人の気持ちはわからない。

人の気持ちどころか自分の気持ちもわからない。

 

気持ち?感情?なのか、人の、自分がどんな感情や、思いを抱いているのか本当にわからないなと。

 

今日の新聞の投稿欄に書いてあったこと。

介護での虐待が後を絶たないけど、介護施設などの現状を皆に知ってもらいたいと書いてあった。

認知症状のある介護される側の方から、介護者へ『ありがとう』という言葉はなかなか聞けないと。

それどころか、家族やスタッフにひどい言葉や態度で接してくることも少なくないという内容だった。

 

その記事を声にして読む私に、娘がもし介護者にひどいことを言ったとしても認知なら仕方ないと諦めもできるやんねと。

 

うちの場合とは

違うよね。

ALSは認知と関係ないとされているよね。

 

そう。

 

お父さんは『ありがとう』とはならない。

家族にはあたりまえに言えないし、言わない。

お父さんはいつも 

 

俺 様     気分。

 

やって当たり前なのだと思っている感じ。

 

 

 

病前のお父さんの気持ちや感情、性格がALSにより変わったのか。

病前より変わったわけではなく、病気による身体の不自由さに伴って本来持ち合わせている性格・気質が表に現れてきただけなのかな。

 

私もそう、あんなにお父さんを尊敬、憧れ、慈しみ、大切に思っていただろう気持ちを今も全て持ち合わせているのかなと。

 

子供達にも同じ事が言えると思う。

 

 

 

 

私も子供達も自分の気持ちをコントロールするために、また、お父さんの存在を少しでも汚したくない気持ちもあってのことだと思うけど、お父さんを、病前のお父さんと、患ったお父さんを区別している。

 

息子がこんなことを言っていた。

本当に困った時に、お父さん助けてとお願いする時があると。

もちろん生きているけど、俺の中ではあの大好きなおっきな偉大なお父さんは、もう死んでいる感覚。

もちろん、今も頑張って生きていてくれているお父さんもお父さんだけどね。

でもそう思わんと納得できないことするやん。

家族にひどいこと言ったりとかあるからね。

 

と話した。

 

 

お父さんが話す言葉がわかりにくくなっていった時、皆がわからなくても、家族はわかることができた。

それはどういうことかというと

今までの家族として重ねてきた月日の中の会話やニュアンスから想像できることも多くあったと思う。

はじめの20文字わからなくても後の10文字が聞き取れたら、前の20文字が想像できて、会話が成り立つ。

そんな時、お父さんには初めから全部聞き取っていたよ的な雰囲気も出しながら会話していた。

 

お父さんが喜ぶこと、怒る事、嫌がる事、好む事など容易に想像できた。

これらは家族ゆえの出来る技なように思う。

 

それも月日が経つにつれ、お父さんならこう言う。お父さんならこう思うと断言できたことも、たぶんこう言うだろう。

からたぶんこう思うかな?と変わっていき、もう13年経った今、本当にわからない。

全くわからないわけではないけど、想像する部分が大きい。

 

 

 

和泉先生がおっしゃった

『世は無常なんよ』

無常じゃからいいこともあるんよ

 

この言葉、私や子供たちの中にあります。

 

13年の間にいろいろ変わりました。

4人の子供たちの環境も大きく変わりました。

進学、就職、結婚

皆、精一杯生きています。

何より可愛い可愛い二人の宝が誕生しました。

 

会社も変わらずに存続できていることに感謝します。

その会社もいろいろと変わっています。変わりました。

 

私も変わりました。

お父さんが元気だった頃は、朝礼なんて出たことなかったのに。

お父さんが元気だった頃は、事務所に最後までいなかったのに。

お役所への挨拶も苦情処理もみんなお父さんの仕事だったのに。

 

自分への時間も作っています。

いけばなの勉強も再開しています。

京都まで勉強に行かせてもらっています。

 

世は、人は変わっていっています。進行形なんですね。

 

 

 

 

朝早い飛行機に乗り、千歳に到着した。乗り物大好き、飛行機大好きな私。

ワクワクした気持ちを子供たちに見透かされている(笑)

揺れもほとんどなく機内も快適に過ごして北海道の地に降り立った。

 

千歳空港のあちこちに、地震の影響だろう、エスカレーターが使えなかったり、ベニヤ板で覆われているところもあったが、北海道は元気そうに感じた。

 

地震の三日後に京都の池坊にお稽古に行った際に、室蘭の方が通常通り出席されていて、様子をうかがっていたからそう思ったかもしれない。

 

