クリストファー

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引き際の重要性(2006.01.27)

 生きている様々な場面で人は選択を要求される。向こう側から来る通行人をよけるのに右に行くか左に行くかという単純なものから仕事の商談の際に印鑑をつくかつかないかという複雑な要素を持ったものまで全て二者択一の選択により行動や意思の決定がなされる。どちらかを選択したらその方向へ頭を向けて前進するわけだが、少し進んだ後に引き返すべきかそのまま進んで良いものかというように選択には様々な切り口で選択をする瞬間を見つけることが出来る。その瞬間の人間の脳内の動きとしては、ノルアドレナリンやドーパミンなどの神経伝達物質の恒常性を逸脱した分泌があり、個の刺激作用によって採択されるのである。それには主観性・客観性だけでなく、過去・現在・未来といった時間軸からみる要素で善し悪しが付けられるケースもある。


 しかし、選択を迫られている最中、「どちらとも決めがたい」「今は決められない」という態度保留の意見が用いられることも少なくない。この場合、性格によっては優柔不断とかはっきりしないとか悪い印象を持たれることがある。この状況は決定を迫られる周囲の人にまで感染し、全体がピリピリとした空気を感じながらその時間を過ごさなければならなくなるという面で悪影響を及ぼすのである。この状況は自分が経験した場面の数で考えると高確率で選択に間違いを及ぼす。決定を先延ばしにすることは一件の憂慮という意味で精神的に不健康な要素を与えるが、緊迫した状況での不用意な選択が後々に悔いを残すことを考慮に入れると結果として良い可能性が上回ることがある。それも割合として五分以上でだ。精神的な疲労や障害を受け入れて、それでもなおかつその選択に正解を得ようとするのであれば先延ばしという策は案外悪くないのかもしれないとも思う。


 PCの普及やインターネットやメールといった媒体の出現により、現代人は人と面と向かって話しをするということが最近減少しているように思える。これは私自身が誕生してからあるシステムの中で最も大きく変わったもののように思われる。というのも、TVのCMで、会社で残業している父親が生まれたばかりの赤ちゃんの起きている姿を見られないという問題から映像を携帯電話で配信できるようにしたという一つのシステム構築に端を発し、会社でも会議室に集まらずに電子会議を行うことが出来、子供の居場所は携帯電話の端末からの情報受信で親が把握できるようになったということからもよくわかる。実物が存在するのか分からないものに対してまで、言葉尻をですます口調にしたり、音声ガイダンスで振り分けられる等、もはや人間の許容を超えた次元で物事を進めなくては間に合わないほどの膨大なシステムの一部品として人間が存在しているように思えて仕方が無いのだ。いつしか人間はコントロールする側からされる側になってしまっていたのだ。しかもそれに気付かずに未だに自分がコントロールしていると錯覚して生活してしまっているからどう仕様もない。


 最近では株式取引も大衆の生活に身近になっている。主婦やフリーターのデイトレードで儲けたとか損したなんていう話も有り触れた内容になってきた。私はこの状況は明らかな異常な状態であると言いたい。米国のような形而上主義の根本を幼少期から学ばせるような体系が存在する国家においてこの話が出てくるならば当然と言えるが、無知で楽することを悪として排除してきた時代を持つ国に不良債権を国債などのいわば赤字で決済させて見せかけの通貨を躍らせている市場で、ケーブル一本繋げば簡単に日本の経済状況の渦に飛び込めるなんていうシステムが構築されてしまったということは憂慮すべきことだと考える。私の視点からでは、戦中に銃や飛行機を作る金属が足りないから家のやかんなどを没収してお国のためにと節約を重ねてきた人達の姿と現代の主婦が気軽に日本経済という財布に苦労して貯めた貯金をしまい込んでいる姿がだぶついて見えてしまう。前者は国のため、後者は個人のためと全く反対の意思を持っているのだが、内容を高座から見れば国を潤すために使う資源を国民から徴収しているというシステムでしかない訳で、徴収のやり方が大衆から見たときの印象を国のためか個人のためかを変えただけのものなのである。お国のためならという考えには美徳があるが、個人のためというのは美徳は語られない。それだけ個というものを守る風潮が根付いてしまったと言うことだろう。この話は結局堂々巡りになってしまうわけなのだ。


