-  4章 イエスさまが受けられた誘惑。イエスさま、ガリラヤとナザレへ戻られる。ご自分の故郷で拒まれるイエスさま。イエスさま、ご自分の本拠地をカペナウムに移され、ご自分のミニストリーを続けられる。 -

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※ 神について、神とあなたの関係についてのあなたの人生にとって一番重大な質問

 

 イエスさまは、人としてサタンに誘惑されました。これらの誘惑は、私たちみんなに来る人間的な誘惑でした。これらの誘惑は、人間の誘惑のすべての範囲を網羅し、3つの部分からなっています。

 

1.サタンは、からだの必要を満足させるためにイエスさまに石をパンに変えなさいと言います。主の偉大な力を、自分自身を助けるために使うのは自己中心的です。自己中心は、 信条のない世俗社会にかけられたのろいです。主は、この誘惑にあって、この世の人気のある哲学を論破されました。

 

2.サタンは、イエスさまにこの世の国々をあげようと申し出ました。国々はその権力を暴力と政治的陰謀によって手に入れました。戦争は、生き方のひとつです。憎しみと恐れは暴徒を動機付けるむちです。これは悪魔的であり、サタンはこの世の王国をこのような条件で差し出します。人は、神さまの御国に入るには変えられなくてはなりません。

 

3.サタンは、イエスさまに宮から身を投げるように誘惑します。それは、イエスさまが群集にご自分のご人格とミッションとを印象付けるのに、理論的なやり方であるように思えるかもしれません。でも、イエスさまは簡単な道を通って王座に行くことはされません。主は、栄光の冠をかぶられる前に、いばらの冠をかぶらなければならないのです。

 

 たとえば、海外への宣教師は、その国のことばを習得するために学ばなければなりません。そしてそのあと、神さまがその人を助けてくださるのです。私たちは神さまのパートナーであって、操り人形ではありません。「もし私たちが苦しまないで成功したとしたら、それは私たちの前に誰かほかの人たちが苦しんだからだ。もし私たちが成功することなく苦しむとしたら、それは誰かほかの人が私たちのあとに成功するためだ。」イエスさまは、偽物の、うさんくさい霊的な姿勢を拒否されました。主の答えは圧倒的です。

 

(ルカ4:1-2)「さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、四十日間、悪魔の試みに会われた。その間何も食べず、その時が終わると、空腹を覚えられた。」

 

 今私たちの目の前にあるのは、主イエス・キリストが受けられたテストです。共観福音書である、マタイ、マルコ、ルカにはすべてこのテストが記録されています。共観福音書は強調点を主イエスの人間性に置いています。主は人として誘惑を受けられました。すべての“点”で私たちと同じように主は人間として誘惑を受けられました。でも、主には罪がありませんでした。主は聖霊に満たされていたと書かれています。人として、神さまの御子は誘惑に立ち向かうために、御霊さまに満たされている必要がありました。そして、私も、私自身の力でこの世の誘惑に直面することはできません。

 

(ローマ8:3-4)「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」

 

(ガラテヤ5:16)「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」

 

 主が受けられた誘惑は、40日が終わったときに始まったのではありません。ルカは、誘惑のあとに、主は空腹を覚えられた、と書いています。主はこの40日の間、悪魔に誘惑され続けたのです。ほかに理解しなければならないことは、サタンは人格をもっているということです。その誘惑に負かされる何かがなければ、それは誘惑ではありません。

 

 これは“テスト”でした。すべての新しいものはテストされます。キリストが堕落することはあり得ませんでした。主は、私たちが絶対にされ得ないような方法でテストされました。私たちがテストされるとき、私たちの中には必ず限界点があります。私たちが限界点に達するとき、私たちは折れ、そして圧力は取り除かれます。でも、圧力が主から取り去られることはありませんでした。主の受けられた誘惑は、三重のものでした。肉体的、心理的、そして霊的です。

 

(ルカ4:3)「そこで、悪魔はイエスに言った。『あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。』」

 

 まず主は、肉体的な領域でテストされました。主は、サタンを打ち負かすために御霊の剣である神さまのみことばを使われました。

 

(ルカ4:4)「イエスは答えられた。『「人はパンだけで生きるのではない」と書いてある。』」

 

 次に、サタンは主を心理的な領域でテストしました。

 

(ルカ4:5-8)「また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、こう言った。『この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。』イエスは答えて言われた。『「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい」と書いてある。』」

 

