俺
参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ

太閤で~す
(*^∀^*)
イヤッホーイ
どぉもどぉも


今朝もセレブ出勤
昨日も無駄な残業で
職場の〈豆柴ヒロくん〉も弄くり廻せナッシブルだったから
帰還して体育館JYM鍛練に出陣
昨晩は〈イケメン隆紀クン〉がバイトで居たけど最近愛想悪いなや
此度はまづ乳筋上部鍛練インクラインダンベルプレス30㌔負荷5set計50回+乳筋鍛練ダンベルフライ30㌔負荷5set計25回+乳筋下部鍛練ケーブルクロスオーバー40㌔負荷2set計40回+50㌔負荷2set計20回+60㌔負荷2set計10回鍛練仕り申したぜィ
p(^^)q
今日で残念ながらアメブロ更新終了最終日を迎えてしまいました
職場も様々変わり申したが〈イケメン桜王子〉や〈イケメンむー王子〉との出逢いも有り素晴らC13年間でござった
手と手のシワを合わせてありがたき幸せ
また再会出来るかは分かりませんが、皆の衆も誕生日に戦国時代に何が起きていたかに思いを馳せてみて下され
13年間ありがとうさよなら
今日7月12日は1543年天文12年に三河〈刈屋城〉(現愛知県刈谷市)主〈水野忠政〉(徳川家康祖父・於大の方父)が死去した命日
そして〈水野信元〉(徳川家康伯父)が家督を相続した日。
更に1547年天文16年に〈室町幕府菅領=細川晴元〉方が、丹波から〈高雄〉方面に進行して〈畑〉(現京都府右京区梅ヶ畑)一帯を焼き払い
京都洛中へ入京し〈相国寺〉に着陣し
一方〈室町幕府第12代将軍=足利義晴〉〈足利義藤=後の将軍足利義輝〉父子は〈北白川=瓜生山〉に布陣し
形勢は〈細川氏綱〉〈将軍義晴〉方が不利となり
頼みの南近江〈観音寺城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈菅領代=六角定頼〉(菅領晴元娘婿)も〈細川晴元〉に内通して孤立し
〈細川晴元〉〈六角定頼〉連合軍が〈将軍義晴〉〈足利義藤〉父子を包囲した日
更に1557年弘治3年に尾張〈岩倉城〉(現愛知県岩倉市)主〈織田信安〉重臣〈山内盛豊〉の〈黒田城〉(現愛知県一宮市)が盗賊の襲撃を受けて焼き討ちされ
父〈山内盛豊〉が討死し
嫡男〈山内一豊〉13歳は〈岩倉城〉主〈織田信安〉を頼って逃げた日
しかしその背後で糸を引いていたのは〈清洲城〉(現愛知県清須市)主〈織田上総介信長〉であった…
更に1568年永禄11年に越前〈一乗谷城〉(現福井県福井市)主〈朝倉義景〉の庇護下の〈足利義昭〉が、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈関東菅領=山内上杉輝虎=後の上杉謙信〉に、美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田信長〉より美濃への動座を要請され近日中に越前を発足する予定で〈朝倉義景〉も承知していると知らせた日。
更に1573年元亀4年に天下統一を推し進める美濃〈岐阜城〉主〈織田信長〉の傀儡(かいらい)となることを嫌い
山城〈槙島城〉(現京都府宇治市)に籠城した〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉と呼応して京都洛中〈二条城=室町御所〉(現京都府京都市上京区)に籠城し降伏開城後か、幕府奉公衆〈三淵藤英〉(細川藤孝兄)〈高倉永相〉〈伊勢伊勢守偵為〉らが〈二条城〉を退去した日で〈織田信長〉は〈二条城〉破却を命じ
