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第6話 カラー・グリーン

第6話  カラー・グリーン

 久門翔子(ひさかど しょうこ)はやつらの襲撃を逃れ、10階のフロアから7階にあるバーを目指して階段を下りていた。

 薄暗い照明の中、グレーの壁に寄り添うように進む。
 いつもだったらすんなり下りられるような階段だったが、恐怖と混乱で足がもつれた。心細くなり、坂本のいる階に戻ろうと何度も考えたが彼の言葉を信じて振り返るのをやめた。必ず後を追うと言ったのだ。

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で躓(つまづ)き転倒したときに消毒液の入った容器を手放してしまった。容器は翔子より先に階段を転がり7階へと落ちていく。慌てて起き上がろうとすると右足首に痛みが走った。膝もすりむいて血が滲んでいる。
「お兄ちゃん・・・」
自然と声が出た。泣きたかった。

 と、自分の耳を疑いたくなる音が聞こえてきた。

 「コツン、コツン・・・」
下の階から誰かが上ってくる足音。

 逃げ場を探すが挫いた右足首が悲鳴をあげる。
 翔子は踊り場に高く積まれたダンボールに掛けられている布をとって潜り込んだ。薄く白い布きれ。いかにも頼りない。それでもこれにすがるしかないのだ・・・。

 「コツン、コツン・・・」
足音が近づいてくる。翔子は息を殺しながら祈っていた。
(どうか気がつかないで・・・)

 「コツン、コツン・・・」
ついに足音は目の前に・・・。

 「コツン、コツン・・・」
・・・通り過ぎていった。

(良かった・・・)

ほっとしたのも束の間。通り過ぎた足音はピタリと止まる。クンクンと匂いを嗅ぎだした。信じられないことにこちらに戻ってきたのだ。

(どうして・・・どうして・・・)

 「コツン、コツン・・・」
翔子には足音と自分の高鳴る心臓の鼓動しか聞こえない。

 「ガサリ」
布に手をかけた音がしたとき翔子は心臓が止まりそうなほど恐怖した。ゆっくりと布が開かれていく。ホテル用のスリッパをはいた足が翔子の目に飛び込んできた。

 「どうしたんだ?こんな所で?」
小太りの中年の男が不思議そうにこちらを見ている。
襲ってくる気配は無い。
「非常ベルは止まったようだが、まだまだ安心はできないぞ。こんな所にいちゃいけない。一緒においで。」
翔子に手を差し伸べてきた。そして言葉を続ける。
「キミは何か持っているかい?なぜかここからいい匂いがしたんだ・・・たまらない美味しい匂い・・・食欲をそそられる匂い・・・焼きたてのステーキでも持ってるのかい?」
そう話す男の口元から白い涎が流れるようにして下に垂れた。
「ほら、早くおいで。ここは危ないぞ。襲われでもしたらたいへんだ。おじさんと一緒に隠れよう。」
動かない翔子の肩に男の手が触れた。
ビクリとするだけで翔子は動けない。声も出ない。翔子を見つめる男の目は血走っている。獣の目。獲物をいたぶる目・・・何度も見てきた目。翔子の肌が一瞬で鳥肌立つ。
相手が抵抗しないことを知ると男の行為は大胆になっていった。翔子の左腕をとり、シャツをまくり上げるとそこに頬ずりをし始めた。気味の悪い液体が腕を汚すのを翔子はまるでテレビの向こうの光景のように眺めている。暴行から自らの心だけは防衛する術(すべ)。経験から学んだ唯一の方法だった。
 
 「なんて張りのある肌なんだ・・・この弾力・・・う、うまそうだ・・・うまそう??そ、そうだ。若い娘は美味いんだ!!おお、なんと美味そうなんだ!!」
歓喜の声をあげながら男の舌が翔子の顔に近づく。


 一方、10階で感染者3人と向き合っていた坂本陽輔(さかもと ようすけ)は銃を手にしたものの躊躇っていた。ここで大きな音をあげれば隣の部屋に突入したやつらがこちらに向かってくるだろう。そもそも銃で撃ったとして倒せる保証が無い。

