前回の続きを書きます。

(アスペルガーの友人が「もう普通の人として生きていくの嫌だ・・・」と言っていたお話の続き)

 

 

ここ1年ほどカウンセリングに通っていて、

ものすごく感じてることが、

「話を聞いてもらえる」という安心感です。

(カウンセラーさんって「気づかせ屋さん」だと思ってるんですが、

腕のいいカウンセラーさんって話を聞くだけで、

相談者の悩みに自ら気づかせて解決させてしまうらしいですね!(スギョ!))

 

 

例の私のアスペルガーの友人が聞き上手なのって、

むしろアスペルガーであるためにソーシャルトレーニングを徹底したからこそ、

定型発達の人以上にコミュニケーション上手になれたのかもしれないと思っています。

(学習能力の凄さはピカイチだろうし)

(これは私の憶測の話だから別に事実ではないけれど)

 

ほんと誰かが話を聞いてほしい・・・ってなってる時は、

本当に聞くだけの方がいいんだなぁって感じてて。

悩んでる人の立場に立って聞く、とか、そういう姿勢は大事だけど、

どうしたって本人にはなりきれないし、それで別にいいんだけど、

アドバイスしたり、私ならこうするとか言ってみたり、

辛いのはあなただけじゃないよ、とかさ。

 

なんか私は「えー・・・・」ってなることが多いです。

そんな感じのこと言われて「そっか、そうよね!」って切り替えられる人、

ほんとにそれでいいんですかー!って聞きたい(余計なお世話)

 

 

(内容にもよるか)

 

 

 

だから、彼女の「そうそう」が技術的に放り込まれてたことかも?

と気づいた時も、すごいありがたいなって思ったんです。

そんな風に話を聞いてくれて、ありがとうって。

(その時間の間、完璧に私のために彼女が存在してくれたことに変わりはないし。)

(いや、彼女は内容もしっかり把握してくれます。そして優しく理解を示してくれる。)

 

 

 

そして「もう普通の人として生きるの疲れた・・・」と彼女が漏らした時に

はっ・・・と思ったんです。

 

 

彼女はソーシャルトレーニングを受けた分、

今までコミュニケーションで困ることは実際ほとんどなかったと言いますが、

その分彼女の過ごしやすいコミュニケーション?はずっと封印されてきたのか?と。

自分のままで人と関わることができなかったのでは?と。

 

 

余計なお世話かもしれないけどね。

 

 

もしそうであるなら、それは人と関わるということ自体が、

自分自身の否定に繋がってしまっていたのでは・・・

と思ってしまったのです。

 

考えすぎかな・・・

 

 

 

私自身、ずっと他人軸で生きてきて、

(他人軸で生きてるということにも気づいてなかったけど)

いつも自分のことは(それどころじゃねぇ!)と、気に留めることができなくて、

いつもなんかしんどくて、

体調わるくて、

楽しいことが少なくて、

人生がほとんど曇りみたいな・・・

おっと、個人的愚痴が炸裂しそうです。

 

 

なんか最近すごい苦戦してるのが。

自分の感覚がわからない。ということ。

自分にとっての判断基準がわからないんですよね。

だから何かを選ぶのが、いつも誰かの正解を追おうとする。

しかも自分にうまくフィットしないから、心地よくもない。

でも自分がわからない。

 

 

なんのために生きてるんだろう。。。

 

 

気分が沈んだ時なんかはそんなふうに絶望してしまうことも少なくないんですが。

(なんか体は確かにあるけど、私の濃度なんてうすうすで空気に混ざって消え入りそう・・・)

 

それって自分が幼い頃に

「自分で選んだらダメだ!他人軸で生きないと!自分で選んだら否定される!傷つく!」

みたいに、言葉にしてはないだろうけど、

そんな風に「自分のままではダメ」って決めてしまったからなんじゃないかなぁって思ってて。

 

 

それが彼女のソーシャルトレーニングの話とリンクしたんです。

 

 

彼女のことを想ってトレーニングをした家族は間違いではないだろうし、

事実、彼女はコミュニケーションで悩むことはない人生だったと言うし。

 

それでも、本当の自分の気持ち

(なんでこう言わなきゃならないの?私はこう言いたいのに)

みたいなさ、そんな疑問と共に押し込めた「自分のまま」の気持ちは

たくさんあるんじゃないかなぁ。

 

 

って!!!!!

