-   3章 神さまの義の有用性 -

 

※ 死後のさばきから救われるための福音をYOUTUBE動画で見れるようにしました。

   主イエス様のお力をお借りし、完成しました。是非ご覧ください。

   これをご覧になった全ての方がイエス・キリストを信じ救われますように。

 

(ローマ3:1)「では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。」

 

 質問は、もしもユダヤ人も異邦人も神さまの御前に同じ足場に立っているのなら、ユダヤ人の利点な何なのでしょう?そして割礼には何のよいことがあるのでしょう?「私の教会、私の信条、私のメンバーシップ、私のバプテスマは私の救いの助けにはならないんですか?」答えは、まさしく、それらはあなたの救いの助けにはなりません、ということです。でももしあなたが救われているなら、これらのものはしるしであり、あなたがだれであるかをこの世にコミュニケーションする方法なのです。でももしあなたが基準に達しないならばあなたの教会のメンバーシップも、バプテスマも不名誉です。そして神聖なものになる代わりに、それらは恥辱になるのです。

 

(ローマ3:2)「それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。

 

 旧約聖書は、ユダヤ人がかしらとなり、教会の中では失ってしまう特徴を民族として失うことのない王国をあらかじめ示している。「イスラエルが教会の影であり、今その型が成就されて私たちの水平線から消え去った、というとても広く行き渡った見解は、完全に非聖書的である。イスラエルは、成就された影で“教会の中に”溶け込んでしまうのではなく、教会がその上に安んじる“基礎”である。」神さまはイスラエルのために将来を用意しておられ、イスラエルの誠実さは神さまの約束を滅ぼすものではありません。

 

(ローマ3:3)「では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。」

 

 「もし彼らのうちに信仰のない者があったら」というほうがより良い翻訳です。彼らの信仰の欠如が、神さまの真実さを帳消しにしてしまうのでしょうか?ユダヤ人は失敗しました。それは神さまも失敗したことを意味しないでしょうか?そんなことはありません。イスラエルに贖い主を送るという神さまの約束は、彼らの、意図的な不従順と拒否にも負けはしませんでした。イスラエルの民の将来に対する神さまのすべての約束は、彼らの不信仰にも関わらず神さまのご栄光のために成就します。

 

(ローマ3:4)「絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、『あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。』と書いてあるとおりです。」

 

 神さまの誠実さは真実であり、変えることができないからです。神さまが、あなたのために死なせるためにご自分の御子をお与えになったことを信じないのは、どれほど悪いことでしょう?どれほど悪いかお話しましょう。あなたは神さまをうそつきにするのです。あなたが神さまの御子を拒否するとき、あなたはそのようにしているのです。

 

(ローマ3:5)「しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。」

 

 パウロが直面した、もっとも深刻な非難です。もし神さまが罪を用いてご自分にご栄光を得られるのなら、神さまは罪人をさばくべきではない、というわけです。もちろんこれは、ある人々によって罪を犯すことの言い訳として使われました。もしも私の不義が感嘆すべき、すばらしい無限の神さまの誠実さを明らかにするとしたら、神さまは私をさばく権利を持っておられるのでしょうか?パウロがここで訊ねているのはそういうことです。

 

(ローマ3:6)「絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。」

 

 もし、私たちの罪が神さまの恵みをあきらかにするのだから、神さまには私たちをさばく権利はない、というのなら、神さまにはどんな人をもさばく権利はありません。なぜなら、彼らは何かしら神さまの一般恩寵をあきらかにしているからです。もしこの特別な罪がただ神さまのご栄光を 促進するのだとしたら、すべての罪も同じことになるということです。だから、神さまは世をさばくことはできない。神さまはすべての地上のさばき主の座を退く、というわけです。この、もっともらしい議論でいけば、ヒットラーはさばかれるべきではない、と言うことでしょう。

 

(ローマ3:7)「でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。」

 