 このテストは、ヨハネが言うところの目の欲と関係があります。エデンの園で、エバは園の中央の木のくだものを目にして、それが(創世記3:6)「目に慕わしい」のを見ました。キリストは、十字架の道によってご自分の王座に向かわれる途中でした。サタンは「十字架はオミットしましょうや」と言っていたのです。イエス・キリスト抜きでこの地上に王国を建てようとするのは、悪魔的です!支配者はふたりしかいません。主イエスか、サタンかのどちらかです。もしアナタが主を王として考慮するのでないなら、もうひとつを選ばなければならないのです。最後に、主は霊的な領域でテストされました。

 

(ルカ4:9-13)「また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の頂に立たせて、こう言った。『あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。「神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる」とも、「あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる」とも書いてあるからです。』するとイエスは答えて言われた。『「あなたの神である主を試みてはならない」と言われている。』 誘惑の手を尽くしたあとで、悪魔はしばらくの間イエスから離れた。」

 

 神さまに対する挑戦でした。信仰は、神さまの御心を行いながら、静かに神さまを待ち望むことです。主は、すべての力がご自分に与えられていることを証明されました。私たちを理解し、私たちに同情することがおできになる、人である方は今日栄光のうちにおられます。そのような救い主をもっていることはすばらしいことです!主イエスは、人生のすべての状況の中で、私たちが頼ることのできる方です。

 

(ルカ4:14)「イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判が回り一帯に、くまなく広まった。」

 

 主イエスキリストは人間となられ、だからこそ、苦しい体験のあとには聖霊さまによって強められる必要があったのです。そしてもし主が、ご自分のテストのあとに聖霊さまの強めを必要とされたのなら、私たちにはどれほど聖霊さまが必要なことでしょう!

 

(ルカ4:15)「イエスは、彼らの会堂で教え、みなの人にあがめられた。」

 

 この節は神さまへの賛美の歌のようです。今日は主があがめられ、次の日には主は十字架につけられたのです。

 

(ルカ4:16-21)「それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。『わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。』イエスは書を巻き、係りの者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。イエスは人々にこう言って話し始められた。『きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。』」

 

 今、神さまのみことばに記録されている中で、もっとも美しいできごとに来ました。光がぱっと現れるような、きらめく物語です。安息日に会堂に行くことは、主の習慣でした。注目すべきなのは、主がどこで読むのをやめられたかということです。主は「・・・われわれの神の復讐の日・・・ 」のくだりを読まれませんでした。この箇所の残りの部分は、主が再臨されるまでは成就されることはないのです。主は最初のときには貧しい者たちが救われるようにと福音を宣べ伝えるために来られました。主は、栄光に満ちた救いのメッセージをもたらすために聖霊さまに油注がれて来られました。私たちは今も、そのすばらしい時代である福音の時代に生きているのです。主が再臨されるときには、復讐の日になります。

 

(ルカ4:22)「みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。そしてまた、『この人は、ヨセフの子ではないか』と彼らは言った。」

 

 人々は主を見て、ヨセフの息子であることを思い出しました。それがすべてを台無しにしてしまったようです。

 

(ルカ4:23-27)「イエスは言われた。『きっとあなたがたは、「医者よ。自分を直せ」というたとえを引いて、カペナウムで行われたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ、と言うでしょう。』また、こう言われた。『まことに、あなたがたに告げます。預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません。わたしが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、三年六か月の間天が閉じて、全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、エリヤはだれのところにも遣わされず、シドンのサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされたのです。また、預言者エリシャのときに、イスラエルには、ツァラアトに冒された人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました。』」

 

 主はこのことをすばらしい方法で説明されました。主はイスラエルの地の外に住んでいたふたりの異邦人のことを引用されました。サレプタのやもめとシリヤのナアマンです。このふたりの人生の中で神さまは奇蹟的に働かれました。主が言わんとしておられるのは、主ご自身の民が大きな祝福を見失う傾向があるということです。なぜなら、彼らが主がどういう方であるかを受け入れようとしないからです。彼らは、エリヤの時代にいやされることのなかった、イスラエルのたくさんのやもめや、たくさんのツァラアトに冒された人のようになるのです。

 

(ルカ4:28-30)「これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。しかしイエスは、彼らの真ん中を通り抜けて、行ってしまわれた。」

 

 イエスさまの故郷の町の人々は主を拒否しました。ナザレの周りの田舎は粗暴な土地柄で、彼らはイエスさまをそこから落として殺そうとして、丘のがけのふちまで連れて行きました。主がこの暴徒から避難されたのは奇蹟です。

 

(ルカ4:31)「それからイエスは、ガリラヤの町カペナウムに下られた。そして、安息日ごとに、人々を教えられた。」

 

 この節から章の最後まで、私たちは主イエスと一緒に1日を過ごします。私たちの多くは、主がこの地上におられたときに主と一緒に1日をすごせたらすばらしいと思っています。ルカがそれを可能にしてくれます。(ルカ10:15)なぜなら、主の本拠地がそこにあったのです。彼らはなんというチャンスを持っていたことでしょう。(それなのに彼らは悔い改めなかったのです。)光は責任を造り出します。