 

 

 

ほんと勝手な私の妄想なんですけどね!!!!!

 

 

 

趣味も年齢も価値観も

何も符合しない私たちが

10年以上、ベチョベチョらぶらぶカップルみたいに仲良いのって、

やっぱそういう深いところの傷が呼応するんじゃないかなぁって思います。

 

 

(共依存って言われたら嫌だけど(泣))

 

 

 

(いつまで彼女の話するかわからないけど、今日はここまでにします〜。

 最後まで読んでくださった方、ありがとうございます・・・オチもなくてなんだか・・)

 

 

 

「俺か、俺以外か。」

 

 

痺れる。

そうローランド様である。

素敵である。

Kindle Unlimitedに彼の著書があったので、

何の気なしに読んでみたら、惚れた。

哲学が素敵すぎなのである。

惚れた勢いで彼のYouTubeを覗いてみた。

モーニングルーティン。

歯を磨いていた。

なんか悲しかった。

いつだってサングラス金髪縦巻きロールでいて欲しいんだ。

求めすぎである。

 

 

 

「もう普通の人として生きるの疲れた・・・」

 

これは私の愛する友人が愚痴電話の最後に漏らした一言です。(話急に変えすぎ)

なんかすごく、私の中に残ったんです。

 

 

彼女は小学生ごろにアスペルガーと診断を受けました。

あの時代にしては早めに見つかった方なのではないでしょうか?

彼女は幼い頃から家族からソーシャルトレーニングを受けたそうで、

(自分の話をした後は相手のことも聞く、などコミュニケーショントレーニング)

そのためか、出会った当初は彼女のコミュニケーションの取り方に

違和感など覚えることはありませんでした。

 

 

むしろ私にとって、彼女のコミュニケーションは、

多くの私の苦手とする「一般的」より、

もっともっと親和的で優しく、心地よいものでした。

すっごい聞き上手で、すっごい聞いてくれる。

 

仲が良くなるにつれて私が惹かれていったのは、

私のいつも考えてるようなことを同じくらい、もしくはそれ以上に考えていて、

同じ方向を見据えて答えを出してる、ということ。

親や職場仲間に話しても全然伝わらないものが、

ツーカーである。あれ?ツーカーであってるかな?

 

まぁとにかく、すごい伝わるのである。

 

「大丈夫、わかってる。」

 

 

彼女と話すといつもこんな安心感を与えてもらえる。

(ちなみに上のセリフはBUMP OF CHICKENの「話がしたいよ」の歌詞より。

泣ける。大好き。)

とにかくウマがあったのである。

 

親友といっても年に1回2回会える程度になってしまった最近では、

いつも別れ際に私の号泣が始まる。

そんな時も彼女は

「うんうん、大丈夫、〇〇大好きでちゅよ、大好き大好き。ずーっと一緒だよ。うんうん、大丈夫。ちゅ〜♡」

と私を抱きしめてくれる。赤ちゃん言葉である。

私は安心するが、大体駅の改札で繰り広げられるので、人々の視線は冷たい。

 

 

 

出会った当初からアスペルガーであるということは聞いていたが、

私にとって、初めてのアスペルガーは彼女であった。

アスペルガーってこういう人なんだ、という認識をさせた人。

出会ってすぐに打ち解けたため

私はそれ以上アスペルガーに対して考えることはなかった。(ゲシュ・・・)

 

 

私が困惑と共に次にアスペルガーに辿り着いたのは、

旦那との生活の中だった。

 

私が旦那に感じていたことは、やはりコミュニケーションでの違和感だった。

(とはいえ、私がそうじゃないかなぁ?と思ってるだけで、未診断です)

 

え、でもあの子もアスペルガーって言ってたよね?