娘は飛行機で乗り物酔いして動けない。

三人を空港においてレンタカーを借りに移動した。

久しぶりの北海道。

北海道を自分で運転することが出来てまたもワクワクしている私。

うれしい。

でもお父さんがここにいない。仕方がない。

申し訳ないけど、精一杯満喫させてもらおうと自分に言い聞かす。

 

北海道は私にとっては特別。

よく話に出てくる、千歳空港。

ここが、乗り降り場所か。ここが喫煙所。駐車。保安検査場だ。

もうテンション上がらずにいられない。

見るもの、肌で感じる空気もすべてが私にとっては貴重な体験。

 

そんな浮かれた気分とともに空港に三人を迎えに向かって、旭川を目指して高速を走っていった。

そうだ今日は弟君の結婚式のために北海道に来たんだと思いだした(笑)

 

先日北海道へ行ってきた。

 

次女の旦那さんの弟君の結婚式に参加させてもらうために。

三年前の次女たちの結婚式の際にこの弟君は私達にぜひ自分の時には北海道に来てくださいと熱烈に招待してくれていた。

 

お父さんが行けないので代わりに息子。

そして長女も孫娘も行かせてもらった。

久しぶりの家族での旅行?みたいだった。

でもお父さんがいない。

でも家族皆での旅行?

 

何だか複雑。

寂しいし、ワクワクしている自分もいた。

孫娘と大きな飛行機を間近でみれてはしゃいだりした。

 

ふとお父さんごめんね私ばかりと思う。

なんどこのセントレアの保安検査場をお父さんや子供たちと通過したんかなと。

あの時はさほど気にも留めずに通過していたんやなと。

今回は、いろんなことが、昔と比べる。お父さんがどうやって通過していたんかなと思う。思いだそうとしていた。

お父さんがここでえらいと言って立ち止まった。

車いすのお父さんとここで子供たちを待っていたなとかいろいろ思いだせた。

 

機内に入るのに、大変だったことも思いだす。

ANAのスタッフで安全に機内に連れて行ってくれるはずだった。

その為に何度も打ち合わせもした。

結局、ブーツを脱ぎ捨てて裸足になった長女が移動させたことも思いだした。

 

懐かしいなと思った。

寂しいとやはり思う。

でも仕方がないと仕方がないと自分に言い聞かせて孫にトーイングトラクターの説明をした。

22年前の今日、息子が産まれてきてくれた。

 

朝、病院に私をおいて、お父さんは子供三人とモーニングに行き、耳鼻科へ連れて行ってくれた。

私は陣痛室の予備室に通された。

 

なかなか陣痛が強くならない。

11時ごろだったか、やっとお父さんがやって来た。

黄色のTシャツを着て腰脇に携帯電話を挿していた姿を今でも忘れていない。

 

やっと分娩室に通してもらえた。

6年ぶりの出産。

6年経つと体もこんなに変わるんだなと思い知る。

こんなんじゃあ、この後、どれだけの痛みと、時間を耐えなくてはいけないかと思うと怖かった。

 

破水があり、痛みが増して6年前までの出産ならば、生まれる直前まできていると思う頃、お父さんが助産師さんに

 

もう産まれるで。こいつがこの声を出したら産まれるんやわ。

 

まだまだ。夕方までかかるよ。

 

12時半の話。こんな痛みを今から半日も耐えられないと泣きそうになったのを思いだす。

 

結局、1時に産まれてくれた。

大きな声で泣いてくれた。

 

お父さんは直ぐにでも抱っこしたいと思っているのがみてとれた。

元気な元気な赤ちゃん。

お父さん泣いていた。お父さんの嬉しそうな顔。忘れない。

 

良かったな。

と言ってくれた。

 

俺、もっと仕事がんばるわ。頑張る気が湧いてきた。

と嬉しそうに言った。

 

 

間もなく

俺、おじいさんにおしえてくるわ。

と言って分娩室を出ていった。

じっとしていられない性格。

 

間もなく戻ってきて

おじいさんが

手柄じゃった

って言ッとったぞ

喜んでござったぞ

 

おじいさんは同じ病院に入院していたので伝えに行ってくれたのだった。

 

体は痛いところだらけだったけど、感謝の気持ちで満たされていたのを思いだす。

 

姉たち三人もやってきて、赤ちゃんとご対面。

三人ともとても嬉しそう。

みんなが嬉しそう。

本当に満ち足りた気持ちだった日。

身体が砂でできているのかと思うほど、しんどかった日だけど、言い表せられないほどうれしかった日。

生涯忘れることのない日。

8月16日。

 

 