 ここでの偽りとは、道徳的欺瞞(誤り)を意味します。ひとりひとりは、神さまのさばきからの免除を申し出ることができるかもしれないというのです。なぜなら、その人の罪が神さまのご栄光を向上させたのですから。

 

(ローマ3:8)「『善を現すために、悪をしようではないか』と言ってはいけないのでしょうか──私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが。──もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。」

 

 もし罪が神さまの栄光を拡大するのなら、もっと罪を犯せば、もっと栄光が現れる、というのです。疑いなく、罪のあるところにはさばきがなければなりません。すべての人類に対して、「有罪」の告発が神さまによって出されています。事実私たちは、ほとんど死ぬほどの病気なのです。実を言えば、私たちは咎と罪の中に死んでいるのです。それが私たちの状況です。

 

(ローマ3:9)「では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。」

 

 パウロは、人間は罪人であると仮定します。でも、仮定する必要はありません。それは明白です。今日とても明らかであることを、彼はただ口にしているに過ぎません。(1)人間は行動によって罪人です。(2)人間は生来罪人です。罪を犯すことでその人が罪人になるのではありません。私たちは罪人だから罪を犯すのです。(3)人間は転嫁によって罪人です。そのことについては、この書簡のあとのほうで見ることになります(4)人間の状態は罪の下にあります。私たち全ては罪の下にあるのです。人間の種族全部が罪の下にあります。

 

(ローマ3:10)「それは、次のように書いてあるとおりです。『義人はいない。ひとりもいない。』」

 

 神さまがルールを作られます。 受け入れるか、拒むかしてください。それが神さまのプログラムです。義人はひとりもいません。神さまと正しい関係にある人はひとりもいないのです。でも、神さまは計画を立てられました。神さまの標準と神さまの方法によれば、だれひとり善を行った人はいません。それは、さばき主の最初の告発です。

 

(ローマ3:11)「『悟りのある人はいない。神を求める人はいない。』」

 

 言い換えれば、自分の持っている知識に従って行動する人はひとりもいない、ということです。自分がそうありたいと願うような人物である人はひとりもいません。神さまは公の場所に出て、人間が罪人であることを語り、彼のために救いを提供しておられるのです。そしてお分かりのとおり、神さまの救いは明確です。神さまがここで言っておられるのはそのことです。神さまを求める人はだれもいないのです。

 

(ローマ3:12)「『すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。』」

 

 あなたはそのなすべきことが何かを知っていながら、しないのです。あなたは道を外れてしまいました。“無益”ということばは、熟れすぎた、腐った果物を示唆しています。人類はみずみずしい果物ではありません。腐敗した果物です。全世界のさばき主である方がそう言っておられます。(マタイ15:14)主は、ご自分の時代の宗教的指導者たちのことを「あなたがたは、盲人を手引きする盲人だ」と言われました。さて、パウロは私たちを神さまの診療所の偉大な医師である方の御手に渡します。ここは霊的な診療所であり、偉大な医師である方は私たちが霊的に病気であると言われるのです。

 

(ローマ3:13)「『彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。』『彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、』」

 

 神さまがあなたを見下ろされるとき、神さまはあなたのことを何て可愛らしい子なんだろう、とは言われません。神さまは、あなたは開いた墓のにおいがする、と言われるのです!腐敗した人間の肉のにおいで、私はそれまで経験したことがないほど具合が悪くなりました。「もし私たちが神さまがご覧になるように自分たちを見たならば、私たちは自分に“がまん”することさえできないだろう。」パウロがここで言っているのはそういうことです。誰かほかの人の評判をだめにすることのできる舌を持っているのは“あなた”です。あなたはどこかの女性の良い評判をだめにすることができます。どこかの男性の名声をぶち壊すことができます。

 

(ローマ3:14)「『彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。』」

 

 舌のしたには、危害とうぬぼれがあります。また、人間はすぐにのろいます。そして、もし今日どんなことが言われているかに耳を傾けるなら、のろうことはすべての人たちの語彙の中に入っていることが分かります。その人が溝を掘る人であっても、大学の教授であっても同じです。彼らは、どんな言語よりも冒涜的なことばを使うことが上手です。