 そう考えたときに、個人を動かす、または全体を動かそうとする風雲児が出現するから面白い。某社の有名社長もその一人と言えるだろう。動かすきっかけは幾らでも存在するので、それを実行に移すか考えるだけで止めるかの二者択一なのであるが、個を守るためにはどうしても超えられない決断があるために実行に移せずにうろうろとしている人が大勢いるのだ。そして超えられないとされた選択を行った人はまずなにしろ遅かれ早かれ話題になる。その人の行動理念をあらゆる分野の人が必要以上にこと細かく調べ上げ分析する。ここで大事なのは目立つことと引き際である。世間でよく一発屋と呼ばれあの人は今?という特集で登場する人や物が存在するが、実はあれが一番効果的で効率的で後々に偉業とされるものなのだと確信している。風雲児の場合、悲しいサガとも言うべき野心を腹に隠しているため、一つの成功に留まらずどこまでも果てしなく利益を追求してしまうのである。残念ながら時代の要求に応えられるものを何個も生み出す能力は人間には有り得ないし、革新的な行動を取り続けようとする為にはどこか歪んだ無理な方法を取らざるを得ないケースが生じてしまうのだ。気付いたときには既に存在しない、一瞬の閃きの記憶は時間をかけて醸成され素晴らしい事象として変貌を遂げるのである。


散歩道(05.12.02)

昨日より格段に寒さが感じ取れるようになっていた。夜闇が音を立ててすぐそこまで近付いているのを通りの家々の夕飯支度が香りと共に教えてくれた。何を探すわけでもない散歩道である。一人気の向くままに足を伸ばすので道順は歩いた後に思い出されることはない。むしろこれは忘れられるために存在したのであり、回顧録として書き認める事等全く予期されていなかった案件だったのかも知れない。巷での事件事故に対する危惧を他所に道を進み、ふと目の前にした学校に立ってみることにした。


 校庭では夕暮れの太陽の明るみが最終楽章を惜別で飾る劇と同じように暖かくも切ない情景を醸し出していた。その場所は学生達により出された昼間の喧騒を海風に乗せて水平線に沿って微かに見える半島の街へ運び終えていて、寂しげな顔をいつものことであるように淡々と迎えるのであった。親潮に乗って来た気流は道路を挟んで現実に無理やり戻された様相であり容易に体には馴染まず当たり砕けて校庭の地面に覆い被さろうとしていた。人工的に作られた海岸線沿いの道路から渋滞に痺れを来たした自動車の警笛音が届くと街を囲う山はもう夕刻ではなく夜だということを怒りに似た顔を覗かせ示してるようだった。校庭に転がっている小石は多くの学生達の駆け足により微塵になり無垢で飾り気のない状態になっていて、自然に返る心積もりを既に終了し唯静かに待機していた。夜は早々に迫ってきており、職員室に燈っているだけの明かりが秋風による寒さをより一層強調する僅かな暖かさを演出していた。


 この場所では光ある道を生き行く術を身に付ける研鑽が善しとされ、肩に少しでも見栄えのする文字を背負うために英文字や数字を捌く技術をパルプで拵えた戦場で競うための強さを獲得するための努力で濃密な時間が過ごされた。立っている位置からは校舎というより刑務所の外観と酷似した極寒に何の文句も言えず必死に耐える建造物のように見えていた。校舎は自然に近い肌色で塗装されていたが音符の配置を間違えたまま創り上げられてしまった協奏曲のような不自然さがあったが、そこに運ばれる様々な原子が互いの電子を持ち寄ったり与えたりするのを繰り返していて、その集合体が熱や触媒を加えられても遅々として反応が進まないほどの強い力で結合して帯電しているように見えるのだった。突出を許された数少ない原子達はその場所を周期表の枠を超えないように燻ぶっていることで自らの意義を見つめる場所として存在していた。


 校庭で拾われた小石を腕を伸ばして投げると、水面を跳ねる魚のように土を掴んでは離しを繰り返していたが無力であることに恐れることなく砂と同化する事を望むようであった。若干の土埃が上がったようであったが、石としての生命を全うすることを誉れとし海と山により優しく保護されるように空気と交じり合っていった。


 波の音を砂浜で聞きたくなったので、その場に背を向けまた歩き出すことにし散歩は続けられた。背中にどっしりと構えて支えてくれる視線のようなものを感じ、心なしか肩に掛かっていた重みが足の下に感じられるようになっている気がした。海を正面に見て海岸に立つと今まで抱えていた不安が希望へと徐々に変わっていくのを感じた。