本当に産まれてきてくれてありがとう。

22歳のお誕生日は彼女にお寿司のケーキなど作ってもらったよう。テーブルに並ばんばかりのご馳走でお祝いしてもらっている。

幸せそう。

彼女が写メを送ってくれた。

楽しそうな様子が伝わって私もうれしい。

 

感謝。

 

 

先日、旅行屋さんが来社してくれた。

この旅行屋さんは、私達夫婦の中学校の同級生。

 

その方が、挨拶に来てくれた。

大病を患われた話。

聞くだけでも大変な事が伝わってきた。少し痩せられた感じはあるものの、穏やかな笑顔に安堵する。

 

自分が大変だったのに、そんな中でも主人の大変さを心配してくださり感謝し、また心の大きな方だなと感心する。

 

話が主人の話になっていった。

中学生の頃の話。

技術(当時は男子が技術、女子が家庭と別れて授業していた)の授業中に先生が主人を誉めだしたらしい。

なんでかなと旅行屋さんも話を聞いていたら、別の中学校の生徒がうちの中学校へ来たらしい(殴り込み?)そしたら主人が一人で相手して何も無くその他校生は帰って行ったという話だったそう。

 

協会の役員を担った時の話。

根気よく大きな相手とも話し合いを続けて粘ってこちらの言い分も伝えた話など、私の知らない主人を教えてもらえた。

 

話を聞いているうちに、私も思いだしてきた。

主人のおかげで大事にならずに済んだ一件などが思いだされた。

あの元気だった社長が病気とは。今回はお見舞いだからいいわ。とか。

気づかないだけでたくさん助けてもらっているんだと改めて気づくことが出来た。

 

そうしているうちに、主人との出会いの話になった。

中学生の主人や私を知っている旅行屋さん。

旅行屋さんは野球部キャプテン、私はバレー部キャプテン。主人はというと、金髪にするようなヤンキー少年だったので私たちの結婚は不思議に思っていてもおかしくなかった。

あのね、私にもなんでこうなったかよくわかりません。

高校1年の夏休みいきなり家に来るようになったのです。

最初が花火の日。

中学時のお友達と家で夕飯を食べている時、アポイントなくやってきました。

それからちょくちょく来るようになったのです。

それがきっかけでお付き合いをするようになって今に至る。

だから花火の夜居合わせた友人は、なんで来たのかわからないと言った私を今でもうそを言ったと思い込んでいると思うと話した。

 

あれから今までの間に主人に、何度もなんで突然に何度もうちに来たの?と聞いているが、未だに答えが無い。

なんでやろな 知らん わからん  としか答えが無く未だにわからない。

でもその行動が無かったら、結婚などしていないことはわかっている。

 

本当にお父さんと結婚出来て、愛され、大切にしてもらい、成長させてもらえた。

4人の子供にも恵まれこの子供たちからもたくさんの幸せをもらえた。本当に感謝している。みんなやさしいいい子たち。

ALSは本当に嫌だけど、お父さんと一緒になれたことは私の人生において一番ラッキーなことだったと思う。

 

こんなことを旅行屋さんと話していて気づかせてもらえた。

感謝。

 

明日からお盆休み

 

そうは言っても、休日出勤してもらう現場もあると聞いている。

本当に有難いことだ。

 

今年の暑気払いは、みんなですき焼きを食べに行ってきた。

今年は早い梅雨明け以降、例年にない猛暑続き。

みんな本当にがんばってくれて頭が下がるばかり。

何より有難かったことは、誰も熱中症にならずにここまでこれたことだ。感謝する。

 

みんなの頑張りに感謝の意を伝えて、みんなで小林君に安全を誓い、ご冥福を祈り黙祷を捧げた。

今年の新入社員を代表して佐藤君に乾杯の挨拶をお願いした。

 

お昼にみんなですき焼きを食べた。

仲居さんからの質問。

先代夫婦は未だご健在なのかと。

お蔭さまで二人ともすこぶる元気ですと。

 

まだ毎日パチンコに行っているのかと。

はい。そうですねと。

 

社長はどうしていないのかと。

ちょっと病気で来れなかったのですと。

 

悪気はないのはわかっている。

でも自分で答えると今更ながら主人が病気なんだと思い知る場面。

 

お父さんも来たかったろうな。

お肉食べたかったろうに。

ここのヒレの網焼きが大好きだったなと思いだす。

何よりみんなと過ごせない、労を労えないことが一番残念なんだろうなと思う。

 

仕方がないと自分に言い聞かせ、みんなにお肉のおかわりをすすめて回った。

 