 

(ローマ3:15)「『彼らの足は血を流すのに速く、』」

 

 イザヤ書59:7に、省略されていない文が書かれています。なんという人類の姿でしょう。「彼らの足は血を流すのに速」いのです。

 

(ローマ3:16)「『彼らの道には破壊と悲惨がある。』」

 

 人間は、破壊と悲惨をあとに残します。これも、今引用したイザヤ書59:7に含まれています。

 

(ローマ3:17)「『また、彼らは平和の道を知らない。』」

 

 人間は平和の道を知りません。この世界で、今日あなたのまわりを見てください。何年も何年もまだ平和について話していますが、いまだ平和は見つかっていません。 ただ新聞を読んでみてください。この世界には平和はありません。

 

(ローマ3:18)「『彼らの目の前には、神に対する恐れがない。』」

 

 パウロはこの最後のひとことで、人間のすべての罪を要約しているようです。人間には、神さまに対する恐れがまったくありません。人間はまるで神さまが存在しないかのように生活しています。人間は実際、神さまを平然と無視しています。これはなんという人類の姿であることでしょう!

 

(ローマ3:19)「さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。」

 

 律法は人を引き上げはしません。実際、それとは反対のことをします。律法にしがみつくことは、飛行機から飛び降りるときにパラシュートの代わりに、セメントの袋を持って飛び降りるようなものです。確かに、律法はあなたを引き降ろします。律法は、人に有罪判決をするのです。律法は死の援助です。

 

(ローマ3:20)「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」

 

 そして、「義と認められる」とは、正しいと宣言される、救われる、神さまの基準に達する、という意味です。絶対にそのようなことはできません。人間には、まったく不可能なことです。人間のために救いを提供する代わりに、律法は人間が罪人であることを明らかにするのです。

 

(ローマ3:21)「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。」

 

 20節と21節の間には、「グランド・キャニオン」級のへだたりがあります。私たちは夜から昼間に出ます。今、パウロは神さまのすばらしい救いについて話し始めます。彼は、この章の残りで説明されている、信仰による義認について語ります。そして神さまは汚れた洗濯物を受け付けるようなことはなさいません。では、パウロが話しているのは、どの義のことなのでしょう?それは、神さまが用意してくださる義です。キリストが私たちの義となられたのです。

 

 (II コリント5:21)「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。 」

 

あなたや私が努力して得られるものではなく、むしろ神さまが私たちのために用意してくださるものなのです。神さまが要求される義を、神さまが同時に用意してくださるのです。「律法と預言者によってあかしされて」とは、モーセの体制の一番中心にあった、キリストを指し示している血なまぐさいいけにえがささげられた会見の天幕によって、律法が証拠となっているという意味です。同時に、預言者たちも、キリストが来られることと、キリストの死とよみがえりを語るとき、証しをしたのです。たとえば、イザヤはこう預言しました。

 

(イザヤ53:6)「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」

 

律法も、預言者も、神さまがキリストにあって用意してくださる義を証ししたのです。

 

(ローマ3:22)「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」

 

 私たちひとりひとりは、キリストの外にいて完全に失われているのです。人は、キリストのうちにあって完全に救われているか、それともキリストの外にあって完全に失われているかのどちらかです。私たちすべてにキリストの義が必要です。何の違いもありません。律法のもとにあっては、神さまは人間の義を要求される。恵みのもとにあっては、神さまは人間に義を与えられる。神さまの義は、神さまの義が神さまに要求せよと命じるその義なのである。

 

(ローマ3:22-23)「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」

 

  何の差別もなく、すべての人は罪を犯したので、神さまの栄誉(承認)を受けることができないので、イエス・キリストにある信仰によって、すべての信じるものに神さまからの義 が与えられる。

 