 

私が知っていくアスペルガーの特徴と、

私の知っている彼女の特徴は、

全然交差しなかった。

(旦那は完全一致)

 

しかし、時間の経過と共に、

自分が知れる情報をいろんな角度から考えたりなんだりしていくうちに、

彼女とのコミュニケーションで気づくことがあった。

 

彼女はとにかくよく相槌を打つ。

「そうそう」「そう」「そうそうそう」

これ、一緒に話をしてると、とっても心地いいのである。

自分の言うことを「そうそう」と肯定してもらえることはとても嬉しい。

しかし、お酒の席や彼女が精神的に参ってる時、

あらゆるタイミングで「そうそう」が入ってくるのである。

そう、「そうそう」が入らないタイミングで、でもである。

 

その時に思ったのである。

「ああ、これは彼女のソーシャルトレーニングの賜物なんだな」と。

 

彼女の家族が、彼女がコミュニケーションで人との関わり合いで困らないようにと、

幼い頃から教えてきたんだろう。

 

 

 

(何回かに分けて書来ます〜、続きは後ほど〜)

 

 

 

 

最近気づいたことがある。

 

日本語の文章にアルファベットや数字が入ると理解が格段と遅くなること。

 

 

小説でも実用書でもそうなんだけど、

縦書きで読んでて、

急に外国名とかがアルファベットで縦書きに縦表記されて出たりすると、

急に頭が真っ白になる。いっつも。

 

と気づいた時に思った。

 

 

私が理数系が全くダメだったのはこれが理由ではないか。

 

 

算数の時代だけど、皆さんの時代にもあったと思う。

 

太郎くんが学校に時速何ちゃらで進んでて、

忘れ物に気づいたお父さんが自転車で時速何ちゃらで届けに走って、

それが太郎くんが出発してから何分後だから、

お父ちゃんが太郎くんに迫るのはいつですか?

 

みたいな問題。あったでしょ。

わかるはずがないじゃないか。

 

 

わかる必要ある?

っていうかお父さん優しいな。仕事はしてへんのかな?

うちやったら届けに走るのはおかんやな。

でもおかんは車で来ると思うから道違うなぁ。

おかんが届けに走ってくるの友達に見られたら恥ずいなぁ・・・・

はぁあ、もう先生何言ってはるんやろう。

どこのこと話してる?

あ、金木犀の匂いがする。

 

 

常にこんな調子だった。

私の中で学校の勉強を解ろうと努力していたのは、

本当に小学1年生までだったと思う。

勉強というものに興味が持てて、自分から進んで理解したいと思ったのは。

 

 

とにかくわからなかった。面白くなかった。

わからなすぎて分かりたくないという気持ちが大きくなりすぎた。

 

どこかの坊さんが言ってたけど、

子供は楽しいことは自ら進んで近づいていくって。

教育って教えるというよりいかに興味を持たせて気づかせるだよね〜

(1年で諦めた脳なのに偉そうにすいません。)

 

 

わからなかった。なぜみんなは勉強だるい、嫌い、かったるい、

と言いつつ、それなりの結果を出していくのか。

私はそんなこと口に出していうことはなかったのに、

結果はだせなかった。

 

ん。主題からずれてる?

 

 

 

そう、だから理科とかもっとダメだった。

日本語の文章に数字やらエックスやらシワシワの豆の写真やら。

どこもかしこも個別に俺を俺をと主張してきて。

諦めてしまうのだ。理解を。

 

 

 

多くのこういうとっ散らかってる系の人物あるあるかもしれないけど、

やっぱり私の得意分野は音楽と美術だけだった。ダントツだった。

他は目も当てられない。体育なんて跳び箱1段も跳べなかった。

 

そういえば体育で思い出したけど。

昔、小学校の体育の授業でリレーをチーム戦でやって、

足の遅い私のせいで負けてしまった時に、

同じチームのちっこいすばしっこい(ねずみみたいな)男の子が私に向かって

「何?お前いたの?」ってイライラしながら言ったよね。。

傷ついよねぇ・・・

(ていうかムカついたからって小学生くらいのもんがそんなこと言う?

