺の変
〉で〈前右大臣信長〉を電光石火討った〈明智日向守光秀〉は、予想外に素早い〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉軍の山城〈山崎〉(現京都府乙訓郡大山崎町)へと進出
要衝〈天王山〉占拠を知り
山城〈勝竜寺城〉(現京都府長岡京市)に入城して迎撃態勢をとり
その後〈明智光秀〉は
弥生時代の古墳〈御坊塚=恵解山古墳〉(現京都府長岡京市)に本陣を移して
臨戦態勢を敷いた明智軍総勢1万6千
そして京都洛中の明智軍は〈二条御所〉(現京都府京都市上京区)に放火した日
一方〈羽柴秀吉〉は、摂津〈大坂〉から参陣して来た、亡き〈織田信長〉の三男〈神戸(織田)信孝〉と〈丹羽五郎左衛門長秀〉を迎えて〈天王山〉山麓〈宝寺=宝積寺〉(現京都府乙訓郡大山崎町)に着陣した羽柴軍総勢3万6千5百
そして亡君〈織田信長〉の弔い合戦〈山崎の合戦
〉の火蓋は、明智軍先鋒隊が
羽柴方〈高山右近〉隊
が守備する〈山崎〉の東黒門に押し寄せたところを、高山鉄砲隊が一斉射撃し
多大な死傷者を出して後退する明智勢に、東黒門を開いて高山隊
が突撃し
羽柴軍は扇状に広がる明智軍に向けて、西国街道と〈
淀川
〉川岸沿いに進撃を開始したのだった
迎え討つ〈明智光秀〉は、家臣〈松田太郎左衛門〉〈並河易家〉隊
を〈天王山〉争奪に派遣したが〈羽柴秀吉〉軍師〈黒田官兵衛孝高〉や〈神子田正治〉と〈羽柴秀吉〉の弟〈羽柴秀長〉隊
と交戦におよんだが
〈天王山〉は羽柴軍に奪われてしまい
戦闘は午後四時頃、羽柴軍〈中川清秀〉隊が、前進
の気配を見せた為…明智軍右翼の旧室町幕府奉公衆〈伊勢貞興〉〈御牧景重〉〈諏訪盛直〉隊
が攻撃を開始し
これを機に羽柴・明智両軍が激突
〈明智光秀〉の重臣〈斎藤内蔵助利三〉(徳川家光乳母春日局父親)と〈柴田勝定〉〈阿閉貞征あつじさだゆき〉(元浅井長政家臣)〈溝尾勝兵衛〉隊が
西国街道から前進して来た、羽柴軍先鋒〈高山右近〉隊
を、明智方〈津田信春〉隊が、羽柴方〈池田恒興〉〈加藤光泰〉隊
を迎撃し
明智軍は数に倍する
羽柴軍を相手に、各隊
が奮戦
したものの
多勢に無勢
明智軍〈津田信春〉隊
が崩れはじめ〈池田恒興〉〈加藤光泰〉隊
が優勢となり〈御坊塚〉〈明智光秀〉本陣の腹背に向かって〈丹羽長秀〉〈神戸信孝〉隊が突撃を敢行し