京都市民の〈二条城〉へ乱入略奪横行したのだった…
更に1574年天正2年に美濃〈岐阜城〉主〈織田信長〉〈織田信忠〉父子が〈第三次伊勢一向一揆
〉討伐のため
出陣し
尾張〈津島〉に着陣した日
更に1576年天正4年に天下統一を推し進める近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈前右大臣=織田信長〉と摂津大坂〈石山本願寺〉(現大阪城)との長引く〈石山合戦
〉で、安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉は〈石山本願寺〉からの救援要請を受けて〈石山本願寺〉への兵糧を満載した毛利方〈村上水軍
〉3百隻の艦隊が瀬戸内海
から淡路島〈岩屋〉を出航して
大坂湾へ向かい
和泉〈貝塚〉に上陸し〈石山本願寺〉傭兵、紀伊〈雑賀衆〉と合流し〈雑賀水軍
〉と共に〈堺〉から大坂湾〈
木津川
〉口へ出撃した日
更に1578年天正6年に〈上杉謙信〉亡き後の〈御館の乱
〉で〈春日山城=本丸〉をいち速く占拠した〈上杉景勝〉が〈坂戸城〉(現新潟県南魚沼市)代〈深沢刑部少輔利重〉〈登坂右衛門尉〉に〈荒戸城〉〈直路城〉(現新潟県南魚沼郡湯沢町)が普請が完了した為、兵力の分散を避けて〈樺野沢城〉(現新潟県南魚沼市)以外は破却して〈荒戸城〉〈直路城〉への在城を命令した日。
更に1581年天正9年に〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉が、天下統一を推し進める
近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈前右大臣=織田信長〉が追放した〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉を擁立する、安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉の叔父、出雲〈富田月山城〉(現島根県安来市)主〈吉川元春〉一門の知将〈吉川式部少輔経家〉が守備する、因幡〈鳥取城〉(現鳥取県鳥取市)を包囲し兵糧攻めが開始された日。
〈羽柴秀吉〉は用意周到に若狭で飢饉(ききん)が起こり米不足になっているとして、大量の米を高値で買い付け、若狭へ供給すると称して、若狭商人を米処として知られる因幡へ差し向け〈鳥取城〉周辺一帯の米を時価の倍以上の値段で買い取らせ
その為、因幡中の備蓄米が、若狭へと流出し〈鳥取城〉の〈山名〉氏家臣達は、ここぞとばかりに
城内に蓄えていた兵糧米を軍資金
に換金させていったのだった…
そこへ〈羽柴秀吉〉率いる織田軍の因幡侵攻を目前にした〈山名〉衆は
〈毛利輝元〉に援軍を要請した為、毛利一族きっての猛将〈吉川元春〉が、名将と名高い〈吉川経家〉を4月〈鳥取城〉将として入城させたが…織田軍が迫る〈鳥取城〉内の米蔵には、兵糧米が三ヶ月分しか残っておらず
〈吉川経家〉は急ぎ兵糧米確保を命じたが
…米の大半は既に若狭商人達が大量の米を、若狭へ運び去って行った後で
補給したくても
米の入手は困難となってしまっていたのだった
そこへ〈羽柴秀吉〉軍2万が
〈鳥取城〉周辺一帯の出城を次々攻略して〈鳥取城〉を包囲し
〈帝釈山=太閤平〉に本陣を敷いて
後世「鳥取城飢え責め」と云われた凄惨な攻城戦となるのであった…
更に1582年天正10年に〈本能寺の変
