真夏の青森市の気候はからっとしているわけでもないが、森の木々から風がそよぎ、木陰はいくぶん涼しい。ねっとりと汗が貼りつくような不快感はない。
しかし、森に囲まれた広大な芝生、遮るものはなにもない。昼下がりの気温は30℃を優に越え、じりじりと容赦なく日射しが照りつける。
“縄文”___。
遥か日本のルーツ、その文化が栄えたこの大規模な集落の土を、私は踏みしめていた。
ー遥か日本の祖先への追憶ー
広大な敷地には、復元された倉庫や住居群が点在している。茅葺き、藁葺き、樹皮葺きの三種類の竪穴住居が造られていた。
中でも藁葺きや樹皮ぶきの屋根はあまり目にしたことがなく、こじんまりとした簡素な秘密基地のような趣のそれは、長く定住できるような造りには見えなかった。
しかし、思いの外内部はしっかりと組み木が施され蔦で頑丈に固定されている。小さな災害であれば耐えられたのかもしれない。
竪穴住居の入口はとても低くて狭い、これは昔の人がとても身長が低かったためで、腰を屈めてやっと入ると、そう云ったこともリアルに感じられた。
ふと、暗闇の中に、火を囲み、煮炊きをする家族の姿がぼうっと浮かんで再び消えた。
その一瞬、私はこの家で共に暮らす家族の一人のようにそこに存在していた。
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ゆっくり内部を見回すと、小柄な私の身長でもすぐ天井に頭がつきそうな程に、そこは狭く暗く、まるで外界と隔絶されたように、妙にしんとしている。
燻した藁の匂い、埃っぽい土の匂い。藁の隙間から微かに射し込む光、少しひんやりとした湿っぽい空気__。
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ガイドの方の話によれば、遺跡の建物は当時と同じ材料と工法によって再現されているとのことだった。
見張り台の太い柱は継ぎ木されていないクリの一木造りだが、もう日本に同じ長さ太さのクリの木がないため、わざわざロシアから輸入されたというのだから驚きだ。
復元だけでなく、発掘時の盛り土がそのまま見れる場所もあり、ムラが栄えた当時の堆積した土に埋まった無数の土器の破片などを一心に覗きこんでいると、何やら身体がふわふわしてきて、自分の今いる地点が失くなるような不思議な心地がした。
何千年前の私たちの祖先の生きた証、その途方もない遠い遠い時間__
それが今、共にある感覚を抱き締めるように、暫し、没入する。

発掘当時の盛り土※
※縄文時代のゴミ捨て場として使われていた。幾層に渡って堆積した層のひとつ。土の上に、夥しい数の土器や石器の欠片が棄てられている。
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遺跡の隣にはミュージアムが併設されていて、出土品をただ並べるような無機質な展示形式ではなく、物語風の構成だ。
等身大の人形が置かれ、その登場人物の台詞で説明が書かれていたり、展示小物や背景画も凝っていた。
歴史に興味がない人にとっても縄文を身近に感じられるように、といった博物館側の熱意が感じられる。
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ミュージアムでは上記の常設展示室の他にも、実際の出土品の一般収蔵庫や遺跡の整理作業室がガラス張りで公開されていた。
まさに、“開かれた博物館” である。
ナンバリングされた土器など前にすると、実際に人が関わっていることがよくわかる。
美術館や博物館で働く人々が、どのような想いで、どのような仕事をしているのか、その裏側を想像するには些か難しい部分がある。
だからこそ、様々な場所で、文書や写真だけでなく、このような“生身の公開”を積極的に行うことは意義深いと感じる。
一般収蔵庫の向かいには、地下から一階まで吹き抜ける高い天井までの壁を、5000を越える土器の破片で埋めつくす展示があった。
空間をよく生かしていて、三内丸山の大規模な発掘の成果を示す、その迫力に圧倒された。※2
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ここは毎年新たな出土の成果があり、いずれ教科書に記してある縄文の知識がひっくり返るような発見があるかもしれない、まだまだ可能性を秘めた場所なのだそうだ。
