※ブログ「サマリアの女とイエスさま」を動画にしました。是非ご覧ください。
- 【福音動画】 ~ サマリアの女とイエスさま ~ -
※ イエスキリストの十字架と復活の福音をYOUTUBE動画で見れるようにしました。
主イエス様のお力をお借りし、完成しました。是非ご覧ください。
これをご覧になった全ての方がイエス・キリストを信じ救われますように。
「ヨハネの福音書4章4-42節」
(ヨハネ4:4)「しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。」
なぜイエス様はサマリヤを通っていかなければ“ならなかった”のでしょう?特定の女性に福音を伝えるためでした。
(ヨハネ4:7)「ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは『わたしに水を飲ませてください』と言われた。」
この女性は明らかに身持ちの悪い女でした。彼女は、失礼で不道徳でした。主はこの女性にはとても優しく接せられます。何と謙遜な態度でしょう!イエスさまこそがいのちの水であられるのに、主は彼女に水を求められます。
(ヨハネ4:9)「そこで、そのサマリヤの女は言った。『あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。』──ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである──」
彼女が人種差別をしているのです。サマリヤ人はユダヤ人に何かを売ることはするが、彼らといっしょの器から飲むことはしないと言われています。イエスさまはご自分が行かれる限り一番下まで来ておられるのです。
(ヨハネ4:10)「イエスは答えて言われた。『もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。』」
イエスさまはとても巧みで同情的ですが、同時に力強く、誠実に、事実に基づいて彼女と話されます。主はただ、彼女の女性的な好奇心に訴えられます。主は、興味と渇きとを造り出されます。
(ヨハネ4:11-12)「彼女は言った。『先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。あなたは、私たちの父ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。』」
ここでの全体のポイントは、この女性は物理的な限界の中でものを考えているということです。彼女の考えは、井戸の中の水のレベル以上に高くなることはできないのです。
(ヨハネ4:13-14)「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』」
イエスさまは、ご自分がヤコブの井戸の水のことを話しておられるのではないことを明らかにされます。主はむしろ、ご覧のように(ヤコブの井戸の水といのちの水とを)対比しておられます。今日、群衆は満足を得ようとしてこの世の水たまり(酒場)に行きます。彼らは同時に、霊的なものではなく、常に肉体的な満足を求めています。でもイエスさまは、この女性の心に霊的な水に対する渇望を起こさせられました。
(ヨハネ4:15)「女はイエスに言った。『先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。』」
彼女は霊的な水に渇いているのですが、そのとき、彼女の考えはまた井戸の中に戻ってしまいます。
(ヨハネ4:16)「イエスは彼女に言われた。『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。』」
渇き、つまり必要がそこになければなりません。ですから、彼女は自分が罪人であることを認めなければなりません。そこで主は、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われるのです。これは、厄介な問題です。
(ヨハネ4:17-18)「女は答えて言った。『私には夫はありません。』イエスは言われた。『私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。』」
彼女には過去に5人の夫がありましたが、そのときにはひとりもいませんでした。彼女は男性といっしょに住んでいましたが、それは姦淫の関係でした。イエスさまのところに行くとき、主はあなたが罪を処理しなければならないと主張され、すべての秘密は明らかにされなければなりません。ここに罪人がいました。
(ヨハネ4:19-20)「女は言った。『先生。あなたは預言者だと思います。私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。』」
どこで礼拝するのでしょう?この山でしょうか?それともエルサレムでしょうか?イエスさまは、個人的な問題を避けたり、回避したりはされませんでした。もしあなたが正直な質問や疑いを持っておられるなら、主は解決を示してくださると私は信じます。
(ヨハネ4:21-22)「イエスは彼女に言われた。『わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。』」
この女性にとって重要だったことは、サマリヤ人たちが礼拝するこの山で、それともエルサレムで神さまを礼拝するべきか、、ということでした。イエスさまは、そのどちらでもない場所で主が礼拝されるときが近づいている、と彼女に言われました。
(ヨハネ4:23-24)「『しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。』」
ですから、“どこで”礼拝するかではなく、大切なのは“どのように”礼拝するかです。主は彼女にとても適切に答えられました。神さまは霊です。ここ、かしこと走り回る必要はないのです。本当の礼拝者は、霊とまことをもって主を礼拝します。
(ヨハネ4:25-26)「女はイエスに言った。『私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。』イエスは言われた。『あなたと話しているこのわたしがそれです。』」
サマリヤ人でさえも、メシヤの来られるのを待ち望んでいました。これはとても興味深いことです。今日、イエスさまの者である人たちは、キリストの再臨を信じ愛しています。今、この女性は深く興味を抱き、彼女の心の中には切望が起こっています。彼女はイエスさまのおられるところに自分自身を見つけました。「あなたと話しているこのわたしがそれです!」
(ヨハネ4:40-41)「そこで、サマリヤ人たちはイエスのところに来たとき、自分たちのところに滞在してくださるように願った。そこでイエスは二日間そこに滞在された。そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。」
ここには何とすばらしいことが書かれていることでしょう。彼らは生ける水のところに来てその水を飲んだのです。彼らの唯一の条件は、渇くことでした。自分が罪人であることを知るまでは、渇きが分かりません。
(ヨハネ7:37)「・・・『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。』
いのちの水は、「だれでも」のためなのです。唯一の条件は渇いていることです。サマリヤ人の多くは主のところに来てこの水を飲みました。サマリヤの女性の証しによって多くの人たちがキリストのもとに来たように、今日、多くの人たちが誰かほかの人の影響によってキリストを知るように導かれます。
事実、ひとつの人生が他の人々の人生に、またひとつの人格がもうひとつの人格に与える影響が、しばしば人々をキリストに導きます。すばらしい両親、あるいは片親がいて、その親の影響でキリストを信じる若者たちもいます。
キリストのためにほかの人の影響を経験するのはすばらしいことですが、そこにとどまっていてはいけません!その人が、キリストとの個人的な関係を持つように、見定めてください。サマリヤ人たちは言いました。
(ヨハネ4:42):「そして彼らはその女に言った。『もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。』」
※ 是非、引き続きブログテーマ「神の恵みの福音」をお読みください。
神の御子イエス・キリストは、罪深い人間の身代わりに、十字架で死なれ、死の力を打ち破ってご復活されたまことの神、救い主なる御方です。
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