 

(ルカ4:32)「人々は、その教えに驚いた。そのことばに権威があったからである。」

 

 安息日に主が会堂で教えられるとき、主は律法学者やパリサイ人のように語らず、権威ある者として語られました。

 

(ルカ4:33-37)「また、会堂に、汚れた悪霊につかれた人がいて、大声でわめいた。『ああ、ナザレ人のイエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。』 イエスは彼をしかって、『黙れ。その人から出て行け』と言われた。するとその悪霊は人々の真ん中で、その人を投げ倒して出て行ったが、その人は別に何の害も受けなかった。人々はみな驚いて、互いに話し合った。『今のおことばはどうだ。権威と力とでお命じになったので、汚れた霊でも出て行ったのだ。』 こうしてイエスのうわさは、回りの地方の至る所に広まった。」

 

 サタン礼拝は現実です。悪霊たちは主の時代に働いていましたが、今もまた働いています。主は、個人から悪霊を追い出されました。(現在)麻薬の使用を考慮に入れても、犯罪を犯す者がサタンの力と支配の下にあるのでない限り、説明することが難しいような行動やひどい犯罪が犯されています。

 

(ルカ4:38-39)「イエスは立ち上がって会堂を出て、シモンの家に入られた。すると、シモンのしゅうとめが、ひどい熱で苦しんでいた。人々は彼女のためにイエスにお願いした。イエスがその枕もとに来て、熱をしかりつけられると、熱がひき、彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた。」

 

 これは明らかに深刻な病気でした。主は熱をしかりつけられました。ルカの医学的な用語を使えば(主は熱に)「口輪をはめられた」のです。熱は綱を引きちぎった野犬のようでした。主は、罪もそのように扱われます。彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなしました。主イエス・キリストが誰かをいやされたとき、いやしはだんだんに来るのではなく、すぐに起こりました。これは驚くべきことです。「からだを不快にしている部分を取り除くのは私ですが、いやし主は神さまでなくてはなりません。」なんというすばらしい証でしょう。個人ではなく、神さまがいやしをされるのです。

 

(ルカ4:40-44)「日が暮れると、いろいろな病気で弱っている者をかかえた人たちがみな、その病人をみもとに連れて来た。イエスは、ひとりひとりに手を置いて、いやされた。また、悪霊どもも、『あなたこそ神の子です』と大声で叫びながら、多くの人から出て行った。イエスは、悪霊どもをしかって、ものを言うのをお許しにならなかった。彼らはイエスがキリストであることを知っていたからである。朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。群衆は、イエスを捜し回って、みもとに来ると、イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めておこうとした。しかしイエスは、彼らにこう言われた。『ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。』そしてユダヤの諸会堂で、福音を告げ知らせておられた。」

 

 私たちが知る限りは、主はこれらの人たちの信仰に基づいていやしをされたのではなく、ただ主の大きな同情の心が彼らのために主を動かしたのです。そのような同情の心を持つようにと私たちも教えられています。

 

(ガラテヤ6:2)「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」

 

※ 是非、引き続きブログテーマ「ルカの福音書」をお読みください。

 

是非お近くの方は「聖書のみことば、罪のゆるし、死後のさばきからの救いのメッセージ、福音」を聞きにお越しください! 

 

 

神の御子イエス・キリストは、罪深い人間の身代わりに、十字架で死なれ、死の力を打ち破ってご復活されたまことの神、救い主なる御方です。

 

    
キリストは罪人である私たちの身代わりとなられ、十字架にかかり、死んでくださり、墓に葬られ、ご復活されました。その神の御子なるお方イエス・キリストを真の神、救い主と信じ受け入れることによって、私たちの罪がゆるされ、永遠の地獄の裁きから救われます。これが罪のゆるし、死後の裁きからの救いの福音です。

 

※ 約12分の救いのためのメッセージ動画です。是非ご覧下さい。

救いの福音のメッセージ文書版です。是非お読みください。

 

 

 

是非これを読まれた方が主イエス・キリストを信じ救われることを心より願っております。罪のゆるしについて、死後のさばき(永遠の地獄)からの救いについて、真剣に考えたい方、話を聞きたい方は是非プロフィールクリック→メッセージください。あなたがどうすれば救われるのか一緒に考えさせてください。

 

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イグアスの滝(自分で撮った写真です。)悪魔の喉笛です。

~一番ポピュラーな、悪魔の喉笛の由来は、その下の岩に打ち付ける滝の音が、悪魔が唸り声を上げている様に聞こえるから...~