- 2章 ペンテコステの日 -
※ 死後のさばきから救われるための福音をYOUTUBE動画で見れるようにしました。
主イエス様のお力をお借りし、完成しました。是非ご覧ください。
これをご覧になった全ての方がイエス・キリストを信じ救われますように。
ペンテコステの日(聖霊のベツレヘム)
(使徒2:1)「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。」
聖霊が来られたこと。
ペンテコステは、初穂の祭りの50日後に行われました。レビ記の学びのときに初穂の祭りはイエス・キリストのよみがえりを語っていると学んだことを覚えていらっしゃるかも知れません。キリストは初穂です。過越はキリストの死で成就し、初穂の祭りはキリストのよみがえりで成就したのですから、ペンテコステも何かを示しているはずです。つまり、ペンテコステも何かの成就だということです。
ペンテコステが成就したのは、教会の誕生、つまり教会が存在し始めたその日です。聖霊が具体化されたのです。聖霊が信者にバプテスマを授け始められました。それは、聖霊が信者をこの世におけるキリストのからだとして、キリストと同化されたということです。
(Iコリント12:13)「 なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」
(使徒2:2)「すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。」
さて、とても重要なことに目を向けていただきたいと思います。聖霊が来られたとき、聖霊は目に見えませんでした。でも、聖霊はご自分の臨在をふたつの方法で明らかに示されました。すべての人類が情報を得るためのふたつの入り口に訴えかけられました。耳の入り口と、目の入り口です。これは風ではなかったことに注目してください。これは、風の“ような”音でした。
(使徒2:3)「また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。」
これにも注目していただきたいのです。舌は、炎の“ような”ものでした。炎ではありませんでしたが、炎のように見えました。この節は、「彼らの上に離れ離れになった舌が現れて」と訳されたほうが良いかも知れません。つまり、炎のような舌(訳注:複数です)がひとりひとりの上にとどまったということです。これは目の入り口に訴えかけます。
つまり、このペンテコステの日に、聖霊が教会に現れ、彼らにキリストのからだにつくバプテスマを授けたとき、耳と目とに訴えかけたのです。ペンテコステの日に聖霊が下ったとき、彼らが見たのは、見た目が火のように見えたものでした。
(使徒2:4)「すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」
彼らが聖霊に満たされたというその事実こそが、この時代の信者に対する聖霊のほかのすべてのミニストリーがすでに行われたことを示しています。次のような順番で起こりました。最初に、彼らは“生まれ変わり”ました。人は新しく生まれなければならないのです。
(ヨハネ3:5)「イエスは答えられた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。』」
第二に、彼らのうちに神さまの御霊が“内住”されました。
(ローマ8:9)「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」
第三に彼らは、聖霊によって神さまとの永遠の交わりの“証印を押され”ました
(エペソ1:13-14)「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。」
第四に、彼らは聖霊の“バプテスマを受けました。” これはヨハネによって、あらかじめ語られていたことです。(ルカ3:16参照)
(ルカ3:16)「 ヨハネはみなに答えて言った。『私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。』」
聖霊の満たしは、奉仕のためでした。ペンテコステの日の“経験”は、聖霊の“満たし”によるもので、聖霊のバプテスマ によるものではありませんでした。それは今日も同じです。聖霊の満たしは奉仕のためです。聖霊の働きのうちで、私たちが何かをしなければならないのは、これだけです。私たちは聖霊に満たされなさいと命じられています。
(エペソ5:18)「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」
(ヨハネ16:14)「御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」
御霊がキリストのものを受けて私たちに知らせてくださるとき、私たちは御霊がここにおられることが分かります。そして私たちがキリストのものについて語っているとき、神さまの御霊はそれを利用することがおできになるのです。
「御霊が話させてくださるとおりに」この使徒たちはガリラヤの出身でした。彼らはこのようなほかのすべての言語を話すことはできませんでした。でも今、彼らはその言語を話しています。御霊が話させてくださったのです。
(使徒2:5)「さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、」
彼らはペンテコステのために、あらゆるところから来ていました。ペンテコステこそが彼らがエルサレムにいた理由でした。
(使徒2:6)「この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。」
自分の国のことばが語られていただけでなく、ひとりひとりが自分の地域で話している方言を聞いたのです。この人々はちんぷんかんぷんなことを話しているのではありませんでした。彼らは知られていない言語を話しているのでもありませんでした。この人々は、群衆の中にいる人々の方言で話していたのです。