彼の家庭環境が気になるわ。)

 

 

そんなこんなで中学の時。

他がボロクソなのに、音楽と美術の内申点の高さから、

BEATLES好きでほんのり頑張れた英語をあともう少し頑張ったら、

もう一個上の高校狙える。ってゴリおされた。先生とか親に。

 

 

狙ってどうするんだろう。

 

 

 

他人軸の私は(他人軸という意識もなかったけど)

言われるがままに英語をもう少し頑張って、

自分のレベルよりもう一個上の高校に入ってしまった。

 

入ってしまったんだ。

 

 

 

小学校、中学校の二の舞だよね。

 

別に勉強ができないことがコンプレックスではなかったけど、

学校なんて勉強するのが本質でもあるから、

やっぱりなんだかなぁだったよね。嫌なことがどこんとある。

興味はないけど、大体そのことが大半を占めてるんだもん。

 

 

 

ダラダラと何が言いたいのかなぁ。

うんと。。

 

 

 

そう。最近自分はADHDの気があるなぁって気にしてるとこなんだけど。

多分ちゃんと診断を受けたらバッチリそうですよ!って結果が出るかはわからない。

小さい頃にじっとしてられない、とか全然なかったし。

 

 

でも確実に脳の偏りはあると思う。

誰しも多少の度合いの違いとかはあれど脳の偏りってあるだろうし。

それの延長戦に価値観とか好みとか性格ができてくる気がしてるし。

 

 

今の学校がどんなふうに教育をしているの知らないけどね。

 

かつて学生だった私が振り返って思うのは・・・・

 

 

もう少し聞いて欲しかった。

私の気持ちを。

 

親からの教育も学校からの教育も

用意されるイベントも優しさもランドセルの色もみんなとうまくやるやり方も、

全て「頭ごなし」だったなぁ。

 

恵まれなかったわけじゃなくて、そういう時代だったのかな。

 

 

ジメジメしてきましたね。

 

 

 

色々思うことはあるけど、

それでもそっから今、何を感じ取って、自分に活かすかは

自分の気持ちにかかってるもんね。

 

 

強引におわろうとしてるよね。

お尻がね痛いんだ。ホールの方だよ。

 

 

 

ではではそろそろおやつの時間なのでこの辺りで。

最後まで読んでいただいて、ありがとうございます!

 

 

現状とか
起きてること、ではなくて

心の方がずっしりと

辛くなったり
悲しくなったり
苦しくなったり

それはもうわけわからないくらい
ふりきって乱れ切って

それを
ちゃんと感じること



それが本当にきっと大事なんだろう
それが大きな救いになるんだろう


って最近よく思うんだ


久しぶりにブログ書き始めて、
昔自分が書いた自己紹介文?読んだけど
生きてるだけで幸せ、みたいなの。
何言ってんだよおまぃさん。
おまぃさん生きてるだけで消耗してるじゃんって。
ぜんぜん幸せそうじゃない日々じゃんって。


でもふと気づいた。

ああそうか、
私は生きることだけをしたいんだなぁ、
と。


海外旅行だ、ライブだイベントだ、
夏はフェスに海にキャンプに。
えっと、、なんだ、、、あとキラキラしたやつ、、


わからんけど、
キラキラしてるでしょ!っていうのが正解で
それ以外の生き方は認められない、
と、わたしの潜在意識は信じ込んでるみたい。
ぜんぜん未だに。


主張の強いもの、わかりやすいもの、
声の大きさ、数の多さ、
そんなものにすぐに圧倒されて
自分を不正解としてしまう。(やめて)


結局、事実なんて大した意味はなくて
自分なんだろうなぁって
他人がどう言おうが、自分なんだよ、
自分には自分。自分の幸せは自分が握っとる。
自分自分自分(ゲシュ、、、)


今私が向き合うべきは
過去に心の深い傷と一緒に植え付けた
自分を傷つける認識?よね?

