私が満州を知った日
子供の頃、終戦日が近づくと、テレビは広島や長崎の原爆被害や都市への空襲に焦点を当てて報じていました。当時9歳の私は祖母に「空襲は怖かった?」と質問したところ、祖母は「満州にいた」と答えました。そこで初めて「満州」という言葉を知りました。
当時の私はテレビや新聞、さらには教科書にも登場しない「満州」、子供ながらも大きな疑問を感じていました。何故これほどまでに沈黙していたのか、祖母も語らなかったのか、その理由を探る必要があると感じていました。
時は流れ、2019年のコロナ禍を経て、SNSを通じて満州に関する記事が目につくようになりました。それまでずっと忘れていた祖母の言葉が、遠い記憶から呼び出されたような感覚でした。これを機に、私のルーツと歴史の真実を求める旅がはじまります。
戸籍謄本の取得から過去を探る
令和6年3月1日から戸籍謄本の取得方法が変わりました。以前は本籍地がある市町村へ直接行くか、郵送で申請する必要がありました。私は遠方に住んでいたため、現地に行くのが億劫で行動出来ずにいました。
しかし、法改正により、近くの役場で戸籍謄本を取得できるようになりました。このタイミングで地元の役場へ向かいました。目的は、自分の戸籍謄本を始め、親や祖父母の戸籍謄本を遡って取得すること。祖母がかつて満州にいたこと、どの開拓団にいたのか、どのようなルートで引き揚げたのかを知りたかったためです。
職員に理由を聞かれましたので、私は正直に答えました。私と同じように過去を調べている人が他にもいるか尋ねたところ、業者の方が多いとの答えが返ってきました。
祖父母の戸籍謄本は手書きで、昔の漢字表記に慣れるのは一苦労しました。しかし、慣れてくればば、読み解くことができます!さらに驚きがありました。戸籍には1800年代の江戸時代生まれの祖父母の祖母の名前がありました。これは驚きました。
戸籍法は国民を把握するため、または徴兵制度のために導入されたと私は思っています。この戸籍のおかげで1800年代の先祖について知ることができ、家族の一端を垣間見ることができました。
この戸籍を手がかりに、祖父母の本籍地に関することを調べている中で、国会議員の小渕優子さんのブログにたどり着きました。そこで「長野原町にある甘楽地区」という言葉に反応し、群馬県から満州に移民した歴史に触れ、次は満蒙開拓平和記念館に行くことにしました。
満蒙開拓平和記念館で歴史に触れる
Googleマップで計画を立てていたところ、電車での移動時間が片道10時間と出たため、自家用車で行くことに決めました。実際の運転時間は約4時間。その日は天気も良く、道中の山々がきれいで、景色を楽しむことができました。
目的地の記念館に到着しました。
館内を見学後、「満蒙開拓の真実」というビデオを鑑賞しました。このビデオには開拓団の当時の映像が含まれております。
事前にメールで問い合わせていたこともあり、職員の方が群馬県に関する資料を事前に用意してくれていたため、すぐに詳細を確認することができました。
資料によると、群馬県甘楽郡からは以下の開拓団が入植していました。
・第九次九道溝開拓団(入植:昭和15年2月18日)
・第十三次月形開拓団(入植:昭和18年11月16日)
・群馬報国農場(入植:昭和19年3月28日)
・第十四次甘楽郷開拓団(入植:昭和20年3月18日)
これらの開拓団の総人口は、昭和20年8月15日当時で約130世帯、約600名でした。
引揚の状況は昭和21年9月22日と昭和28年5月10日に行われ、亡くなった人数は約120名との記録がありました。
さらなる情報を求めて、群馬県拓友協会への問い合わせを勧められました。
✨「満蒙記念館 図解」という資料を購入しました。この書籍は記念館のホームページからも購入可能です。
✨「マンガ ぼくの満州 上下巻 森田拳次」に興味をもち、Yahooのebookjapanで電子書籍として購入しました。価格は330円でした。
満蒙開拓平和記念館の滞在時間は4時間、時間はあっという間でした。 私のように、祖母から直接満州についての話を聞いたり、戸籍に「満州国」と記載されていることを発見した人々が、この記念館に足を運ぶことが多いとのことです。
館内で提供されている資料や職員との会話から、日本が国策として多くの人々を満州に送り込んだ歴史の重みを改めて感じることができました。 特に1945年8月9日に起きたソ連兵の侵攻による事態の急変は老人、女性、子供たちを逃避行へと追い込み、多くの女性が性被害にあい、一般市民も収容所に送られるという過酷な状況に直面しました。 祖母がかつて語った「男性の服装をして顔に泥を塗る」という行動は性被害から身を守るための対策だったことが明らかになりました。