羽柴軍が総攻撃に転じて、激闘2時間余りで明智軍は総崩れとなり〈勝竜寺城〉へと退却
残存兵力は僅かに1千で
籠城戦では、もはや勝ち目のなかった〈明智光秀〉は
夜陰に乗じて
〈勝竜寺城〉を脱出し
〈久我縄手〉→〈伏見〉に向かい
〈小栗栖おぐるす〉(現京都府京都市山科区)に差し掛かったところで、付近の土豪〈飯田党〉・農民らの落武者狩りの竹槍に突かれて、重症を負ってしまい
家臣〈溝尾勝兵衛〉に介錯を命じて絶命したのだった
〈山崎の合戦
〉で〈明智光秀〉は大敗した日
〈織田信長〉を討って京都での政治は、僅か3日間の天下であった
…
同じ日〈神戸(織田)信孝〉が〈明智光秀〉方の、山城〈勝竜寺城〉への攻撃を、大和〈郡山城〉(現奈良県大和郡山市)主〈筒井藤勝入道順慶〉に伝え〈筒井順慶〉に上山山城南口から〈明智光秀〉軍に攻撃を仕掛けるよう命じた日。
同じ日、越後〈春日山城〉主〈上杉景勝〉が〈本能寺の変
〉を知って美濃へ撤退した
織田家臣〈森長可〉(森吉可長男・森蘭丸兄)に替わって北信濃四郡(高井郡・水内郡・更級郡・埴科郡)を制圧した日。
同じ日〈本能寺の変
〉の混乱に乗じて、相模〈小田原城〉隠居〈北条氏政〉は当主〈北条氏直〉に上野奪還を指示するとともに3月〈武田勝頼〉を裏切って、甲斐に侵攻して来た〈秋田城介=織田信忠〉の命令で殺害された〈小山田備中守信茂〉の居城、甲斐〈岩殿山城〉(現山梨県大月市)を家臣、相模〈津久井城〉(現神奈川県相模原市緑区)主〈内藤綱秀〉に接収させた日。
同じ日、越後〈春日山城〉主〈上杉景勝〉家臣〈藤田信吉〉が3月〈武田勝頼〉滅亡後、上野国衆らと共に、亡き〈前右大臣信長〉の命により「関東菅領」として上野〈厩橋城うまやばし〉(現群馬県前橋市)主となった〈滝川左近将監一益〉に仕えたが〈本能寺の変
〉後〈上杉景勝〉家臣〈長尾伊賀守〉に内通して上杉軍5千で
再び〈沼田城〉(現群馬県沼田市)を奪還すべく
〈滝川一益〉家臣〈滝川益重=滝川益氏〉4千が守備する〈沼田城〉を攻撃するも
〈滝川一益〉が〈小幡・和田・倉賀野・由良・安中・館林長尾・内藤〉ら上野国衆2万を率いて北上して来た為
〈藤田信吉〉〈長尾伊賀守〉は〈沼田城〉攻略を諦め越後へ撤退した日
更に1584年天正12年に近江〈日野城〉(現滋賀県日野市)主〈麒麟児=蒲生賦秀がもうますひで=後の蒲生氏郷〉を、伊勢〈松ヶ島城〉(現三重県松阪市)へ転封した日。
更に1586年天正14年に九州全土平定を目指す
薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉が筑前攻めのため出陣した日
更に1611年慶長16年に信濃小県郡〈上田城〉(現長野県上田市)主〈真田伊豆守信之〉が6月4日紀伊〈高野山〉山麓〈九度山=善名称院〉(現和歌山県伊都郡九度山町)で死去した父親〈真田安房守昌幸〉を弔いたいと、江戸幕府幕閣老中〈本多佐渡守正信〉に相談するも…〈本多正信〉は亡き〈真田昌幸〉は流罪人であり、幕府の許可を得るようにという書状
を送られた日
更に1615年元和元年に5月〈大坂夏の陣
〉で〈右大臣=豊臣秀頼〉を滅ぼした徳川幕府が、全国の諸大名に「一国一城令」を公布した日で
徳川幕府は、諸大名が領国内の居城以外の出城の破却を命じて、諸大名の力を削ぎ落としていくのであった…
同じ日、天下人〈大御所=徳川家康〉が、伊勢〈亀山城〉(現三重県亀山市)主〈松平忠明〉を〈大坂夏の陣
〉で荒廃した摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)主10万石に任じ〈大坂〉の復興を命じた日。
よって件の如し
恐々謹言水無月十三日
太閤












