40になろうかという今日この頃、
まあイロイロ考えるワケですよ。
今回は『感性』について。
かん-せい『感性』
1.物事を心に深く感じ取る働き。感受性。「―が鋭い」「豊かな―」
2.外界からの刺激を受け止める感覚的能力。カント哲学では、
理性・悟性から区別され、外界から触発されるものを受け止めて
悟性に認識の材料を与える能力。
<大辞泉より>
卒業して、社会人(会社人?)となって、結婚もして、父親になって・・・・と、
ヒィヒィ言いながらも世間一般的な大人になっていく過程で、
ヤハリ年齢とともに細胞と同じく圧倒的に衰えてくるのが
『感性・感受性』だと思うのです。
10代・20代には自分のナカに溢れんばかりに詰まっていた
『感性・感受性』が、年齢を重ねるにつれ、またイロイロな経験を重ねていく
中で少しずつ消えてなくなり、気が付くと何を見ても聞いても
心にひっかるモノもなく、新しい試みは行動に移す前に
自分で却下してしまう・・・・・(気力がなくなる)。こうなりがちだと思うのです。
しかしながらこうも思うのです。
『感性・感受性』というのは、どんなに年を重ねてもゼロにはならなくて、
最終的(肉体的終焉=臨終)にも1つぐらいは残ってるのではないかな?と。
ここからが大事なことですが、
その少ない『感性』は自分の気合や思い込みによって
けっこう光り輝くモノにもなり、また数も増やすことが出来ると思うのです。
だから必ずくるサヨナラ(臨終)に際して今から思うことは、
肉体的終焉の前に『感性』を枯渇させることなく(日々感性を磨く)、
死んでいきたいと思うワケです。
まあカンタンにいうと、
何かに対し感動・感激しながら肉体的終焉を迎えたいというコトですナ。