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〒366-0006
埼玉県深谷市血洗島247−1
深谷市指定文化財
(史跡)
きゅうしぶさわていなかんち
旧渋沢邸「中の家」
旧渋沢邸「中の家」には、主屋を囲むように副屋、4つの土蔵、正門、東門が建ち、この地方における養蚕農家屋敷の形をよくとどめている。
「近代日本経済の父」と称される渋沢栄一は、この場所に生まれ、23歳までを過ごした。
渋沢栄一のふるさと
「血洗島」の由来
「血洗島」、
誰もがこの地名に驚くことと思います。
江戸時代の文献には「血洗島村」という村の名前で見ることができますが、いつからこの場所がこう呼ばれるようになったのかについては、はっきりしていません。
「〇〇島」という地名は深谷市内でも多くみられ、利根川の池法によって形成された自然堤防の上や、島のようにわずかに高まった土地の名前に付けられています。
肝心の「血洗」の由来ですが、荒地を表す「地荒れ」や、常に川の水に洗われる土地を表す「地洗れ」が変化したとも、アイヌ語で「下」、「終」、「端」を意味する「ケシ」が「下の外れの島」を意味する「ケセン」に変化したとも言われ、これに「血洗」の文字が当てられたとされる説があるようです。
渋沢栄一は、赤城の山霊が他の山霊と関って片腕を怪我した際、その傷口をこの地で洗ったため「血洗島」という村名になったという伝説のひとつを語っています。
このように定が無く説があり、その由来については、はっきりしたことはわかっていません。
渋沢栄一の雅号
「青淵」の由来
「青淵」とは、渋沢栄一が用いた雅号(がこう:本名以外で、春国、俳諧などの場において用いる名前)です。
栄一が筆をとった書などにその名が記されているのを見ることができます。
「中の家」の裏にあった「上の淵」と呼ばれる青々と水をたたえた淵の美しさにちなんで「青淵」の名が生まれました。こ
れは栄一の従兄で学間の師でもある尾高博忠につけてもらったものです。
栄ーが大人になったころには週の水は枯れてしまい。当時の姿は失われてしまいましたが、そのほとりには「青淵由来之跡」の記念が建立され、そのことを語り伝えています。
渋沢栄一を輩出した
「中の家」の由来
血洗島の開拓家のひとつとされる渋沢一族は、分家して数々の家を異しました。
「中の家」もそのひとつで、呼び名は各渋沢家の位置関係に由来して「中の家」と呼ばれています。
中の家」と渋沢栄一
渋沢家は血洗島を開拓した一族の一つで、分家して複数の家に分かれ、各家にはその位置関係による呼び名がつきました。「中の家」は、真ん中のあたりにあったことに由来し、ほかにも「東の家」「遠西の家」「前の家」「遠前の家」新屋敷」「古新宅」といった家がありました。
「中の家」の当主は代々市郎右衛門を名乗り農業を営みました。「東の家」から婿入りした元助が市郎右衛門を継ぐと、藍玉の製造と販売により財産を築き、苗字帯刀を許された富農となりました。この市郎右衛門(元助)の子として生まれたのが、のちに「近代日本経済の父」と称される渋沢栄一です。
栄一が23歳までを過ごした「中の家」は、茅葺屋根の主屋でしたが、明治時代に家業の中心が養蚕になると建替えられました。その主屋は明治25(1892)年、火災で失われ、明治28(1895)年に上棟されたのが現在残る主屋です。
晩年の栄一は、幼少期に自身も親しんだ血洗島獅子舞の観覧を楽しみに、獅子舞が奉納される諏訪神社の祭礼にあわせて帰郷して「中の家」に滞在しました。