〉の混乱に乗じて信濃・甲斐・上野・駿河
をめぐる〈天正壬午の乱
〉で、遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉の支援を受けた武田旧臣〈依田信蕃〉が、上野から信濃へ侵攻して来た相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主北条氏直〉軍が
佐久郡〈小諸城〉(現長野県小諸市)を攻撃して
〈依田信蕃〉は〈芦田小屋〉へ移り〈徳川家康〉も〈柴田康忠〉を派兵し
小県郡〈松尾城=真田城〉(現長野県上田市)主〈真田安房守昌幸〉が〈海野平〉の〈北条氏直〉本陣に参陣した日
更に1584年天正12年に摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)主〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉が7月3日に尾張〈蟹江城〉(現愛知県海部郡蟹江町)将〈滝川左近将監一益〉が、尾張〈清洲城〉(現愛知県清須市)主〈織田信雄〉遠江〈静岡県浜松市〉主〈徳川家康〉連合軍の攻撃により降伏開城したため叱責を受けた〈滝川一益〉が剃髪して〈滝川入庵〉は越前〈大野〉へ蟄居して、嫡男〈滝川一忠〉は、大和〈郡山城〉(現奈良県大和郡山市)主〈大和大納言=豊臣秀長〉預けとなった日
更に1590年天正18年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉による〈小田原征伐
〉で相模〈小田原城〉を降伏開城した〈北条氏直〉が、義弟〈駿河大納言=徳川家康〉の娘婿であることから助命して、紀伊〈高野山=金剛峯寺〉への蟄居を命じ
〈駿河大納言家康〉は家臣〈大久保藤五郎忠行〉に、武蔵〈吉祥寺村〉の〈井の頭池
〉から水を引いて〈江戸〉の飲料水と成し〈小石川上水=後の神田上水〉とした日。
更に1595年慶長4年に〈豊臣秀次事件〉を受けて
山城〈伏見木幡山城〉(現京都府京都市伏見区)主〈太閤=豊臣秀吉〉が
奉行〈石田三成〉〈増田長盛〉に命じ「霊社上巻起請文」全5ヶ条を定め
幼い嫡男〈拾丸=後の豊臣秀頼〉に対して表裏別心無く忠誠を誓わせる一方〈内大臣=徳川家康〉〈安芸中納言=毛利輝元〉〈筑前大納言=小早川隆景〉に上洛を命じ
「霊社上巻起請文」を誓わせた日。
更に1596年慶長元年に、豊後で大地震が発生し〈別府〉(現大分県別府市)湾内の〈瓜生島〉が大津波
で沈没した日
更に1600年慶長5年に豊臣家五奉行〈石田治部少輔三成〉を憎む
同じく豊臣家武段派〈加藤清正〉〈福島正則〉〈池田輝政〉〈黒田長政〉〈加藤嘉明〉〈細川忠興〉〈山内一豊〉ら七将に襲撃されそうになったところを
豊臣家五大老筆頭〈内大臣=徳川家康〉のもとに逃げ込んで
一命を助けられたが1599年慶長4年3月以来、居城の近江〈佐和山城〉(現滋賀県彦根市)に蟄居隠居を命じられていた〈石田三成〉は
専横著しい、大老筆頭〈内府家康〉を討伐すべく
同じく五大老〈安芸中納言=毛利輝元〉を西軍総帥に擁立の為
〈増田長盛〉〈長束正家〉〈前田玄以〉ら三奉行連署書状
を発して〈安芸中納言輝元〉の〈大坂城〉上坂を要請した日
〈石田三成〉は、奥州会津〈若松城〉(現福島県会津若松市)主の五大老〈会津中納言=上杉景勝〉の執政家老〈直江山城守兼続〉との盟約により〈内府家康〉が、会津上杉征伐
に江戸に向かった隙をついて〈内府家康〉打倒の挙兵に及び
上杉と東西から徳川方を挟み討つ戦略で
