織田家中での明智光秀の失脚、羽柴秀吉と三好氏の連携。さらには長宗我部家中での謀反と、最悪の事態を迎えた元親に対し、信長は、阿波・讃岐を差し出して土佐に戻るよう命じるが、元親はこれを拒否。織田信長は四国征伐の軍勢を組織するが、天正10年6月2日、京の都で「大事件」が勃発する。(本能寺の変)

 

四国平定戦を進める元親の前に、ついに織田信長が立ちはだかります。

 

野本:それを見透かすかのように天正9年、実は信長が次の一手に打って出ます。使者を送り、今すぐ戦闘行動を停止して、自分が指定するエリアからすべて兵を引けと。ここで自分の言うことを聞かなければ四国征伐の軍を起こすという事を使者を通じて厳命したわけです

 

パ:もう四国征伐というよりも長宗我部征伐ですものね。直接的には。その手を引けというエリア、いったい信長はどこに線を引いてきたんでしょうか。

 

野本:もちろん讃岐・阿波ですね。今すぐ自分のいう事を聞けば、阿波の内のいくつかの郡だけは認めてやると、つまり土佐プラス阿波の何郡かで我慢しろと。お前はもうそれでいいじゃろう。まあ勝手な言い分ですよね。これに関しては元親も当然カチンとくるわけですが、明智に命じて選ばれて来た使者というのが実は石谷兵部少輔、元親の正室のまさに関係の最も深い人を土佐に送るように、明智光秀の命令でした。元親が断りにくいだろうという事を読んでの事でしょうが、元親には元親の考え方があり、たとえ正室の最も大事な人物であったとしても、それはのめなかったわけです。それによって元親は信長からみて反逆者、もう関係はない、四国の極悪非道の謀反人という事になりますし、明智・石谷もメンツを丸つぶれの状態にされたという事で、織田家中での存在感はさらに低下するという事になり、明智の首を絞めることにもなり、明智をそろそろ見限ろうとしていた信長からすれば、それでいいと信長の恐ろしい一面が見えるエピソードであります。

 

パ:はい。となりますと当然その条件はのめないという長宗我部元親ですから、のめなければ次に織田信長が送ってくるのは軍勢そのものですよね。

 

野本:当然信長軍と相まみえるという決断をしなくてはいけなくなり、実際天正10年、織田信長は四国征伐の軍を催し、大軍を阿波から上陸させることになるわけです。もう後戻りできません。当然正室の実家も、これは明智光秀の家臣なのですが、信長との関係も悪くなる。もうこれは対決するしかなかったわけなのですよね。

 

パ:はい。

 

野本:ただ、当時はですね、讃岐それから阿波に多くの兵を派遣している、それから伊予にもですね、元親は兵を派遣している。3方面同時作戦をやっていますから、この信長の軍事侵攻に対しまして、一気にシフトを敷くという事は出来ないんですね。ですからやはり信長軍のほうが圧倒的に有利でして、警戒はしていたんですが、結局は阿波に攻め込んでくるわけです。

 

パ:はい。もう長宗我部元親、天正8年、天正9年、天正10年、まさに最大の危機を迎えておりますけれども、どうなったんでしょうか。

 

野本:やはり予想した通り、降伏してあるいは同盟関係を結んだ阿波の侍衆の多くは信長軍が攻めてきますと、我先にと信長方に寝返っていきます。こうなりますと阿波に駐屯していた土佐軍は、もう抵抗しようにもですね、周り一気に敵だらけになってしまいますので、もう後退に後退を重ねていって、このままでは総崩れになるかもしれないというピンチを迎えるのです。

 

パ:はい。しかしですね信長の四国攻めは、ある大きな出来事によって、まあ止まるという事になるのですけれども、これは野本さん、皆さんも一度は聞いたことがあるでしょうという大事件が勃発するんですよね。

 

 

FM高知様「長宗我部元親 on the history」第22回はこちら


補足

放送当時は石谷家文書の議論はまだなく、また放送でも明智光秀と表現されているため、そのままとしています。