 牙をむいて襲いかかってくるひとりを躱(かわ)し、その胸に蹴りをくらわすと相手は階段下に転がり落ちていった。
「チッ!」
それを確認して坂本は遠慮無く舌打ちする。翔子を追う道筋を塞がれた形になったからだ。
 間髪入れず背後からもうひとりが襲いかかってくるのを感じた。平時であればその腕を取って投げ捨てるのだが、なるべく接触は避けたい。態勢を低くするとそのまま相手の脚を払った。息もつかせずもうひとりが猛然と突っ込んでくる。坂本は地を這うように転がってその先鋭を躱すとすぐに立ち上がり、すれ違ったひとりの背中に飛び蹴りを入れる。壁に勢いよく衝突し反動で大きく跳ね返った。
 考えずとも勝手に身体が動く。数限りなく潜り抜けてきた修羅場と血の滲むような訓練の賜物である。

 坂本は深追いせずに通路を奥へと走り、別のルートで下の階を目指す。やつらが追ってくる気配があったが速度はこちらの方が上であった。
 突き当りの非常階段のドアを開くと、屋外のらせん階段になっていた。雨と風が闇夜の中から吹き付けてくる。坂本は一気に7階まで下りた。

 7階の廊下は静かだった。
 直線の通路を早歩きで進んでいくが、誰にも遭遇しない。階段前を通過。すると向こうに人影がある。翔子かと思ったが、身長が高い。ふらふらと千鳥足で歩んでいる。感染者だ。その奥にもひとりいるようだ。待ち合わせの場所はその向こうのバー。翔子単独ではここを突破できなかったはずである。
 (あのドラ猫め、どこに行った!?)


 一方、8階の踊り場で絶体絶命のピンチに陥っていた翔子。
 男の舌が翔子の頬に触れる瞬間、男がグッと引き戻された。
「オヤジ狩りは古いからイヤなんだけどなあ、まあ状況が状況だからねえ。」
悶える男の背後から妙に明るい声が聞こえてきた。ひょいと顔を覗かせてきたその表情は驚くほどに笑顔である。そして若い。翔子より幾分か年上という程度だ。声を聞かなければ女の子と見間違えるほどの美形の少年だった。

「な、なんだ、お前は!!?ん・・・お、お前も美味そうな匂いがするな。」
「あらあら、末期症状か。こりゃダメだ。」
少年に振り返った男が舌なめずりをして迫っていった。少年は随分な余裕ぶりで一向に逃げようとしない。
「うー!!!うー!!!」
男が唸り声をあげた。少年の首に食らいつこうとした。翔子の脚の金縛りが解け、男の背に体当たりを食らわした。男は悲鳴をあげながら階段を転がり落ちていく。
「わお。」
少年は素直に驚いたという表情をして翔子を見た。自分自身を指さして。
「あれ?僕が助けられたってこと?」
「いいから、ここを逃げよう!!」
翔子が少年の手を引き7階へ。転がり落ちて呻いている男の横を通り過ぎた。右足首の痛みが激しい。
「ちょっと待って、待って、この先は不味いな。ここに僕の部屋があるからここに逃げ込もう。」
そう言って少年が立ち止まる。翔子はキッと睨みつけて
「新しいナンパね。この状況だと効果的だわ。命を助けてもらったけど、だからって喜んで身体を許すとでも?」
少年は参ったなという表情をして、
「そんな気はないですよ。僕はもっとおしとやかな女性が好みですし・・・」
「悪かったわね大和なでしこじゃなくて。私もチャラチャラしたのは好みじゃないのよ。だったらそこのハゲおやじの方がましだわ。」
指さすとちょうどその男が起き上がるところだった。

「面白い子だなあ。僕は沖田春香(おきた はるか)。君は?」

 客室の部屋の鍵を開けながら少年は自己紹介をしてきた。起き上がった男がこちらに気づき走り始めた。

「翔子よ。久門翔子!!」

 二人はドアを開くと室内へ。すぐにドアを閉めた。