(使徒2:7-11)「彼らは驚き怪しんで言った。『どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。』」
ここには、三つの大陸から来た人々がいました。確かに彼らは様々な言語と方言を持っていました。彼らひとりひとりが、このガリラヤ人たちが自分に分かる方言で話すのを聞いたのです。これらは知られていない言語ではありませんでした。理解できる言語だったのです。
(使徒2:12)「人々はみな、驚き惑って、互いに『いったいこれはどうしたことか』と言った。」
彼らは驚き惑いました。彼らには何が起こっているのか分かりませんでした。
(使徒2:13)「 しかし、ほかに『彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ』と言ってあざける者たちもいた。」
おそらく、今日の私たちの多くは、もっとおしゃべりになるように御霊の満たしが必要です。知られていない言語ではなく、福音をほかの人々に語るための力が必要なのです。今日私たちに必要なのは、そのような類の異言運動です。ついでながら、私たちには、人が理解することのできる言語で福音を伝えるという異言運動が必要なのです。それこそが重要です。
(使徒2:14-15)「そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。『ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。』」
教会時代におけるペテロの最初の説教。この初代教会は、100%ユダヤ人でした。 “イスラエル人”だけで構成されていたのです。そのことを知る必要があります。教会は、エルサレムから始まり、ユダヤ、サマリヤ、そして地の果てにまで広がっていったのです。この教会の始まりの日から今日まで、教会はそのように動いています。旧約聖書では、世界がエルサレムに来て礼拝しなければなりませんでした。今彼らは、エルサレムを出て、このメッセージを地の果てにまでたずさえて行くようにと命じられています。この時間は、当時の人が酔っ払うような時間ではありませんでした。ペテロは皮肉屋たちに話しているのです。
(使徒2:16)「これは、預言者ヨエルによって語られた事です。」
彼は、「なぜこのことがなにか変わったことや妙なことだと思うのですか?このようなことがこれから起こって来ると言っている預言があるではありませんか」と言っているのです。
(使徒2:17-21)「『「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。」』」
ペンテコステの日に月が血に変わったとか、太陽がやみになったとか主張する人は、だれひとりとしていないと思います。シモン・ペテロはあざける者たちに、神さまの御霊が注がれることは妙なことではないと示すためにこの箇所を引用しました。ヨエル書2:28-32は、今もって成就してはいません。もしヨエル書を開いてみるなら、彼が主の日について多くのことを言っていることが分かります。主の日は、大艱難時代をもって始まります。千年王国まで続きます。
(使徒2:22)「『イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行われました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。』」
さて、私は個人的には、奇蹟と不思議としるしは全部違うものだと思います。奇蹟はひとつの目的のため、不思議はまた別の目的のため、そしてしるしはまた別の目的のために行われると思います。イエスさまは、特定のことをしるしとするために行われました。いやしの奇蹟のいくつかは、主に耳を傾けている者たちの注意を引くために行われました。これらは主が働かれた三つの領域でした。
(使徒2:23-24)「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」
ペテロは、イエスさまに起こった出来事は、神さまのご計画に反するものではないと言っているのです。キリストの十字架の責任は、誰にあるのでしょう?宗教的指導者たちがその動きを始めました。彼らに多くの責任があると言えるでしょう。ペテロは自分と同じイスラエル人の非を指摘しています。主の死の責任は誰にあったか、お教えしましょう。“あなた”にそして“私”に責任があるのです。私の罪のため、そしてあなたの罪のために、主は死なれたのです。イエスさまのことばに耳を傾けてください。
(ヨハネ10:17-18)「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」
ペテロはキリストのよみがえりを説教しているのです。これは、教会時代に一番最初にされた説教です。
(使徒2:25-27)「『ダビデはこの方について、こう言っています。「私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。」』」
彼は自分のメッセージのテキストを引用します。詩篇16:8-10です。“地獄”(訳注:日本語ではハデスとなっています)ということばは、「シェオル」でなければなりません。この当時、地獄はシェオルでした。
(使徒2:28)「『「あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。」』」
詩篇16篇で、ダビデはキリストのよみがえりのことを語っています。これは今、成就されたのです。この詩篇の解釈は、聖霊に満たされたペテロによって与えられました。
(使徒2:29)「『兄弟たち。父祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。』」
見たところ、ペテロは神殿の地域に立っていたようです。彼はダビデの墓を指差すことができました。私は神殿の地域に立ったときに、シナイ山の頂上のダビデが埋葬されている場所を指差すことができました。