また、長い間このような真実をテレビや新聞が報道しなかったこと、改めて疑問を感じずにはいられません。
温泉へGO
日帰りで帰宅するのはしんどいかなと感じ、♨️湯元 久米川温泉(長野県飯田市久米646-1)に一泊しました。
この温泉は湯も清潔で、夕食後も朝食前にも温泉に浸かりました。夕食も朝食も美味しく、お腹いっぱいになりました。
夕食
朝食
住民票を求めて再び役場へ
戸籍だけでは情報が不足していると感じ、故人の住民票を取得する目的で再び役場を訪れました。窓口の職員さんから「平成26年以前の住民票の保管期間は5年です」との説明を受け、「すでに破棄されています」と告げられました。100年以上前の人の戸籍が残っていたので、もしかすると住民票は残っているかもしれないと期待していたのですが、残念ながらの結果になりました。
群馬県拓友協会からの新たな発見
満蒙開拓平和記念館の職員の勧めにより、群馬県拓友協会に問い合わせをしました。
以下の情報を得ました。
- 引き揚げ時に亡くなった方々の名簿が存在するとのことでしたが、生き残った人々の名簿は残っていないとの回答でした。
- 群馬県の図書館には「甘楽郷開拓誌 昭和51年」という本が存在するとの情報を得ました。
- さらに関連資料の写しを郵送で受け取ることができました。
時が経つにつれて、戦争の経験者が亡くなっています。これらの事実が風化する前にもっと早く行動を起こすべきだったと痛感しました。次の手がかりは、甘楽郷開拓誌です。
南牧村民俗資料館へ訪問
叔母の父が戦死したという記録を探るため、戸籍の本籍地を辿り、南牧村民俗資料館へ行ってみることにしました。この資料館はあるブログを通じて知りました。ブログによれば、館内には戦没者名簿が保管されており、そこに叔母の父の名前が記載されている可能性があります。開館日が金曜と土曜に限られているため、計画を立て、週末に出かけることにしました。
道中、「道の駅 しもにた」で休憩し、コロッケを味わいながらドライブを楽しみ、南牧村民俗資料館に到着しました。入館料がなんと0円でした。 建物は3階建てで、トイレは仮設でした。館内はそれなりに整備されており、結露による湿気で床が滑りやすい状態になっているとの注意書きがありました。
石碑によると、明治6年に開校した小学校との事。
戦没者名簿に叔母の父の名前がありました。戦死した日付が戸籍情報と一致しました。叔母の父の過去が少し明らかになりました。
そして、次々に資料を見ていくと九道溝開拓団と月形開拓団と甘楽郷開拓団の集合写真を見ることができました。顔写真を見ても、祖母の顔は分かりませんでした。
資料館の周辺付近を散策してみました。
バス停がありました。
圧勝の小選挙地区
帰りに「道の駅 オアシスなんもく」に立ち寄りました。お腹が空いていたので山菜うどんを食べていきました。
群馬県立図書館での貴重な発見
群馬県拓友協会の担当者の方のおかげで、「甘楽郷開拓誌」の存在を知り、早速、群馬県立図書館に行くことにしました。検索したところ、館内でのみ閲覧可能であることが分かりした。
図書館に到着すると、職員さんに依頼し、持ってきてもらいました。見た瞬間、宝物を見つけた気持ちになりました。気が付けば2時間が経過しており、本に没頭していました。
昭和51年、戦後30年を経て、開拓団関係者たちは一冊の書籍を作成しました。それが甘楽郷開拓誌です。各家庭の思い出と体験を集め、それを忘れることなく後世に伝えるためとして作られた本です。
じっくりとこの本を読みたい方は、群馬県内の複数の図書館で閲覧可能です。詳細に記録されていますので、当時の様子がよく分かります。
以前に聞いた話を少々混ぜて、本の内容をざっくりとまとめてみました。
まとめたものを簡略化
関東大震災の頃より不況が始まり、昭和に入っても不況は益々厳しくなりました。満州事変後に満州国建国。日本の国策として満蒙開拓を推進し、「良い暮らしが出来る」という期待から、甘楽郡西部の下仁田町や周辺の村から多くの住民が開拓団員として満州に渡ります。
昭和14年4月 約30名の先遣隊が出発
広大な平原に向かい、新しい村を建設。はじめての冬は非常に厳しく、寒さに耐える日々が続きます。その条件の中で、一部の人たちは続けていくのが困難になりました。