再来年あたりには、恐らく世界遺産に認定されると、ガイドの方が熱心に語っていた。
私たちの祖先が生きた広大な土地は、過去の遺物ではない。
今なお、人々を惹き付けてやまない、現在と過去、そして未来を繋ぐ交流点だ_。
ー“豊かな暮らし”とはなにかー
ミュージアムの展示品の中で最も印象的だったのは、現在と同じ手法である網代編みで作られたポシェット※3である。
奇跡的に空気に触れず綺麗に残っていることにも感心したが、その細工のなんと緻密で美しことか。
縄文の荒々しい原始的なイメージを覆えしてくるようにその入れ物は、至極繊細な光沢を放っていた。
ローマやパリで沢山の古代ギリシアやローマの彫像を見たときにも感じた衝撃と同じ。現在の彫刻よりも精巧で、生き生きとしていて、私は文明が進んでいるのか、分からなくなった。
彼らは到底計り知れない目と技術を持っていたのだ。私たち現代人には見えない、作り出せないものが確かにあった。
三内丸山のムラの人々はどうであったか。
まず、彼らは、自然や生き物の習性を観察し、それに合わせて必要なものを生み出す力があった。
材料こそ違えど現在と全く同じ形の釣り針で作った。魚の習性によって網漁、銛突き漁など手法を変えた。木材を燻し、乾かし加工することで虫食いを防いだ。縄文尺※4 を基準に計測を行い、丈夫な建物を造った。
さらに、恵みのある食生活を営み、趣味嗜好を楽しみ、活発な文化交流を行っていた。
マグロ、カツオ、サバ、イワシ、ニシン、タイ類、ヒラメなど、季節ごとにふんだんに獲れる魚や、アサリやシジミなどの貝類、蟹やウニなどの甲類、ウサギやカモの肉類を食べ、木の実を加工し、穀類の栽培を行い、酒も造った。
ヘアピンやネックレスなど様々な種類の装身具を作り、お洒落を楽しんだ。土器には紋様や変形を施し、表現活動に親しんだ。
さらには船を出し、日本列島各地との交易も盛んに行い、翡翠や黒曜石などを輸入し、活用した。
昨今度々耳する“豊かな生活”とはいったい何を指すのだろう。その定義は、私にはわからない。
しかし少なくとも現代の暮らしの方が昔の暮らしより豊かであると、そんな考えは幻想であると感じた。
私の目には、三内丸山のムラの生活が、自然と人の営みの喜び、創造と享受の楽しみに満ちていているように見えた。
___それはとても濃密で、
紛れもなく、“豊か”であると___
そう、見えた。
※4. 35センチを基準とした三内丸山で共通で使用されていたとされる計測単位
ーひとつのムラー
一つ一つの住居を順に回っていると、ふいに小学生ぐらいだろうか、男の子がひょいっと私の前に出て、“お邪魔します”と断ってから住居の暗がりの中に入っていった。
ハッとさせられた。
私にとって、何時の間にか、遺跡や古代の建築などは、その中に土足で上がり、上から物を見て、勝手に批評する対象になっていた。
しかし、ここは人の敷地内で、人の家なのだ。その感覚を忘れていた__。自分の無意識の不遜な態度を恥じた。
住居の前に立つ。
入口で、“お邪魔します”
私もこの言葉を、静かに呟いた。今までの無礼を詫びるように、精一杯の気持ちを籠めて____。
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中に入ると、その男の子は中をぐるっと見回しながら
“これがご先祖様が暮らしてた家かぁ…”と、しみじみとした口調で感想を洩らした。
おそらく青森市内か、県内の小学校に通う子供だろう。夏休みの課題などでここに来るように先生に言われてきたのかもしれない。
そういえば、ここでは、家族連れて来ている子供の姿が多く見られた。
盛り土のシェルターでは、湿度温度を一定に保つために“見学の際にドアを必ず閉めるように”と貼り紙があるのだが、それを見て“閉めなきゃ!閉めなきゃ!”と急いでドアに駆け寄る男の子。
遺跡のガイドツアーでは、母親の陰に隠れるように恥ずかしがりながらも、真剣な目でガイドの方の話を聞く女の子。
そのような子どもの姿を見るたびに私は、目を細めた。思わず頬が緩むのを感じた。
このような光景は千葉や東京の博物館、美術館ではあまり見ない。
ここまで子どもたちを導いてくれた大人がいる事、そして昔の人や昔の人のものを大切にしようとする態度が、親やお年寄り世代だけでなく、未来を担う子供たちに育くまれている事の、なんと頼もしいことか。