ペテロは言っています。「ダビデが自分のことを言っているのではないことは明らかです。なぜなら彼の骨はあの丘のてっぺんにあるからです。彼の墓はそこにあります。彼のからだは朽ち果てました。ダビデは自分のことを語っているのではなく、あなたも私も知っている方、朽ち果てるのではなく、死からよみがえらされた方のことを語っているのです。」
(使徒:30-31)「『彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。それで後のことを予見して、キリストの復活について、「彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない」と語ったのです。』」
これこそダビデが詩篇16篇で語っていることです。ダビデはイエス・キリストのよみがえりのことを語っていたのです。ここ、使徒の働きの2章に、この詩篇の聖霊の解釈が書かれているのです。今、これが主イエスのよみがえりのことを言っているのだと知った上で、私たちは戻って詩篇を読むことができます。
(使徒2:32)「『神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。』」
「あなたがたが見たもの、つまりガリラヤ人たちが自分の言語で語るのをあなたがたが聞いた奇蹟は、イエスさまが死からよみがえったゆえに起こったのです」と語っています。
(使徒2:33-35)「『ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。「主は私の主に言われた。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい。」』」
旧約聖書の聖徒たちは、天国には行きませんでした。もし、そのうちのひとりでも天国に行ったとしたら、それはダビデであったことでしょう。ダビデは昇天しませんでした。ご存知のように、旧約聖書の聖徒たちは、いつの日にかこの地上で生きるためによみがえらされます。新しいエルサレムに連れて行かれるのは、教会です。今彼は、詩篇110:1を引用します。
(使徒2:36)「『ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。』」
ペテロはイエス・キリストのよみがえりを説教しています。このキリストは彼らの罪のために死なれたのですが、またよみがえられました。
(使徒2:37)「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか』と言った。」
シモン・ペテロのメッセージは彼らに確信を与えました。
(使徒2:38)「そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。』」
ペテロは言います。「罪を赦して(訳注:remission:免除、赦免、減刑の意)いただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。バプテスマは、神殿でいけにえをささげることよりも、あなたが自分の罪を赦していただくために主を信じたことの証となるでしょう。」ご覧のように、彼らのバプテスマは、キリストが世の罪を取り除く神さまの小羊であるという事実に対する証しとなるのです。「そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」誰でも信じる者、自分の信頼をイエス・キリストに置くものは、聖霊の賜物を受けるのです。
(使徒2:39)「『なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。』」
1900年前には、あなたも私も、「遠くにいる人々」でした。ペテロはここにいる私たちのことを話しているのです。
(使徒2:40)「ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、『この曲がった時代から救われなさい』と言って彼らに勧めた。」
言い換えれば、「この宗教から離れなさい。キリストに立ち返りなさい」と言っているのです。
(使徒2:41)「そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。」
これはそこらの説教者の勘定ではありません。純粋に生まれ変わった人たちです。ここは、回心者の数が全く正確に記されている数少ない場所です。(訳注:説教者たちが、自分の説教で回心した人数を水増しして伝えることに対する皮肉と思われます。)
(使徒2:42)「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」
教会の出現 どのようにして本当の教会を見分けることができるでしょう?4つのしるしに注目してください。第一に、“彼らは使徒たちの教えを堅く守”っていました。第二に“交わり”です。彼らはキリストのことを分かち合っていました。第三に“パンを裂く”ことです。パンを裂くとは、主の聖餐の儀式をする以上のことです。第四に“祈り”です。今日の平均的な教会では、祈りは小さな特徴でしかないのではないかと、私は懸念します。つまり、祈りは教会の明らかな弱点だということです。実際、どんな教会でももっとも偉大な財産は祈りなのです。
(使徒2:43)「そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われた。」
使徒たちには、しるしの賜物が与えられていました。
(使徒2:44-47)「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」
このときほど、教会が霊的に力強かったことはありませんでした。このような生活は今日では絶対に上手く行きません。なぜなら、あまりにも多くの世俗的なクリスチャンがいるからです。そして、見てください。教会に人々を加えてくださったのは、主でした。
※ 是非、引き続きブログテーマ「使徒の働き」をお読みください。
※ 約5分の救いのためのメッセージ動画です。是非ご覧下さい。
是非お近くの方は「聖書のみことば、罪のゆるし、死後のさばきからの救いのメッセージ、福音」を聞きにお越しください!