傷ついたインナーわたしちゃんが、
その傷ついた案件を着ぐるみで着込んで
ぎゃーーーーー!って泣きながら
心の中に嵐を巻き起こす。

そうすると私は現実の世界にまた
同じような経験を巻き起こす。


わかるんだけどな、なんとなく。


わからんのよ、、ぼんやりと、、、、



こうやって頭で理解しようとするから
わからんのよね。

って自分を責める自分も受け入れる、、、、


にょいろーぜ、、、、、



感覚強化だ。
よし、ケーキ食べよう。




心穏やかでいられますように、私も世界も。
読んでくれてありがとうございます。

定型発達って言うけどさ。

 

 

ちょっとADHDの本を読んでみて、もやもやと頭がごちゃつくから、

ちょっと排出します。

 

 

定型発達って言うじゃない。

それってそれが普通ということですか?

普通は正解ですか?

イライラしても仕方ない。

 

しかし、

発達障害は脳の何かがうまく行ってなくて(医学的なとこ覚えられない)

定型発達が普通にできることが困難で、

こんなことに彼らは困り、こんな場面で定型発達とうまくいかず、

2次障害的に精神疾患を患いやすく、

だけど世界の偉人の〇〇やら〇〇も発達障害です!

みたいな書きっぷりのものが多いなぁって感じてます。

 

 

まるで定型発達が世の中の多数だから正解であるように感じさせる。

どんな偉人が発達障害であっても、それは特殊だから、

みたいに感じるんだよ。

 

えっ、私がそういう捉え方しかできないからかい?

まぁそれもなきにしもあらずな気がするけどさ。

 

 

私自身、無知であった頃は、

アスペルガー疑いのある旦那に心底打ちのめされ、

相当オコオコでそんなブログも最初の頃はよく書いてたけどね。(悪びれよ)

 

 

 

でもね、私もさ、

ずっとずっと生きづらかったから。

なんか私はみんなと違う、いろんなことが違う。って。

 

(ほんでね、みんなと違ってこう言うところが辛いよ〜とか話すと、

自意識過剰、とか、みんなってあんたが思ってるほどみんながみんなみんなに当てはまらん。

的なことを言われるんやけど。それってん〜。。。私の伝え方が悪いのか?

とか思うけど、十分心を閉ざす要因になってしまうんだよなぁ。。もう言わない。そうじゃない!って)

 

それがHSPなのか発達障害なのか、原因はさておき。今は。

 

 

対策を練るために、発達障害の子どもを持った親御さんとかがね、

理解しやすいように書いてるのかなぁって思うけど。

 

 

やっぱ読んでて感じてしまう寂しさ。

 

 

お前は普通(正解)ではない。感。

 

 

書き手はそんなこと微塵も意図してないだろうけどさ。

 

 

 

発達障害なりHSPなりとにかく少数に当たる人の、

シンプルに一番傷ついてる部分って、そこなんじゃないかな。

 

 

 

 

私が、僕が、ダメなんだ。

 

 

 

赤ちゃん泣き赤ちゃん泣き赤ちゃん泣き

 

 

被害者意識強めな書きっぷりだけど。

 

とにかくそういうところで幼い頃から少数であるという理由だけで、

問題扱いされてきたから、すごくセンサーがいってしまう。

 

 

ほら、ケーキと〇んちが同時に出されてもケーキを喜べないでしょ?

そんな感じ。

 

 

 

 

だからこそ、自分の世界、

自分の見る世界には優しいものだけにしておきたい。

 

 

あれ?そんな話だったかな?