(ヨハネ6:28-29)「・・・『私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。』イエスは答えて言われた。『あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。』」

 

 あなたを救うのはキリストの血と功績なのである。そして、この義は、着物のようです。これは、すべての人に利用できるのですが、信じるすべての人たちの上にだけ与えられるのです。そしてそのあと、彼はすべての人にはこの義が必要だ、と言います。カタリーナ島は、太平洋上でカリフォルニアの海岸から最低24から32キロは離れています。サンタモニカの桟橋に降りて行って、大きく走り幅跳びをします。そして、だれがカタリーナまでジャンプできるか、というゲームです。だれもカタリーナまでジャンプできる人はいません。ある人たちは、ほかの人たちよりも上手ですが、そのようなゲームをして、「ボクはキミよりも遠くに飛んだよ。ボクはキミよりも上だし、教会のメンバーの半分の人たちよりも上だね」などと言うのはむしろ子どもじみています。あなたのほうが、上だとしましょう。きっと本当にそうかもしれませんが、だからと言って、それにどんな違いがあるというのでしょう?あなたは神さまの栄誉には達しないのです。

 

(ローマ3:24)「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

 

 私たちは理由なしに義と認められるのです。それは神さまの恵みによるのであって、私たちの側には何の功績もないことを意味しています。恵みは、それに価しないものへの恩恵です。実行に移された愛です。神さまがあなたや私をお救いになることができるのは、キリストが私たちを贖われたからなのです。主が代価を支払われました。主がその贖いを私たちに与えるために、十字架で死なれたのです。言い換えれば、私たちがただ単にアダムのもとの位置に戻されただけでなく、今私たちは“キリストのうちに”置かれたのです。キリストのうちでは、私たちは永遠を通して、とこしえに神さまの子どもなのです!

 

 今日、聖なる神さまは、あなたの必要を満たすために、自由に手を差し伸べられます。聖なる神さまがキリストを信じる者たちを“自由に”お救いになるとは何とすばらしいことでしょう。 

 

(使徒4:12)「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」

 

(ローマ3:25-26)「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」

 

 「その血にある信仰」であることに注目してください。この血は、主のいのちを語ります。イエス・キリストのいのちは(私たちに)“与えられた”のです。シモン・ペテロによれば、その血はとても価値のあるものなのです。「聖書全体の中には、おそらくこの箇所よりももっと深くキリストにある神さまの義を示している箇所はほかにないであろう。」

 

(II コリント5:18)「これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。」

 

 聖なる神さまがあなたや私に求めておられることは、神さまに和解することなのです。あなたのなすべきことは、ただ神さまのもとに行くことです。神さまはあなたと和解してくださいます。キリストは「示された」のです。つまり、主は展示、または展覧されたのです。キリストは、あわれみの座として示されたのです。神さまは、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。私たちには、満足して大喜びのうちに、この世界にあわれみの座をお与えになる神さまがおられるということを知るのはすばらしいことです。

 

 「というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。」これは、十字架の前に生きた人々の罪を意味しています。「アベルさん。あなたはこの子羊があなたの罪を取り除くと考えているのですか?」「神さまがそうしなさいと言われたからです。神さまが子羊をたずさえてくるようにと命じられたのです」と答えたことでしょう。言い換えれば、彼は啓示によってそうしたのです。アベルがそのいけにえを信仰によってたずさえて来ることができたのは、神さまが彼にたずさえて来るように、と言われたからに違いありません。神さまはそうされたのです。

 

 ですから、「今までに犯されて来た罪」とは、キリストが死なれたそのときまで、神さまは“後払い(クレジット)”で(人々を)救われたのだ、という意味です。神さまは、いけにえを持ってきたからというのでアブラハムを救われたのではありません。神さまは、いけにえを持ってきたから、という理由ではだれひとりお救いになったことはありません。いけにえは、キリストを指し示しています。キリストが来られたとき、主はそれまでに犯されて来た罪のすべてと、十字架のこちら側の罪のすべての代価を支払われたのです。十字架のこちら側では私たちはいけにえをたずさえてくることはありませんが、私たちはキリストとキリストの血を信じなければならないのです。