上杉家と同様に、盟友の越前〈敦賀城〉(現福井県敦賀市)主〈大谷刑部少輔吉継〉にも助力を依頼し〈大谷刑部〉も同意して
豊臣家三奉行〈増田長盛・長束正家・前田玄以〉の同意をも取り付けたのだった。
〈内府家康〉は〈上杉景勝〉に再度の上洛を促したが、上杉家執政〈直江山城守兼続〉からの返信「直江状
」に激怒して
会津上杉討伐を決定し
〈福島正則〉〈浅野幸長〉〈池田輝政〉〈黒田長政〉〈山内一豊〉〈加藤嘉明〉〈細川忠興〉〈真田昌幸〉〈織田有楽斎〉らの大軍を率いて〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)を出陣した隙を突いて〈内府家康〉に対抗すべく
毛利家外交僧〈安国寺恵瓊あんこくじえけい〉を通じて五大老〈安芸中納言=毛利輝元〉を西軍総帥に擁立して諸大名勧誘の旗頭とする事に成功したが、西軍総帥に〈毛利輝元〉が擁立されたという事を奉行〈増田長盛〉が密かに〈内府家康〉家臣〈永井直勝〉へと密告されたていたのであった…
同じ日〈石田三成〉は兄〈石田正澄〉を奉行として近江〈
愛知川
〉に関所を設置させ〈内府家康〉に従って東征しようとしていた〈長宗我部盛親〉(長宗我部元親三男)〈鍋島勝茂〉(鍋島直茂嫡男)〈前田茂勝〉(前田玄以嫡男)らを西軍へ与させた日。
同じ日、陸奥〈岩出山城〉(現宮城県大崎市)主〈独眼竜=伊達政宗〉が
対〈会津中納言景勝〉方に備える拠点として〈北目城〉(現宮城県仙台市)に入城した日
更に1614年慶長19年に、京都洛中〈
鴨川
〉や〈
高瀬川
〉を整備して、荒れ果てていた亡き〈関白=豊臣秀次〉の墓所を再興して〈瑞泉寺〉(現京都市三条木屋町下ル)を建立し、京の都を隆盛に導いた豪商〈角倉了以すみのくらりょうい〉が死去した命日
享年61歳
さようなら~アメブロ
よって件の如し
恐々謹言文月十二日
太閤







参上
ハイッ
ハ~イッ
みんなに笑顔をッ


太閤で~す(*^∀^*)
イヤッホーイ

どぉもどぉも



今朝もセレブ出勤
昨日も無駄な残業で
職場の〈豆柴ヒロくん〉も弄くり廻せナッシブルだったから
帰還して体育館JYM鍛練に出陣
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此度はまづ乳筋上部鍛練インクラインダンベルプレス30㌔負荷5set計50回+乳筋鍛練ダンベルフライ30㌔負荷5set計25回+乳筋下部鍛練ケーブルクロスオーバー40㌔負荷2set計40回+50㌔負荷2set計20回+60㌔負荷2set計10回鍛練仕り申したぜィ
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また再会出来るかは分かりませんが、皆の衆も誕生日に戦国時代に何が起きていたかに思いを馳せてみて下され
13年間ありがとうさよなら
今日7月12日は1543年天文12年に三河〈刈屋城〉(現愛知県刈谷市)主〈水野忠政〉(徳川家康祖父・於大の方父)が死去した命日
そして〈水野信元〉(徳川家康伯父)が家督を相続した日。更に1547年天文16年に〈室町幕府菅領=細川晴元〉方が、丹波から〈高雄〉方面に進行して〈畑〉(現京都府右京区梅ヶ畑)一帯を焼き払い
京都洛中へ入京し〈相国寺〉に着陣し
一方〈室町幕府第12代将軍=足利義晴〉〈足利義藤=後の将軍足利義輝〉父子は〈北白川=瓜生山〉に布陣し
形勢は〈細川氏綱〉〈将軍義晴〉方が不利となり