 

 

違うやん、そんな話じゃないやん。

 

 

 

思いもよらないところで、勝手にダメージ受けて、

傷ついたモヤモヤをオコオコパワーで排出するにあたりました。

 

 

 

生きてるだけで、その普通?ですか?(意固地)の、

何も意図してないところに傷つく、

謎の異端児(結構いっぱいいると思う)のぼやきでしたよ。

 

やだ、後味悪いじゃない。

 

すいません。

 

 

読んでくれた方はありがとうございます。。

 

 

枠を作るから争うのではないか。はぁ。

みたいなことを最近旦那に電話で話したら、

「葉っぱいち枚あればいいんじゃない?」って言われました。

なんか、ほんとお前のそう言うとこわりと好きさ。。

 

 

雑におわります。

 

 

 

 

 

前のブログの続きというか。
読み直してて思い出したけど。
私、自分ちで飼ってた犬にも緊張してました。
一緒の部屋で眠れない。
なんかいるの、緊張する。
植物とかを部屋に飾るのも苦手。
なんか命、生きてる、ものと一切一緒にいない時間がどうやら必要なんだな。

夜中サイコー!


どうでもいい補足でした。

私の初めてのSNS体験はmixiだったと思う。

 

友達から面白いと推められるがままに始めたよ。

5分でやめました。

足跡機能に怯えて・・・

なんかあの時初めて、プライベートな時間に

他人から動きを見られてるような感覚になったよね。

 

今じゃインスタだ、フェイスブックだツイッターだ。

当たり前にSNSは日常に溶け込んできたからさ、

恐怖ほどの感覚はないけどさ。

 

それでも、mixiに馴染めなかったように、

私は一人でいる時間に一切一人でいたいんだ、

というのは昔っから変わらないんだなぁと思った。

 

ガラケーを高校生が持ち始めた初めての世代だと思う?んやけど、

メールくるの嫌やったなぁ〜・・・

全然来なかったけど。

来るの嫌やったよぅ。

携帯が普及する前は家電だったから。

かけるほうも家の人出るかもしれないし

それなりの案件でそれなりの覚悟でかけてきたけど。私も。

 

気軽すぎでしょ。手元に急に友達の存在が現れる。一人でいる時に。

 

嫌やったなぁ〜(しつこい)

いっつもクッションとかの下に携帯を押し込んでた気がする。。

 

 

そんな深海魚(さらに深海の砂の中に潜っていたい)のような私でしたが、

インスタは結構長いことやってました。

 

 

個人的な見解としては、写真やから続いたのかなぁって思ってました。

インスタの前に流行ってたのはTwitterやったけど、Twitterも全然ダメやったのは。

多分、言葉があかんかったんかなって思います。

感情の垂れ流しに感じた。のかも。

 

でも違うかったんだな。続いた理由は。

まぁ全く違ったわけではないだろうけど。

 

 

自己主張したい時だったんです。

ちょうどアパレルではしゃいで働いてた頃だったから。

あの頃は深海魚からユニコーンに変化してて。

私は夢と希望と笑顔の魔法をみんなに振り撒くために存在してるのよ〜ヤンバラヤン!

(ユニコーンがそんな存在なのかは知りません。)

自分最高!って本気で思考の方は思い込んでたし。

 

でもあの頃の心境ってぎりぎりだったなぁ・・・

ぎりぎりでいつも生きていたいから〜ってふざけて歌ってたけど、

目はいっつも笑ってなかった気がする。

 

 

 

何でしたっけ。

 

そうSNS。

 

 

SNSが心の疲れを加速させてるのは紛れもない事実だと思うけど。

というか私みたいな魚類にはもうやめようよ・・・って願うレベルなんだけど。

(ブログもSNS?LINEもSNS?え?違うよ。きっと。私の中で。)

 

SNSが巻き起こした良い面ってのもあるんだろう。

当たり前かもしれないけど、あんまりはっきり思い浮かばないから。

あれ、YouTubeもSNS?

SNSの括りが曖昧だと、かなり曖昧な話題になってしまうな。

いやそもそも曖昧な内容なんだけど。

 

何が言いたいかってですね。

 

 

初めてmixiの足跡機能に怯える前は。

むしろ家電の時代。

 

 

生きやすかったなぁ。。って。。。

もっともっと自分とだけ一緒にいたなぁって。

 

 

 

相変わらず他人軸の追い出しに苦労してる私なので、

ああ、そうか他人軸だからこんなにSNSに怯えるのか。

まぁそんな私なので、あの頃の平和な時間を取り戻したい。

 

 

 

ドライヤーの熱でうなされながらぼんやり考えてたことです。

 

ご清聴ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

久しぶりに書きます。

 

溜まった思考はどこにアウトプットするのだろうか?