 

(ローマ3:27)「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。」

 

 私たちは今日、誇るものは何ひとつ持っていません。パウロは「私たちの誇りはどこにあるのでしょうか」と訊ねます。そして彼は自分が出した質問に答えます。言い換えれば、神さまは人類の種族を功績による制度に置かれたのではなく、ただ主が私たちのために何をしてくださったかを信じるという土台の上に置かれたのです。ですから、誇ることは除外されています。

 

(ローマ3:28)「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」

 

 これは、パウロがたどり着いた結論ではありません。これまで彼が話してきたことの要約ですらないのです。むしろ、彼はなぜ誇ることが除外されているのかを説明しているのです。なぜ誇ることが除外されているのでしょう?人間は信仰によって義と認められます。

 

(ローマ3:29)「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。」

 

 言い換えれば、神さまは、ユダヤ人だけの神さまでしょうか?異邦人の神さまでもないのでしょうか?ということです。そしてパウロは言います。「確かに神は、異邦人にとっても、神です。」もし律法によって義と認められるなら、神さまは確かにユダヤ人 の神さまです。もし信仰によって義と認められるなら、神さまはユダヤ人にとっても異邦人にとっても神さまなのです。 もしユダヤ人がこの立場に固執するなら、神さまがふたりおられなければなりません。ユダヤ人のためにひとり、異邦人のためにひとりです。(申命記6:4)「聞きなさい。イスラエル。【主】は私たちの神。【主】はただひとりである。」これはキリストが来られる前に、神さまが異教の世界に与えられた、明白なメッセージです。

 

(ローマ3:30)「神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。」

 

 言い換えれば、神さまはただおひとりしかいないということです。救いは、いつでも人間が信仰によってたずさえて来た、やがて来られる主イエス・キリストを指し示す、いけにえによりました。

 

(ローマ3:31)「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」

 

 「信仰」は律法の行いを除外しました。でも、信仰は旧約聖書全体の啓示を廃棄したのでしょうか?もちろんそんなことはありません!パウロは、次の章で旧約聖書のふたりの人物、アブラハムとダビデを実例として、信仰が旧約聖書全体の啓示を廃棄したのではないことを立証します。旧約聖書は、ダビデが律法を“破った”ことをとても明確にしました。それでも、神さまは彼を救われたのです。どのようにしてでしょう?

 

 神さまは信仰によって彼を救われたのです。ダビデは神さまを信頼し、神さまを信じました。自分の罪の中でも、彼は神さまに告白をしに来ました。神さまは彼を受け入れられ、信仰によって彼を救われたのです。今日、あなたや私が、私たちは罪人であるという立場を取り、神さまのもとに行って、キリストを自分の救い主として信じるなら、私たちがどのような人物であろうと、どこにいようと、どのような状態であろうと、いつであろうと、神さまは私たちを救ってくださいます。今日神さまは、人間をただひとつの基準だけに置かれます。神さまのご質問は、‘あなたのために十字架で死んだわたしの子を、あなたはどうするのか?’ということです。

 

※ 是非、引き続きブログテーマ「ローマ人への手紙」をお読みください。

 

※ 約5分の救いのためのメッセージ動画です。是非ご覧下さい。

 
    
キリストは罪人である私たちの身代わりとなられ、十字架にかかり、死んでくださり、墓に葬られ、ご復活されました。その神の御子なるお方イエス・キリストを真の神、救い主と信じ受け入れることによって、私たちの罪がゆるされ、永遠の地獄の裁きから救われます。これが罪のゆるし、死後の裁きからの救いの福音です。

 

是非お近くの方は「聖書のみことば、罪のゆるし、死後のさばきからの救いのメッセージ、福音」を聞きにお越しください! 

 

 

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このブログは下記マギー博士のラジオ番組のメッセージを引用しております。