頼みの南近江〈観音寺城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈菅領代=六角定頼〉(菅領晴元娘婿)も〈細川晴元〉に内通して孤立し
〈細川晴元〉〈六角定頼〉連合軍が〈将軍義晴〉〈足利義藤〉父子を包囲した日更に1557年弘治3年に尾張〈岩倉城〉(現愛知県岩倉市)主〈織田信安〉重臣〈山内盛豊〉の〈黒田城〉(現愛知県一宮市)が盗賊の襲撃を受けて焼き討ちされ
父〈山内盛豊〉が討死し
嫡男〈山内一豊〉13歳は〈岩倉城〉主〈織田信安〉を頼って逃げた日
しかしその背後で糸を引いていたのは〈清洲城〉(現愛知県清須市)主〈織田上総介信長〉であった…更に1568年永禄11年に越前〈一乗谷城〉(現福井県福井市)主〈朝倉義景〉の庇護下の〈足利義昭〉が、越後〈春日山城〉(現新潟県上越市)主〈関東菅領=山内上杉輝虎=後の上杉謙信〉に、美濃〈岐阜城〉(現岐阜県岐阜市)主〈織田信長〉より美濃への動座を要請され近日中に越前を発足する予定で〈朝倉義景〉も承知していると知らせた日。
更に1573年元亀4年に天下統一を推し進める美濃〈岐阜城〉主〈織田信長〉の傀儡(かいらい)となることを嫌い
山城〈槙島城〉(現京都府宇治市)に籠城した〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉と呼応して京都洛中〈二条城=室町御所〉(現京都府京都市上京区)に籠城し降伏開城後か、幕府奉公衆〈三淵藤英〉(細川藤孝兄)〈高倉永相〉〈伊勢伊勢守偵為〉らが〈二条城〉を退去した日で〈織田信長〉は〈二条城〉破却を命じ
京都市民の〈二条城〉へ乱入略奪横行したのだった…更に1574年天正2年に美濃〈岐阜城〉主〈織田信長〉〈織田信忠〉父子が〈第三次伊勢一向一揆
〉討伐のため
出陣し
尾張〈津島〉に着陣した日
更に1576年天正4年に天下統一を推し進める近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈前右大臣=織田信長〉と摂津大坂〈石山本願寺〉(現大阪城)との長引く〈石山合戦
〉で、安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉は〈石山本願寺〉からの救援要請を受けて〈石山本願寺〉への兵糧を満載した毛利方〈村上水軍
〉3百隻の艦隊が瀬戸内海
から淡路島〈岩屋〉を出航して
大坂湾へ向かい
和泉〈貝塚〉に上陸し〈石山本願寺〉傭兵、紀伊〈雑賀衆〉と合流し〈雑賀水軍
〉と共に〈堺〉から大坂湾〈
木津川
〉口へ出撃した日
更に1578年天正6年に〈上杉謙信〉亡き後の〈御館の乱
〉で〈春日山城=本丸〉をいち速く占拠した〈上杉景勝〉が〈坂戸城〉(現新潟県南魚沼市)代〈深沢刑部少輔利重〉〈登坂右衛門尉〉に〈荒戸城〉〈直路城〉(現新潟県南魚沼郡湯沢町)が普請が完了した為、兵力の分散を避けて〈樺野沢城〉(現新潟県南魚沼市)以外は破却して〈荒戸城〉〈直路城〉への在城を命令した日。更に1581年天正9年に〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉が、天下統一を推し進める