参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ


太閤で~す(*^∀^*)
イヤッホーイ

どぉもどぉも



今朝もセレブ出勤
昨日も夕方から体育館JYM鍛練に出陣
まづは広背筋・大円筋・大腿二頭筋ハムストリング・前腕筋鍛練デッドリフト110㌔負荷6set計30回+再び広背筋・大円筋鍛練シーテッドロー30㌔負荷4set計80回+ワンハンドロー22㌔負荷左右
各1setづつ各計12回づつ+腹直筋下部鍛練ハンキングレッグレイズ6set計130回+ウォーキング2.3キロ+ラスト腹斜筋鍛練インクラインサイドベント15㌔負荷左右
各1setづつ各計30回づつ鍛練仕り申したぜィ
p(^^)q今日6月13日は1523年大永3年に安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利元就〉が、出雲〈富田月山城〉(現島根県安来市)主〈尼子経久〉の大軍の勢威に屈して
周防〈山口〉の守護大名〈大内義隆〉方から寝返り、尼子方となって参陣し〈大内義隆〉方、西条〈鏡山城〉(現広島県東広島市)主〈蔵田房信〉を攻めた日
更に1535年天文4年に越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈越後守護代=長尾為景〉(上杉謙信父親)が〈上条城〉(現新潟県柏崎市)主〈上条定憲〉討伐のための正当性を求め〈応仁の乱
〉以降、権威の失墜している室町幕府ではなく朝廷に「御旗」の発給を奏上しm(__)m〈後奈良天皇〉が発給した日。更に1537年天文6年に相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏綱〉が〈河東の一乱
〉で海上が荒れ
北条水軍
進退不能の中、再び駿河
へ出陣した日
更に1545年天文14年に甲斐〈躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた〉(現山梨県甲府市)主〈武田晴信=後の武田信玄〉が、信濃伊那郡〈箕輪城=福与城〉(現長野県上伊那郡箕輪町)主〈藤沢頼親〉を降伏開城させた、筑摩郡〈林城〉(現長野県松本市)主〈信濃守護職=小笠原長時〉領〈塩尻〉に出陣し〈桔梗ヶ原〉に進軍して小笠原方の〈熊野井城〉(現長野県塩尻市)が自落した日。
更に1573年元亀4年に〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉が擁立に貢献した、美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田信長〉の傀儡(かいらい)となることを嫌い
挙兵を企て、兵糧米提供を、安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉(毛利元就嫡孫)に要請した日更に1577年天正5年に天下統一を推し進める
近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市〉主〈右大臣=織田信長〉軍の包囲下にある、摂津大坂〈石山本願寺〉(現大阪城)法主〈顕如光佐けんにょこうさ〉上人が、信濃〈長沼〉の〈浄興寺〉の
甲斐〈躑躅ヶ崎館〉主〈武田四郎勝頼〉に救援を要請した日。更に1578年天正6年に越後の〈上杉謙信〉亡き後の二人の養子による〈御館の乱
〉で〈春日山城=本丸〉をいち速く占拠した〈上杉景勝〉(長尾政景次男・上杉謙信甥)方が、亡き〈上杉謙信〉が養父〈関東菅領=山内上杉憲政〉のために築いた〈御館〉(現新潟県上越市)の〈上杉景虎〉(北条氏康七男)方を攻撃再開し〈府中=直江津〉を焼き払い
〈御館〉を丸裸同然にした日。更に1579年天正7年に美濃〈菩提山城〉(現岐阜県垂井町)主で〈羽柴秀吉=後の豊臣秀吉〉の稀代の名軍師〈竹中半兵衛重治〉が、播磨〈三木城〉攻めの〈平井山〉(現兵庫県三木市)陣中で病死した命日
享年36歳
軍師〈竹中半兵衛重治〉は、後年天下分け目の合戦
が行われた〈関ヶ原〉付近の美濃〈菩提山城〉主で、美濃〈稲葉山城〉(現岐阜県岐阜市)主〈蝮=斎藤利政入道道三〉〈斎藤義竜〉〈斎藤龍興〉の三代に仕えたが〈蝮=斎藤道三〉を攻め滅ぼした、嫡男〈斎藤義竜〉が急死し
〈斎藤龍興〉が家督を継ぐと、酒色におぼれ、治世が乱れて家臣の諫言にも耳を傾けない放蕩三昧の有り様に
美濃の行く末を懸念していた〈竹中半兵衛〉は岳父〈安藤伊賀守守就〉に協力を頼み、僅かな供廻りで〈斎藤竜興〉から〈稲葉山城〉を奪取したのだった…美濃一国を譲り渡すとした、亡き舅〈蝮=斎藤道三〉の遺言状
により、隣国尾張〈清洲城〉(現愛知県清須市)→後に〈小牧山城〉主(現愛知県小牧市)と〈織田信長〉は美濃侵攻にために〈竹中半兵衛〉に、再三の〈稲葉山城〉明け渡しと織田家への仕官を要請したが〈竹中半兵衛〉は、それを拒み
あっさりと〈斎藤竜興〉に〈稲葉山城〉を返還したのだった
その後、織田家家臣〈木下藤吉郎秀吉=後の豊臣秀吉〉から「三顧の礼」をもって軍師に迎え入れられ〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉を常に補佐して天下統一を願いながら〈黒田官兵衛孝高〉と共に〈羽柴秀吉〉を支えて、織田方から毛利方に寝返った〈別所長治〉の播磨〈三木城〉を包囲する〈平井山〉の陣所で、病身を推して指揮を執り〈前右大臣=織田信長〉に謀叛した〈荒木村重〉の説得に向かい、摂津〈有岡城〉内の石牢に幽閉されていた〈黒田官兵衛〉嫡男〈松寿丸=後の黒田長政〉を匿ったまま〈平井山〉陣中で〈羽柴秀吉〉の天下統一を〈黒田官兵衛〉に託して陣没したのであった