昭和15年2月 九道溝開拓団の入植がはじまる。
現地での生活は厳しく、多くの団員が脱落しました。残った人たちでそれぞれの特技を活かして異なる分野で働き続けます。
戦争が激化する中でも、開拓団は建設と農耕の準備を進めていました。しかし、昭和20年8月20日に敗戦を知り、その後は賊やソ連兵の襲撃に悩まされました。最終的には、必要最低限のものを残し、多くの財産を現地の住民に配布することで襲撃を避けました。
昭和21年8月末には帰国が始まりましたが、途中で多くの困難に直面しました。列車での移動中には物資を奪われたり、体調を崩して亡くなる人もいました。それでも昭和21年10月には博多に到着し、多くの人たちが故郷に帰ることができました。
名簿を確認したところ、祖母の名前は見つかりませんでした。後に分かったのですが、祖父母は昭和30年代に県外へ引っ越ししていたことが判明し、書籍の作成には関わっていなかったのです。
書籍には開拓団団員だけでなく、当時の学校職員や診療所の医師と看護婦なども記載されていました。総人数は600人となっていますが、開拓団全員の名前は記載されているわけではありません。
引き揚げルートをGoogleマップでおおよその位置で作ってみました(九道溝から葫蘆島まで約1000㎞)
帰国するのに約2か月かかったと記されています。
特に収容所の状況です。収容所にはトイレがなく、開拓団員たちは自らトイレを作らなければならなかったと記録されています。基本的な設備もなく、想像を絶するほど厳しいものであったに違いありません。
九道溝の場所は多分ここ付近だと思います。
群馬県拓友協会の記録から
拓友協会の資料によると、約12名の元九道溝開拓団メンバーが「九道溝会」を結成し、2001年9月3日から4泊5日の日程で九道溝開拓団跡地に訪れています。この訪問は、亡き開拓民の除霊を兼ねたものを目的として行われています。
この書籍は群馬県立図書館の館内でのみ閲覧可能です。「甘楽郷開拓誌」と「希望に満ちた満蒙開拓と終戦」のセットで見ることをおすすめいたします。
厚生労働省に祖父の軍歴照会を申請
祖父の軍歴を調べるための準備をします。
📁 親族の軍歴照会に必要な書類
- 身元確認書類(依頼者の氏名及び住所が記載された運転免許証又は健康保険証等のコピー)
- 戸籍書類
- 遺族関係が確認できる戸籍(婚姻等による改姓が確認できるものを含む)
- 死亡年月日(戦没年月日)が確認できる戸籍(除籍)
- 住民票(開示申請する日前30日以内に作成された依頼者の住民票)
これらの書類を用意し、申請書に記入しました。郵便局から郵送しましたが、最近では電子決済が可能になり、非常に便利になりました。
群馬県庁への問い合わせ
厚生労働省から連絡があり、開拓団のことを調べるなら群馬県庁に問い合わせることを勧められました。電話で問い合わせを行ったところ、当日及び翌日に連絡があり、祖父の軍歴を確認することができました。さらに、祖父が開拓団にいたことも判明し、入植日時と引揚日時を知ることができました。 これにより、祖母が甘楽郷開拓誌に記録されている開拓団にいたことが実証されました。ここまで多くの回り道をしましたが、その過程で様々な情報を得ることができ、本当に良かったと思います。
必要な書類を用意し、申請書と共に郵便局から郵送しました。 後日、群馬県庁から当時の書類のコピーが届きました。その名簿には祖母の名前が載っており、祖父と共に日本に戻ってきたことが確認できました。
家系図を作ってみた
楽天市場でソースネクストの家系図作成ソフト「つくれる家系図3」が限定セールで1980円で販売されていたので購入しました。戸籍謄本も集めていたので、これを機に自分のルーツを知るために家系図を作成することにしました。自分の先祖を知る良い機会となりました。
まとめ
子供の頃、祖母が「戦時中は日本ではなく満州にいた」と話したことが、私の自分探しの旅の出発点となりました。この旅は納得のいく形で終わりを迎えました。開拓団に祖母がいたことは特定でき、甘楽郷開拓誌を通じて、その時代の人々の引き揚げがいかに大変だったのか、深く理解することができました。
そして感じたのは、戦争がなければ祖母は再婚することもなく、私の父も叔父も、私もこの世に存在していなかったかもしれません。不思議な感情もありますが、違う世界線での私の存在を想像するのは考えないことにします。
このブログが、同じように過去を追求している誰かの役に立てれば幸いです。

