という疑問。

 

 

母はよく喋る。

とにかくなんでも喋る。

ひとりごとなのか?ってくらいよく喋る。

その話題、全く知らないけど?みたいなことも

前回の続きですがペラペラペラ、と止まらない。

 

 

とにかくうるさい。

そんな話、興味ない。

 

うちの母は母の姉たちを見ていても

自分本位にマシンガントークを繰り広げる血みたいなので、

余計とうるさい感あるけど。

 

 

でもふと思い出して。

 

結婚生活を送ってた時に、

嫁ぎ先に友達もいなくて、

旦那しか話し相手がいなくて、

仕事から帰ってきた旦那に、

話しかけてたけど、

旦那は共感力ゼロでもあるし、

仕事のことでいつも余裕のない人だったから、

「うるっさい、静かにしてよ」って

相手にされることがなかった。

 

すごく、自分の中に思考や感情や言葉が溜まっていった。

 

 

でも今思えば、

私が母にうるさいと感じるのと同じかなぁとも思う。

母ほど自分本位に話してるつもりはなかったけど。

 

私の話題はしんどいらしい。

心理学的なこと、人文的なこと、哲学的なこと、らしい。

(これはカウンセリングの先生が教えてくれたこと)

 

何となく、そう思ってたさ。

そんなかっちょいい感じかはわからないけど。

まぁ大体普段の生活の中でライトに関心持てるような類のことではないのだろうと。

 

HSPなのか発達障害なのか、それはわからないけれど。

とにかく深々と考えて答えみたいなの見つけて、はっ!となってる、

それがナチュラルな私の生き方だった。

 

 

もちろん話が合う人ってほとんど出会えない。

本当のところ、みんなも考えてるのかもしれないけど、

普段の会話でそんなこと話さない。

 

普段の会話って何やねんって言われそうだけど、

何だろ、昨日どこそこ行った、とか、昨日観たテレビの話題とか、

当たり障りなく話せる話題のことかな?

 

なんかこんなこと言ったらクソ野郎と思われるかもしれないけど、

本当に興味が持てない。

自分がこんだけ興味が持てないからか、自分のそういった類のことが話せない。

だから普段の会話が繰り広げられる時、

私はいつも聞き手だ。

そして相手が伝えたいことじゃないところに興味を示して突っ込んでいく。

 

変わってますよね、って言われても仕方ない。

そういう大人の所作を身につけられないんだ。

 

こういうなんてことない文章を書かせても長い。

とにかく長い。

どうでもいい内容とは言いたくないけど、

それにしたって長いだろう。

そんなところにも、私の話のしんどさはあるのだろう。

 

でも、知ってる。気づいてる。

話が長い人がぼつぼついるってことを。

 

一方的に話が長いとか自分の自慢ばっかりを延々ととか。

そういう類じゃなくて。

 

 

この人ブログながっ。ってかなが。尋常じゃねぇ。長い。え。ふざけてる?

 

 

くらい感じさせる人。読ませる気がない。きっとあれは排出。

上には上が全然いる。安心する。

 

 

何が話したかったんだろう。

 

 

そう、話が長い人とか話題がポンポン跳ぶ人。

は、やっぱり相手にするのはしんどいよ。自分で言うさ。

 

だから自分で発散しないといけないね。

聞いてくれない旦那が悪いんじゃなくて(少しは聞けるくらい余裕持とうよ)

自分で吐き出せる場所を見つけて吐き出していかないと。

 

友達だってしんどいよ。

そして好きに排出できないのは私もしんどいさ。

 

 

そんなこんなでブログ再開だ。

私の吐き出しに貢献してくれますように。

 

 

女はしゃべりすぎるとブスになる