パ:ということは、苦しいですね。非常に厳しい状況にやっぱり伊予のほうも追い込まれてきていたということが言えるわけですよね。

 

野:苦しいですよね。なんせ大義名分がないわけですから。

もう一条様のとかそんなこと言ったって自ら一条氏をもう追放しているわけですからね。ですから信長と破綻した天正8年から本能寺で亡くなるまでの天正10年ですか、このあたりは阿波、讃岐だけでなく伊予方面の作戦も膠着状態にならざるをえなかったんですが、信長がいなくなり、天下の趨勢が非常にあやふやになってくると伊予での軍事行動を再開でくるし、そのときの口実、大義名分は秀吉が四国に攻めてくる。じゃあ秀吉からですね、四国の秩序はやはり四国の武士たちで、自分たちの同盟関係をもっと強固にすることによって守っていこうというそういう呼びかけに変わってくるわけなんです。

 

パ:はい。つまり以前土佐から出る際には土佐一国から土佐は一つと一致団結で外に目を向けてと。次はこれが規模が大きくなりますので、今度四国を一つとして、四国に対して侵略してくる者にみんなで立ち向かわねばいけないんだという、その大義を次から次へと展開していくということになったわけですね。

 

野:強大な敵は外にいるんだと。秀吉こそが四国に仇なす最も成敗しなければならない人間なんだという視点で自らの侵攻をうやむやにすると言ったらあれですが、自分の軍事力というものは外から四国に仇なす敵に対してのものだと考えてくださいと形での大義名分ですよね。まあほとんどこじつけに近いものはありますが、それによって自分の占領してきたエリアを他国の武将たちの引き締めをはかると同時になんとか四国平定が完了するためにそういったもので努力していくとそういうわけなんですね。

 

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