何かを成そうとする時必要なのは成そうと思った事を行動へと移す心と
それを成す為の力、両方が必要となる
それは成そうとする事が大きければ大きい程に必要となってくる
それも双方の心と力は拮抗している事が好ましい
特に思う心が力よりも強かった場合それが例え正義と言われる事であっても
悪と成りえる、俗に力の無い正義は悪であるという事だ、
それは望まぬ、起こりえぬ争いを呼ぶ元凶となり得
状況を悪化させる事にもなり得る
だがそれは難しく、自らの力と心と向き合う事はより難しい
だがそれをしなければより大きな事を成す資格はないと言えると私は思う
今自分が何をしたく何が出来るのか
そして成したい事に対して自らの力は足り得るかどうか
足り得ないのならばこれから自分に出来る事はなにか
それこそが何かを成す時に最も大事なのではないかと思う

シェークスピアの言葉に
「人間が
自由であり得るためには神
があってはならない。」
というものがある
それは確かにそうなのだと思う
だが私は例え矛盾していると言われても人には神が必要不可欠なものだと思う
確かに人が自由あり得るためには神は最大の壁と成りえると思う
けれど人が人足りえる為には神という存在は不可欠な者なのだと思う
私自身は一種の無神論者で有るけれども神という存在を認めている
それは決して神秘的なものでは無く心理的な意味で認めている
例えば私は神を信じないという者が居たとする、けれどそういう者にも
心の拠り所とする、咄嗟に頼るそういうものが心の中に存在するだろう
人により大小違いはあるが、それが無いという者は恐らく居ない
それが自分自身だとしている者もそうだ、
それは自らが神だという奢りや高ぶりの類では無く、他の者が何かを頼るのと同様
ただ形、種類が違うだけで他の者と結果的には同一の事、
私の言う(考える、思う)神とは個々心の中に存在する者、
つまりは人の心のそのもの、の事を指している、心無くしては人は人足りえず
確かにこれを当て嵌めると冒頭のそれは神、心が無くなればそれは自由と言える
けれども人が望む自由はそうでは無いのだろう、故に私はこの言葉を肯定し否定する
だからと言って自由を望む事に対し悲観的になる事も無い
自由とは無形のもので有りその形は人それぞれ違うものだと思う
私が思う自由とは全ての中に有り全ての中に溶け神つまり心と共にあるもの
その形を私は未だ見出る事が出来ないが
確かにそこにあるのだろうと感じる
もしかすると今有る全てが自由なのかもしれない
元来人は何事においても答えを求めて行く者だと思う
その行為は何処か愚かしくも儚く希望に満ちているとも思う
けれど答えの出ない難問が目の前に立ち塞がった時人はどうするのだろう
どうしてきたのだろう、ある者は諦め、ある者は追及し続ける
恐らく殆どの人がこの二者のどちらかに当てはまる
だが幾度、如何なる方法で追及しようとも答えが出ない時
それはそれこそが答えなのだと思う、これが三者目答えが無いという答えを出す者
これは本当に難しい事だろう、その疑問は本当は答えがあるやも知れない
そういう疑心暗鬼にも陥り兼ねない両刃の様な選択
これはある程度直感的な能力が必要なのかも知れない瞬間答えが無いそれが答え
そう悟る直感、そうで無いにしても難しい選択という事に変わりは無い
けれど人はそれを時に理解しなければならない答えが無いという答えは同時に
新たな答えを作る無限の可能性を秘めた答え
つまり答えが無いという事はそれは自由だという事無論全てにおいてそうかというと
それは違うのだろうけれど答えが無いという答えとなる疑問はその可能性を秘めている
それは答えが無いという答えを出したその時から答えを探し考えるのでは無く
これから歩みを進める道の中で自らが答えを作れるという無限の可能性を秘めている
疑問を持ちその答えに辿り着いたものだけが得るただ一つの答えと成りえる
これに対しての意見、考えは人それぞれの主義により主張は違うとは思う
けれど私は最も素晴らしい答えの一つ、人が歩みを進めていく為に必要な事だと思う
「井の中の蛙大海を知らず」という言葉がある
荘子の「秋水」の一説らしい、意味は
井戸の中の蛙が自らをを王だと言うけれどそれは狭き井戸の中での話
外の世界に出れば大海に出れば井戸の中の蛙などは大した事が無い
つまりその者見識が狭く世界も狭いなどと言った意味
これは中国の言葉けれど日本に伝来してから続きが出来
「井の中の蛙大海を知らず、されど空の高さを知る」と続く
意味は蛙は井の中の世界しか知らないされどその世界の全てと空が如何に高いものか
という事を知っているという意味
つまりは他の事は知らずともその世界に特化した
知識があり確かな見識があるという意味
これはスポーツ選手やシステムエンジニアそういう職業の者に
通ずるところがあるかも知れない
私はこれを違う解釈としてとっているそれは
「井の中の蛙大海を知らず」これは恥なのだろう「されど空の高さを知る」これは誇りなのだろう
つまり掛け合わせると恥は誇りであり、誇りは恥ともなり得る
誇りと恥それは表裏一体の様なものなのだと私は思う

前にとある方に万物事における共通の最良の一手とは何だと思う?
っと聞かれた事があってその時私は「型を見ない追及していく姿勢」と答えた
こんな答えを出したのには色々理由はあるけど
一番大きく分かり易い理由は
最良の一手とは確かに存在するけれども、最良の一手は型を見ず
存在し得ないものだというのがそう
例えば自分が選択をしなければならない時
目の前に幾つかの選択肢が用意されていて、その選択肢が三つあったとするなら
誰しも三つの選択肢の中から一つだけを選ぶ事になる、
そしてその選択した道を進んでいく訳だけど、その時如何な賢者と言えども
「それが最良の選択であったか?」っと聞かれた場合「最良の選択だった」
と言い切る事は出来ないんじゃないだろうか?
何故なら一つの選択した道を歩む事で残り二つの道は歩めなくなる
歩めない道のその先に何があるかと言う事は誰にも分りえない
故に如何な人物であっても選んだ選択が最良であったとは言えないと私は思う
もしもそれでも最良の選択であったと言う者がいるならばその者は
余程の自信家か大器を持ち得る者なのだろう、
ではそういう者以外最良の選択を選び最良の一手を放つ事が出来ないのか?
っと聞かれれば私は「それは違う」と答える、初めに言った通り
最良の一手とは「型を見ない追及して行く姿勢」
それは確かに三つある選択肢のうち一つを選び進めば
残りの二つの道の先にあるものは分らない、けれど予測、予想、する事は可能
その際必要になるのは発想力、先見性、把握能力などが挙げられる
これらは生まれついての才能という事もあるが経験で補え得る事でもある
自らの経験と直感で予想し予測し自分が最良であると思える選択を追及する
それこそが最良の一手何だと私は考える

何故こんな事を今回書いたかというと昨今情勢不安、金融危機、治安の悪化も有り
皆それぞれに大小違えども自分が歩いてる道は正しいのか自分はどの道を歩けばいいのか
っと疑心暗鬼に陥っている様に思える、だからこそ世の中に最も正しく最も良い道などは
有るようで無く、またそれを確かめる術も無いという事を
そして目に見えないからと言って諦め浮き足立つのでは無く
自らの心と足で考え追い求め歩を進める、答えを求めるのでは無く答えを探す過程にこそ
答えがあり経験があり進化があるという事を忘れずに自分自身の力で立つ
それが今の人には最も必要な事何だと私は思う