近江〈安土城〉(現滋賀県近江八幡市)主〈前右大臣=織田信長〉が追放した〈室町幕府第15代将軍=足利義昭〉を擁立する、安芸〈吉田郡山城〉(現広島県安芸高田市)主〈毛利輝元〉の叔父、出雲〈富田月山城〉(現島根県安来市)主〈吉川元春〉一門の知将〈吉川式部少輔経家〉が守備する、因幡〈鳥取城〉(現鳥取県鳥取市)を包囲し兵糧攻めが開始された日。〈羽柴秀吉〉は用意周到に若狭で飢饉(ききん)が起こり米不足になっているとして、大量の米を高値で買い付け、若狭へ供給すると称して、若狭商人を米処として知られる因幡へ差し向け〈鳥取城〉周辺一帯の米を時価の倍以上の値段で買い取らせ
その為、因幡中の備蓄米が、若狭へと流出し〈鳥取城〉の〈山名〉氏家臣達は、ここぞとばかりに
城内に蓄えていた兵糧米を軍資金
に換金させていったのだった…そこへ〈羽柴秀吉〉率いる織田軍の因幡侵攻を目前にした〈山名〉衆は
〈毛利輝元〉に援軍を要請した為、毛利一族きっての猛将〈吉川元春〉が、名将と名高い〈吉川経家〉を4月〈鳥取城〉将として入城させたが…織田軍が迫る〈鳥取城〉内の米蔵には、兵糧米が三ヶ月分しか残っておらず
〈吉川経家〉は急ぎ兵糧米確保を命じたが
…米の大半は既に若狭商人達が大量の米を、若狭へ運び去って行った後で
補給したくても
米の入手は困難となってしまっていたのだった
そこへ〈羽柴秀吉〉軍2万が
〈鳥取城〉周辺一帯の出城を次々攻略して〈鳥取城〉を包囲し
〈帝釈山=太閤平〉に本陣を敷いて
後世「鳥取城飢え責め」と云われた凄惨な攻城戦となるのであった…
更に1582年天正10年に〈本能寺の変
〉の混乱に乗じて信濃・甲斐・上野・駿河
をめぐる〈天正壬午の乱
〉で、遠江〈浜松城〉(現静岡県浜松市)主〈徳川家康〉の支援を受けた武田旧臣〈依田信蕃〉が、上野から信濃へ侵攻して来た相模〈小田原城〉(現神奈川県小田原市)主北条氏直〉軍が
佐久郡〈小諸城〉(現長野県小諸市)を攻撃して
〈依田信蕃〉は〈芦田小屋〉へ移り〈徳川家康〉も〈柴田康忠〉を派兵し
小県郡〈松尾城=真田城〉(現長野県上田市)主〈真田安房守昌幸〉が〈海野平〉の〈北条氏直〉本陣に参陣した日
更に1584年天正12年に摂津〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)主〈羽柴筑前守秀吉=後の豊臣秀吉〉が7月3日に尾張〈蟹江城〉(現愛知県海部郡蟹江町)将〈滝川左近将監一益〉が、尾張〈清洲城〉(現愛知県清須市)主〈織田信雄〉遠江〈静岡県浜松市〉主〈徳川家康〉連合軍の攻撃により降伏開城したため叱責を受けた〈滝川一益〉が剃髪して〈滝川入庵〉は越前〈大野〉へ蟄居して、嫡男〈滝川一忠〉は、大和〈郡山城〉(現奈良県大和郡山市)主〈大和大納言=豊臣秀長〉預けとなった日
更に1590年天正18年に天下人〈関白=豊臣秀吉〉による〈小田原征伐
〉で相模〈小田原城〉を降伏開城した〈北条氏直〉が、義弟〈駿河大納言=徳川家康〉の娘婿であることから助命して、紀伊〈高野山=金剛峯寺〉への蟄居を命じ
〈駿河大納言家康〉は家臣〈大久保藤五郎忠行〉に、武蔵〈吉祥寺村〉の〈井の頭池
〉から水を引いて〈江戸〉の飲料水と成し〈小石川上水=後の神田上水〉とした日。更に1595年慶長4年に〈豊臣秀次事件〉を受けて
山城〈伏見木幡山城〉(現京都府京都市伏見区)主〈太閤=豊臣秀吉〉が
奉行〈石田三成〉〈増田長盛〉に命じ「霊社上巻起請文」全5ヶ条を定め
幼い嫡男〈拾丸=後の豊臣秀頼〉に対して表裏別心無く忠誠を誓わせる一方〈内大臣=徳川家康〉〈安芸中納言=毛利輝元〉〈筑前大納言=小早川隆景〉に上洛を命じ
「霊社上巻起請文」を誓わせた日。更に1596年慶長元年に、豊後で大地震が発生し〈別府〉(現大分県別府市)湾内の〈瓜生島〉が大津波

で沈没した日