更に1580年天正8年に力士〈円浄寺源七〉が、近江〈安土城〉主〈前右大臣信長〉の勘気を蒙り
追放された日。更に1582年天正10年6月2日早暁〈本能寺の変
〉で〈前右大臣信長〉を電光石火討った〈明智日向守光秀〉は、予想外に素早い〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉軍の山城〈山崎〉(現京都府乙訓郡大山崎町)へと進出
要衝〈天王山〉占拠を知り
山城〈勝竜寺城〉(現京都府長岡京市)に入城して迎撃態勢をとり
その後〈明智光秀〉は
弥生時代の古墳〈御坊塚=恵解山古墳〉(現京都府長岡京市)に本陣を移して
臨戦態勢を敷いた明智軍総勢1万6千
そして京都洛中の明智軍は〈二条御所〉(現京都府京都市上京区)に放火した日
一方〈羽柴秀吉〉は、摂津〈大坂〉から参陣して来た、亡き〈織田信長〉の三男〈神戸(織田)信孝〉と〈丹羽五郎左衛門長秀〉を迎えて〈天王山〉山麓〈宝寺=宝積寺〉(現京都府乙訓郡大山崎町)に着陣した羽柴軍総勢3万6千5百

そして亡君〈織田信長〉の弔い合戦〈山崎の合戦
〉の火蓋は、明智軍先鋒隊が
羽柴方〈高山右近〉隊
が守備する〈山崎〉の東黒門に押し寄せたところを、高山鉄砲隊が一斉射撃し
多大な死傷者を出して後退する明智勢に、東黒門を開いて高山隊
が突撃し
羽柴軍は扇状に広がる明智軍に向けて、西国街道と〈
淀川
〉川岸沿いに進撃を開始したのだった
迎え討つ〈明智光秀〉は、家臣〈松田太郎左衛門〉〈並河易家〉隊
を〈天王山〉争奪に派遣したが〈羽柴秀吉〉軍師〈黒田官兵衛孝高〉や〈神子田正治〉と〈羽柴秀吉〉の弟〈羽柴秀長〉隊
と交戦におよんだが
〈天王山〉は羽柴軍に奪われてしまい
戦闘は午後四時頃、羽柴軍〈中川清秀〉隊が、前進
の気配を見せた為…明智軍右翼の旧室町幕府奉公衆〈伊勢貞興〉〈御牧景重〉〈諏訪盛直〉隊
が攻撃を開始し
これを機に羽柴・明智両軍が激突
〈明智光秀〉の重臣〈斎藤内蔵助利三〉(徳川家光乳母春日局父親)と〈柴田勝定〉〈阿閉貞征あつじさだゆき〉(元浅井長政家臣)〈溝尾勝兵衛〉隊が
西国街道から前進して来た、羽柴軍先鋒〈高山右近〉隊
を、明智方〈津田信春〉隊が、羽柴方〈池田恒興〉〈加藤光泰〉隊
を迎撃し
明智軍は数に倍する
羽柴軍を相手に、各隊
が奮戦
したものの
多勢に無勢
明智軍〈津田信春〉隊
が崩れはじめ〈池田恒興〉〈加藤光泰〉隊
が優勢となり〈御坊塚〉〈明智光秀〉本陣の腹背に向かって〈丹羽長秀〉〈神戸信孝〉隊が突撃を敢行し

