皆さん、道徳の授業で聞いたことはないだろうか?。「どんな命も平等に価値あるものである。」と。ただ現実はどうだろうか?残念ながらこの資本主義社会。命に値段は付けられ、相対的に価値のあるなしは存在する。簡単に言うとお金を稼ぐ能力の有無がそのまま人の価値に直結するのだ。命に値段を付ける。そんな残酷な事は許されないと思う気持ちはわかる。ただ身近な例を挙げるとペットショップなんか行くと、犬や猫に数十万円の値段が付いている。それと人体の一部である内臓にも値段が付いている。


こんな事を書いてきた手前早速矛盾する事を言うが、実際そんな事は無いのである。賃金というのは仕事という行為に対して支払われるているものだし、株の配当金も先に会社に投資してくれたリターンとして還元するものである。ヒット商品や番組を作った人も、それらの質が評価されたに過ぎない。決してその人に価値があるかどうかは関係ない。


SNSで他者との比較が容易なった昨今、自身に生きる価値が無いのではないかと自ら命を絶とうとしている人が多くいる。そう思うのは勝手だが、安心して欲しい。どんな生物であれ本質的には同じく無価値だ。そして平等だ。何故なら死ねば等しく肉の塊になる。そこに何か違いはあるだろうか?Amazonを作った人も凡人も行き着く先は同じである。


側からみたら確かに価値に優劣がある様に見えるかもしれない。しかしこの話を生きるのに必死な状況下にいる人の前でできるだろうか?それは寝たきりになっている人や何か障害を持つ人、あるいは貧しい国の子供たち。それらの人の前でこの様な優劣の話をすること事体が傲慢であると考える。


何が言いたいのかと言うと命の価値なんて話した所で無駄なのである。所詮その人や社会、生物にとって都合が良いかどうかという話に収束するのがオチだ。

故に命が無価値であると都合がいい。誰もが平等であり、また命に対する意味も人それぞれ自分に与えるだけでいいからだ。他人も自分も無価値であればこそ、高望みしなくていいし見比べなくてもいい。危害を加えていい道理もそこにはない。個人を尊重する様にただ他人も尊重するだけでいい。とても単純だ。


ちなみに存在しているだけで誰から見ても害になるモノについては「価値がマイナスである」と考えている。しかし、そんなモノは中々思いつかないので、まあ無いんじゃないすか?くらいの感じで留めておいて頂きたい。


それでもなお、命は価値あるものであると信じてやまないのは、この星の無数の塵のひとつだと、理解できていないのかもしれない。