パ:伊予は大義名分が立てられにくい地域。つまり長宗我部元親が伊予へ向けて進軍するという理由がないわけですね。なかったんですね。

 

野:そうですね。まっ、ないと言い切ってしまうとあれなんですが、あの伊予には守護が複数いるわけです。

これが阿波、讃岐と違うところでしてね。分郡守護体制という非常に特殊な体制を古い時代からとっておりますから、

東予、東伊予ですね。新居浜のほうには細川氏の息のかかったエリアが少しだけあるんですが、それ以外の道後温泉のあたり、中予と言います。中伊予ですね、中部伊予には河野氏という細川氏ともともと非常に敵対関係だった有力者がいるわけです。

それから南予のほうには宇都宮・西園寺なんていうそれぞれの守護がいるもんですから、

かつて元親が四国攻めの最初に根拠とした「細川氏の禄を食んだ配下のもので、裏切り者を倒しましょうという理屈は伊予ではまったく通用しないわけですね。

 

パ:では元親、ちょっと伊予攻めの話をもう少し伺いますけれども、元親、伊予侵攻にあたっては、どのような、その大義名分でもって伊予に進んでいこうとしたんでしょうかね。

 

野:はい。え~、東予に細川氏の息のかかったエリアがあると申し上げました。

まずそこにいる主立った武将たちを根こそぎ同盟関係により味方につけます。

彼らはもともとお隣の中部伊予、河野氏と仲が悪いですから、元親の軍事力が後ろ盾につくということは、彼らにとって利になるわけです。

さらによく考えてみますと、東予の隣は西讃岐ですよね。

西讃岐には自分のかわいい香川五郎次郎という自分の次男を養子にやってるわけです。

そこを安定化させるためには国境を接します東部伊予が安定していないと困るわけです。

ですからいろいろな条件を提示してまず東予を、ここを安定化させ、同盟につけることはそんなに難しいことじゃありませんでした。

 

一方、南予ですね。ここは西園寺という非常に強大な軍事力を持った元親の思い通りにならない強敵がいます。

そしてこの西園寺氏の領地というものが土佐で言いますと、幡多郡はもともと誰の領地であったか。それは土佐一条氏ですよね。

ですから元親は土佐一条氏の、一条兼定の忘れ形見、一条内政を大津城に置き、それび自分の娘を嫁がせて、大津御所と称して大事に、掌中の珠として確保してきたわけです。

ですから一条内政が元親のもとにいた時には一条様の、一条公の本来持ち分である幡多郡をお守りするために南予を安定化させるという大義名分が効いていたんですが、ご承知のように天正8年に波川玄蕃というね、裏切りにあったという話をこないだしました。

この波川玄蕃になんと一条内政、連なっていたという証拠が出てきてしまったために、一条内政はもう追放処分になっていますから、結局南予侵攻の口実はもうなくなっているわけです。

 

FM高知様「長宗我部元親 on the history」はこちら

 

伊予攻めのときはまだ一条兼定公はご存命のはずなので、忘れ形見という表現は?ですが、

そのままの表現としています。

また御所体制については賛否両論ありますが、放送のまま文字起こししております。