哲学というものを、最近カジっています。
とはいえ、それはえらくカタいものでして、カジるといってもなんだか歯が立ちません。
いやほんと、カテーったらないのよ、コレ。
まぁそうやっていろいろと知って、考えて、そんでなんとなく思ったことは、神様ってのは、意味の不在を肯定するシンボルなんだろうな、って思いました。
そう考えることで、思考の新しいドアを開いたような気がしたのですけれど、なんだか文章にならないのでうまいことかけましぇーん。
僕は、言葉とは、情報の圧縮・解凍ツールだと規定しています。
発信者は、情報を言語という形に圧縮して発信、受信者はそれを解凍するのですけれど、ここに齟齬が発生します。
この圧縮は非可逆圧縮、と表現すればいいのかな。
圧縮された情報は、二度と元に戻らないんですよね。
挙句、それらの圧縮ツールは、個人個人がそれぞれ別のソフトを使っていたり、あるいはバージョンが違っていたりして、なんだかしっちゃかめっちゃかなわけです。
言葉でなにかを伝えるということは完全でないのです。
というか、言語はそのシステムそのものに重大な欠陥を内包していて、そもそも言語を使用する限り、情報を完全に並列化することはできず、むしろ、人間関係とはその齟齬をうまい具合に組み込み、発展してきたのではないかと思うのです。
僕の思考もまた、こうして言語として発信した時点で変質し、しかしそれは劣化ではなく、誰かに届き、解凍され、あなたのプログラムになにか影響を与え、そうして群体としての人間は相互に関わり合い、それを指して生きることだと誰かが表現したところで、それもまた何かしらの齟齬を内包しているのでしょうけれど、それはそういうものなのだろうと僕は思うのです。
そして、そういうのを排除して到達する場所に、神様はあるんじゃないのかなぁ、と思うのです。
というか、人間に内在する情報そのものをさして神様と呼べるのかもしれないです。
そういう考え方って、意味の不在を、そして同時に価値の消失を肯定する、なにかしらのシンボル、みたいなものなのだと思うのです。
なんだか書いてる本人もわけがわかりません!