更に1600年慶長5年に豊臣家五奉行〈石田治部少輔三成〉を憎む
同じく豊臣家武段派〈加藤清正〉〈福島正則〉〈池田輝政〉〈黒田長政〉〈加藤嘉明〉〈細川忠興〉〈山内一豊〉ら七将に襲撃されそうになったところを
豊臣家五大老筆頭〈内大臣=徳川家康〉のもとに逃げ込んで
一命を助けられたが1599年慶長4年3月以来、居城の近江〈佐和山城〉(現滋賀県彦根市)に蟄居隠居を命じられていた〈石田三成〉は
専横著しい、大老筆頭〈内府家康〉を討伐すべく
同じく五大老〈安芸中納言=毛利輝元〉を西軍総帥に擁立の為
〈増田長盛〉〈長束正家〉〈前田玄以〉ら三奉行連署書状
を発して〈安芸中納言輝元〉の〈大坂城〉上坂を要請した日〈石田三成〉は、奥州会津〈若松城〉(現福島県会津若松市)主の五大老〈会津中納言=上杉景勝〉の執政家老〈直江山城守兼続〉との盟約により〈内府家康〉が、会津上杉征伐
に江戸に向かった隙をついて〈内府家康〉打倒の挙兵に及び
上杉と東西から徳川方を挟み討つ戦略で
上杉家と同様に、盟友の越前〈敦賀城〉(現福井県敦賀市)主〈大谷刑部少輔吉継〉にも助力を依頼し〈大谷刑部〉も同意して
豊臣家三奉行〈増田長盛・長束正家・前田玄以〉の同意をも取り付けたのだった。〈内府家康〉は〈上杉景勝〉に再度の上洛を促したが、上杉家執政〈直江山城守兼続〉からの返信「直江状
」に激怒して
会津上杉討伐を決定し
〈福島正則〉〈浅野幸長〉〈池田輝政〉〈黒田長政〉〈山内一豊〉〈加藤嘉明〉〈細川忠興〉〈真田昌幸〉〈織田有楽斎〉らの大軍を率いて〈大坂城〉(現大阪府大阪市中央区)を出陣した隙を突いて〈内府家康〉に対抗すべく
毛利家外交僧〈安国寺恵瓊あんこくじえけい〉を通じて五大老〈安芸中納言=毛利輝元〉を西軍総帥に擁立して諸大名勧誘の旗頭とする事に成功したが、西軍総帥に〈毛利輝元〉が擁立されたという事を奉行〈増田長盛〉が密かに〈内府家康〉家臣〈永井直勝〉へと密告されたていたのであった…同じ日〈石田三成〉は兄〈石田正澄〉を奉行として近江〈
愛知川
〉に関所を設置させ〈内府家康〉に従って東征しようとしていた〈長宗我部盛親〉(長宗我部元親三男)〈鍋島勝茂〉(鍋島直茂嫡男)〈前田茂勝〉(前田玄以嫡男)らを西軍へ与させた日。同じ日、陸奥〈岩出山城〉(現宮城県大崎市)主〈独眼竜=伊達政宗〉が
対〈会津中納言景勝〉方に備える拠点として〈北目城〉(現宮城県仙台市)に入城した日
更に1614年慶長19年に、京都洛中〈
鴨川
〉や〈
高瀬川
〉を整備して、荒れ果てていた亡き〈関白=豊臣秀次〉の墓所を再興して〈瑞泉寺〉(現京都市三条木屋町下ル)を建立し、京の都を隆盛に導いた豪商〈角倉了以すみのくらりょうい〉が死去した命日
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さようなら~アメブロ

よって件の如し

恐々謹言文月十二日
太閤







各3setづつ各計60回づつ+35㌔負荷左右
〈羽柴秀吉〉が朝廷に奏上して1584年天正12年10月「従五位下」「左近衛権少将」に、次いで僅か一ヶ月後には「従三位」「権大納言」に、更にその三ヶ月後には「正二位」「内大臣」に次々と昇進し








夜は選挙速報だらけですろー
薄い眉毛書いてたから触って
〈高梨政頼〉も、越後の〈長尾景虎〉に援軍を要請したのだった。
〈太閤秀吉〉からの難を避けるため剃髪して〈黒田官兵衛孝高入道如水圓清〉と号したのだった。
墓所に近づく者を寄せ付けず
幕末を迎えていくのであった…