羽柴軍が総攻撃に転じて、激闘2時間余りで明智軍は総崩れとなり〈勝竜寺城〉へと退却

残存兵力は僅かに1千で
籠城戦では、もはや勝ち目のなかった〈明智光秀〉は
夜陰に乗じて
〈勝竜寺城〉を脱出し
〈久我縄手〉→〈伏見〉に向かい
〈小栗栖おぐるす〉(現京都府京都市山科区)に差し掛かったところで、付近の土豪〈飯田党〉・農民らの落武者狩りの竹槍に突かれて、重症を負ってしまい
家臣〈溝尾勝兵衛〉に介錯を命じて絶命したのだった
〈山崎の合戦
〉で〈明智光秀〉は大敗した日
〈織田信長〉を討って京都での政治は、僅か3日間の天下であった
…同じ日〈神戸(織田)信孝〉が〈明智光秀〉方の、山城〈勝竜寺城〉への攻撃を、大和〈郡山城〉(現奈良県大和郡山市)主〈筒井藤勝入道順慶〉に伝え〈筒井順慶〉に上山山城南口から〈明智光秀〉軍に攻撃を仕掛けるよう命じた日。
同じ日、越後〈春日山城〉主〈上杉景勝〉が〈本能寺の変
〉を知って美濃へ撤退した
織田家臣〈森長可〉(森吉可長男・森蘭丸兄)に替わって北信濃四郡(高井郡・水内郡・更級郡・埴科郡)を制圧した日。同じ日〈本能寺の変
〉の混乱に乗じて、相模〈小田原城〉隠居〈北条氏政〉は当主〈北条氏直〉に上野奪還を指示するとともに3月〈武田勝頼〉を裏切って、甲斐に侵攻して来た〈秋田城介=織田信忠〉の命令で殺害された〈小山田備中守信茂〉の居城、甲斐〈岩殿山城〉(現山梨県大月市)を家臣、相模〈津久井城〉(現神奈川県相模原市緑区)主〈内藤綱秀〉に接収させた日。同じ日、越後〈春日山城〉主〈上杉景勝〉家臣〈藤田信吉〉が3月〈武田勝頼〉滅亡後、上野国衆らと共に、亡き〈前右大臣信長〉の命により「関東菅領」として上野〈厩橋城うまやばし〉(現群馬県前橋市)主となった〈滝川左近将監一益〉に仕えたが〈本能寺の変
〉後〈上杉景勝〉家臣〈長尾伊賀守〉に内通して上杉軍5千で
再び〈沼田城〉(現群馬県沼田市)を奪還すべく
〈滝川一益〉家臣〈滝川益重=滝川益氏〉4千が守備する〈沼田城〉を攻撃するも
〈滝川一益〉が〈小幡・和田・倉賀野・由良・安中・館林長尾・内藤〉ら上野国衆2万を率いて北上して来た為
〈藤田信吉〉〈長尾伊賀守〉は〈沼田城〉攻略を諦め越後へ撤退した日
更に1584年天正12年に近江〈日野城〉(現滋賀県日野市)主〈麒麟児=蒲生賦秀がもうますひで=後の蒲生氏郷〉を、伊勢〈松ヶ島城〉(現三重県松阪市)へ転封した日。
更に1586年天正14年に九州全土平定を目指す
薩摩〈内城〉(現鹿児島県鹿児島市)主〈島津義久〉が筑前攻めのため出陣した日
更に1611年慶長16年に信濃小県郡〈上田城〉(現長野県上田市)主〈真田伊豆守信之〉が6月4日紀伊〈高野山〉山麓〈九度山=善名称院〉(現和歌山県伊都郡九度山町)で死去した父親〈真田安房守昌幸〉を弔いたいと、江戸幕府幕閣老中〈本多佐渡守正信〉に相談するも…〈本多正信〉は亡き〈真田昌幸〉は流罪人であり、幕府の許可を得るようにという書状
を送られた日
更に1615年元和元年に5月〈大坂夏の陣
〉で〈右大臣=豊臣秀頼〉を滅ぼした徳川幕府が、全国の諸大名に「一国一城令」を公布した日で
徳川幕府は、諸大名が領国内の居城以外の出城の破却を命じて、諸大名の力を削ぎ落としていくのであった…同じ日、天下人〈大御所=徳川家康〉が、伊勢〈亀山城〉(現三重県亀山市)主〈松平忠明〉を〈大坂夏の陣
〉で荒廃した摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)主10万石に任じ〈大坂〉の復興を命じた日。よって件の如し

恐々謹言水無月十三日
太閤












朝から「仮面ライダーリバイス」→「ワンピース」観て「暴太郎戦隊ドンブラザース」は録画しといて夜は「鎌倉殿の13人」→最終回「マイファミリー」→「金田一少年の事件簿」と最初から最後までクライマックスだぜィ
北条軍が再び〈扇ヶ谷上杉朝興〉方を討ち敗る戦果を挙げ、この〈小沢原の合戦
滅亡に向かって没落の一途を辿るのであった
城内の金銀・兵糧を全て家臣・雑兵らに分配を終えると、軍勢を整えて摂津〈尼崎〉(現阪急尼崎駅)に進軍して
織田家一門として、関東の支配権を許認可してもらおうと考えていた、相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主〈北条氏政〉であったが…