簡単な自己紹介


都内出身
都内育ち

H9生まれ

B型
三人兄弟の末っ子
姉、兄、私
趣味:分析/計算/書くこと/音/景色/制作/貢献

 

性格カテゴライズ:HSS型HSP・HFA

職業は広告業、教育業、不動産業のPM

このブログではHSP方々やHFAの方々へ少しでもお役に立てればと願い残して置きたい所存です。

 

私は幼い頃から自身を切り離し過去の自分と乖離させてきました。そうして心境のリセットを行う癖があり他者とのコミュニケーションが苦手です。点と点の記憶しかなく昔の写真を見ても感情の記憶が抜けていて虚無感を味わいます。そうしてリセットを繰り返し自身を見失い日記をつけることにしました。

 

私は有難いことに、周りの人々がとても誠実で優秀な人々です。その方々に支えられながら必死で生きています。
友人達はほとんどが実業の起業家で今後のインフラを支えてくれる逞しい人ばかりです。

私自身、公務員一家の末っ子で、親戚は皆、防衛省関係や自衛隊や警察官です。
母は防衛省の会計士、父は航空自衛隊。両祖父は軍人で満州で活躍した人だったそう。

遺伝子レベルの見解は中上下であり、恵まれた性の端緒を感じてます。

私が少数派であることに気づいたのは3歳から4歳にかけてだった。

同じ夢を数ヶ月見続けたことは鮮明に覚えている。何度も何度も何度も同じ景色を見た。

その夢は大きな光が右側に暗闇が左側にある景色でグラデーションの真ん中を数分過ごす。

歪みが生じ数秒後に光が爆発するイメージで暗闇側へと飛ばされその暗闇の向こうに1点の光がでてきてその光に近く。地球のような水色に光に爆発した私と同じ光がそこへ吸い込まれるように衝突していった。私もその光に衝突した。その時、目が覚め母を起こした。保育園での昼寝でも何度も置きた。みんな寝ている時はそれなんだと思い込んでいた。そうではなく私は話すより聞くのが好きだった。『なんで?』と繰り返すだけの子で自分の思いは言葉より態度で表した。問い詰められることが多かった。『言わなきゃわからない』そういわれても、どう言えばいいのかわからない。だから、黙るだけで相手が諦めるまで黙り続けた。呆れられることを待っていた。相手が諦めたら自由だった。そうして6歳になり人を選び好きは好き嫌いは嫌いで極端に示した。卒園式の日は母泣いていた。半年で入った保育園5年と半年もいた保育園。いつも一番早く預けられ一番遅く迎えがあった。どこか違うと薄々気づいていた。

 

 

小学生に上がったころ凄く怖かったのを覚えてる。大勢の人、同じ年代の子達、背が大きい子、私より小さい子、耳が悪い子、外国人の子、声が大きい子、可愛い子、かっこいい子。こんなに色んな子がいるのが怖かった。


一月が経った頃、私はいじめをし始めた。今思うと相手が悪かった。近隣の地主で弁護士の息子だった。
母が毎朝、謝り門前払いを2週間は続けた。ことは収まったが1クラスしかなかったことで私は少し浮いていた。
だが、不思議なものでそういった男子は好まれた。運動神経もよく常に1、2位で体育ではヒーローだった。しかし、2年生になったころ転入生がきて一転した。後の10代前半の親友だ。彼は野球をやっていてスポーツ万能でドッチボールのトリッピは僕から彼となった。認めたくなかったが実力の差とカリスマ性は彼が圧倒した。そうして彼と共にした時間が増え充実していった。小学校3年頃、周りとは違うと確信した出来事に直面した。それは日本語が読めない発音できない覚えられない伝えられない。同級生には誰1人としてそんなような人はいなく担任から追求されたことに自分の異常部分には苦しく辛かった。ただ、数字と理科は好きになれた。決まっていることがあって求めるための方法も決まっていることを学ぶのが苦にならなっかた。それ以外の教科は疑うことしかできなっかた。疑って結末を知れるのは数字や法則が正解をくれ正しい○に感じたから、納得ができた。漢字を覚えることに時間を費やされたことには腹がたつが、国語を学んだ先の景色をイメージさせてほしかった。日本語ほど美しく細分化され再現する言語は少ない。歴史も学ぶことより真相を認知させて欲しかった。時系列より人は何を繰り返すのかを学びたかった。道徳に近いものがあったはず。加えて金融の知識も学ばせてほしかった。
この頃から、遅刻することが当然で死なないことを知り寝たい分だけ寝て集団行動を拒絶していった。
整列や行進の異様さに異なることで自分を表現した。注目を浴び違うことができることを示したい願望が生まれた。

それでも、選抜される能力を持っている底知れない自負があった。それに釣られる同級生は従えた優越な気持ちにもなった。小1から小3まで続けたサッカーだったが兄の影響だったし本気になれずサボってやめたことを覚えてる。辞めた後の土日は校庭開放でたくさん遊んだし、色んな関係を気づけて人気者となれる居場所だった。小3の9歳の記憶は印象的だ。6年生の友人も中学生の友人もいて殆どが年上といた。可愛がられ守られるからだ。そして劇団に姉の影響で入り、子役もやった。そこでたくさんの年上とたくさんの大人をみた。劇団解散最後の主役に選ばれた。その時の監督は俺に本気で向き合ってた。純粋で繊細な人だった。その監督は5年ほど前に自殺した。あの時の監督が俺に注いだものはどこかに残ってる。セリフを飛ばした俺を20も上の人に大声で叱られる。やりとげられたのはなぜかわからない。本番後『よーーく頑張ったなぁ。。』と強く抱きしめられたことは言葉にはできない感情だった。

 

そんな俺は小学校4年の秋に野球を始める。みんながやってたからだ。ただきっかけはお姉ちゃんの友達の家族と巨人の試合を見にいってその試合で上原浩治が完投勝利をした『エース』という響きが心を打った。同時にルーキーズがやっていて情熱が滾った。結果として約8年間野球を続けた。やってよかったと思う。もっと頑張ったらよかったとも思う。朝が早く本当は辞めたかったが母がよく見にきてくれて隠れながらビデオを回していたことが支えになってエースになったことが嬉しかった。誇らしかったのかも知れない。自分が中心な感覚が心地よかった。

小学校高学年の頃の悪事からまた書く