「ねえ、人生ってなんなんだろうね」
ある日、そんな言葉をふと口にした人がいました。
私は少し笑いながら、こう返しました。
「それ、答えが出ない質問ランキング1位ですね」
するとその人も笑いながら、
「やっぱりそうですよね。でも、考えちゃうんです」
と続けました。
人生とは何か。死とは何か。
これは昔から、ずっと人が考え続けてきた問いです。
そして面白いことに、
どれだけ時代が進んでも、
はっきりした答えは出ていません。
お釈迦様も、この問いに対しては
はっきりとした説明をされませんでした。
これを仏教では「無記(むき)」と言います。
「え?答えないんですか?」
と、その人は少し驚いた顔をしました。
「はい、答えないんです」
私はうなずきながら言いました。
「じゃあ、意味ないじゃないですか」と少し不満そうに言われたので、
私はこう聞き返しました。
「もし死後の世界はこうですって断言されたら、どうします?」
その人は少し考えて、
「…それを信じるか、疑うかでまた悩みそうですね」
と言いました。
「そうなんです」
私は笑いながら続けました。
「結局、答えを聞いても、人はまた悩むんです」
仏教はそこをよく見ています。
だからこそ、
「答えの出ないことにとらわれるより、今どう生きるかを大切にしなさい」
と教えているのです。
「でも、死って怖いですよね」
その人は静かに言いました。
「そうですね、怖いですね」
私は正直に答えました。
「私も怖いです」
するとその人は少し驚いて、
「和尚さんでも怖いんですか?」
と聞きました。
「もちろんです」
私は笑いました。
「ただ、少しだけ見方が違うかもしれません」
「どういうことですか?」
「死を終わりとして見ると怖くなります」
「でも、変化として見ると、少し感じ方が変わります」
その人は静かに聞いていました。
「私たちは毎日、少しずつ変わっていますよね」
「昨日の自分と、今日の自分は同じようで違う」
「子どもの頃の自分は、もうどこにもいない」
「確かに…」
「それでも、自分は続いていると感じている」
「死も、もしかしたらその延長かもしれません」
もちろん、これが正解だとは言いません。
でも、
「どう捉えるか」で、恐れの大きさは変わります。
「なるほど…」
その人は少し肩の力が抜けたようでした。
「じゃあ、人生って何なんですか?」
また最初の問いに戻ってきました。
私は少し考えて、こう答えました。
「人生は、問い続けることかもしれません」
「答えを出すことではなく、問いながら生きること」
「嬉しいことがあれば、
なぜ嬉しいんだろうと感じる」
「苦しいことがあれば、
なぜ苦しいんだろうと見つめる」
「その積み重ねが、人生なんだと思います」
その人はしばらく黙って、
「なんか、少し楽になりました」
と笑いました。
「よかったです」
「人生の意味がわからなくても、
今日を生きることはできます」
「むしろ、意味がわからないからこそ、
自由に生きられるのかもしれません」
帰り際、その人はこう言いました。
「また考えすぎたら来ますね」
「いつでもどうぞ」
私はそう言って見送りました。
人生とは何か。
死とは何か。
その答えは、きっと一つではありません。
でも、
問い続けること
感じ続けること
そして、今日を生きること
それだけで、
人生は少しずつ、やわらかくなっていきます。
もし今、
答えが出ないことで苦しんでいるなら、
その問いを、無理に終わらせなくても大丈夫です。
そのまま抱えながらでも、
人はちゃんと生きていけます。
そして気づけば、
その問いが、
あなた自身の人生を、
静かに深めてくれているかもしれません。
今日も、お疲れさまでした。