この地に住んだ縄文の人々が親から子へ、子から孫へ伝えられ、この地に脈々と培われてきたものは、生きるための技術だけではない。
先祖を敬い、家族を大切にし、自然の恵みに感謝し、ムラでみんなが協力し、平等に分け与え、争いをしないその精神だ。
そして、それを育んだのは、紛れもなく三内丸山の自然環境である。
豊富な資源と食糧が確保できる土地。
事実、気候の変化に伴って三内のムラは終焉を迎え、散り散りになった縄文人は稲作文化を取り入れ、争いの世の弥生時代から先の時代へと足を踏み入れていく。
そう考えてゆくと、縄文の元々の気質が争いを嫌ったというより、奇跡的に幾世代にも渡って長く続いたムラの営みこそが、結果的にここに住む人々に平和的気質を浸透させたのかもしれない。
三内を後にし、その日の夜はねぶた祭りを観に行った。
ねぶたの御輿は神話の神々や祖先を讃える内容がモチーフになっているものが多い。
やはり自分達の祖先を敬う文化がこの土地には根付いているのかもしれない。
そして驚いたのは、老若男女問わず、小中学生、若い青年も娘も父も母もお年寄りから赤ん坊までが祭りの列に参加していたことだ。(なんと、ベビーカーを母親が手押していた。)
その様子をぼんやり眺めていた。
ふと、家族三世代が皆で身を寄せあい、一つのムラで生活する縄文の人々が、その姿に重なった。
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ところで、ねぶた祭りでは、列に観光客が参加していても誰も気にせず、皆で楽しもうという気風があった。
祭事では、儀礼や様式を重んじ、よそ者や見物客が踏みこめない一定の領域がある場合があるが、ここはその辺りの線引きを感じさせない。
跳人は自分たちだけ声をあげるのではなく、沿道の人とも一緒になって祭りを盛りあげようと、こちらに声をかけるように、沢山顔を向けてくれた。
ある青年の跳人が祭りの終盤で、体力の限界なのか、膝を折り頭を垂れていた。それを見た沿道の人が必死に頑張れと応援していた。
それに答えるように、ちらの此方に目をやり、ニヤッとすると最後の力を振り絞るように、躍りを再開するのだった。
祭りが終わったら沿道の商店の人々は自分の店の前の椅子をさっと片付けていた。見物していた人々はゴミをしっかり持ち帰っていた。
あぁ、現代の青森もまた、ひとつの“ムラ”なのか。
皆が心地よく暮らせるムラを、皆で励まし会いながら創り上げていく___。
ここに来れば、私のような旅人も、そこに住む人々も等しく、“ムラの一員”なのかもしれない。
自然の恩恵を受けながら、結果として1500年間、ムラに住む人々がひたすらに紡いだもの。
人と人の暖かみ、優しさ、先祖の営みを大切に、大切に次の世代へ受け継いでゆかんとする心。
それが日本の歴史のなかでなんと尊く、異質な文化か。そして、その優しい気質は、今も青森の人々の中に、そして自然の中に、生きているように感じる。
青森の人は、
“観光客だから”と、必要以上にこちらに愛想を振り撒くことはしない。用がなければ基本無口だ。
宿でも、食事処でも、
無理に笑わない、無理に働かない、ごくごく自然に、繕わずに生きる人々の様子を沢山見た。
しかし、行く先々で、何か困ることがあれば、さりげなく助けてくれる人に沢山出会った。
それは、観光地特有の、少し繕ったような優しさとは違った。
青森の優しさは、決して背伸びをしない優しさである。
ねぶたを立って見ていたら、隣の家族の方が誰もいないからと、椅子を貸してくれた。
屋台で食べ物を買う時、ゴミを持ち、少し不便そうにしていたら、すかさずこちらで捨てましょうかと声をかけてくれた。
彼らは、“距離”はとるが、決して”線“をひかない。
だから、こんなにも、こちらの肩の力を抜くように、すっとこの身に入ってくるのだ__。
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深く生い茂る緑の森を横目に、広い道をゆっくり歩く。
青森の風は、柔らかくそよいでいる。こちらに手を広げて微笑んでいるように。さらさらと流れるように。
その心地よい静けさの中を泳ぐように、
私はそっと目を閉じた__。
参照
三内丸山遺跡公式HP