どんどんダメになっていく。

お父さんが知っているものがどんどんダメになっていく。

お父さんが病前、発病後に買ったものがどんどん使えなくなっていく。

 

最近立て続けにその傾向がある。

 

テレビ

お父さんがプラズマにこだわって50インチの壁掛けを買ったのが、11年前。

当然病気になっていたけど、電気屋さんとなんだかんだと打ち合わせを嬉しそうにしていたのをついこの前のように思いだす。

そのテレビがもう緑がかって映る。髪の毛も異星人のように緑色にチカチカしているようになった。

もう変えないと無理かな。

 

冷蔵庫

冷蔵庫もお父さんが楽しそうに選んで買った事をこの前のように思いだす。

冷蔵庫が配達されると二階に運べるかと電気屋さんが考え始めた。

お父さんが走っていったなと思ったら、ラフタークレーンで二階のベランダからやって来た。

息子が3歳くらいだったか、空高く上がっていく大きな冷蔵庫を見上げていたのを思いだす。

20年くらい前の話だ。

猛暑の中ご老体に鞭打って頑張ってくれていたのに、突然真っ暗になりファンの音も消えていった。

終わったなと思った。

 

とりあえず、電源を抜いて、ブレーカーも落とした。

そのまま夕飯を食べてから、ブレーカー、電源を入れて冷蔵庫を祈りながら開けてみた。

ついている!冷蔵庫さんありがとう。

もうしばらくがんばってくれるようでほっとした。

 

重機回送車も平成2年から今もがんばってくれているけど、今月末に新しい車と交代する。

またまたお父さんの大切な、いつも乗って重機を運んでいた車がいなくなる。

 

ダンプもそう。だんだんお父さんが知っている、乗ったことのある車がだんだんいなくなる。

寂しい。

車や重機が好きだったから入れ替え時には寂しい気持ちになるのかと思う。

時の流れも感じる。

お父さんが車に乗れなくなって10年以上経っている。

そして入れ替えの出来る状況に社員のみんなに感謝する。

 

お父さん、寂しいね。

25トンラフタークレーンとサヨナラした時のお父さんの後ろ姿は忘れられない。

居なくなる前に、きれいに掃除していた。

泣くことも無く見送ったけど、泣いていると思った後ろ姿やった。

 

でもほんとに有難いことやねと小さな声で話しかけた。

 

 

 

先日帰省していた時の話。

 

俺さあ。

親がALSになってまった子供たちがどうしとるのかほんと気になるし、助けてあげたいと思う。

俺、お父さんがALSになってまったとわかった頃みんなが泣いたり悲しんどる時まだ何もわからずに、みんながそうやから俺もそんなふうにしとらなあかんのかと察してそうしてただけで、事の大変さなんか何にもわからなかった。9歳10歳やったね。

 

それが、自分の成長もあったと思うし、お父さんの進行具合もあって、何かのタイミングで状況がわかりはじめ、落ち込んだりしていたったんかなと思う。

 

お父さん大好きやったし(もちろん今も)、仲のいい家族やったし、みんなでお父さんを支えるのが当たり前やったと思うけどね。

 

お母さんを責めるつもりじゃないよ。

正直、宗教みたいになってたよね。

元気な時から、うちはお父さんが一番やったしね。お父さんの一声で皆集合できる感じやったもんね。お父さんがディズニーランド行くぞと言えばすぐに準備始めるみたいなとこあったよね。

病気になってからは磨きがかかっただけかもしれんけど、お父さんが少しでも喜ぶこと、楽になる事に必死やったことない?

お母さん、俺が介助で少しでも失敗すると俺に怒ってきたの覚えとる?すごかったよ。

お父さんの介助で失敗するとお父さんだけでなく、お母さんにも俺は怒られとったよ。姉ちゃんたちにも怒っていたし、姉ちゃんたちにも俺は怒られとったよ。

だからお父さんとお母さんを怒らさん為に必死で介護してたんやに。

正直、お母さんが頑張ってくれんと俺たち生活できない不安もあったから余計に怒らせんかんこうを俺も姉ちゃんたちも必死でしてたんやと思うに。

 

もうほんとに申し訳ないことを子供たちにさせてしまったんやとまたまた猛省。

 

高齢者の介護は、介護される人もまたする人も高齢で少しずつ感覚とかも勢いも緩くなってきているのかなと。だからヘルパーさん達もやりやすいけど、うちなんかに来るヘルパーさんは大変やったと思うわ。

若い分いろんなことに気づいてまうし、自分ならこうするみたいなことも明確やもんね。

 

姉ちゃんたちが社会人になっていき、家族介護が無理になってヘルパーさんにお願いするようになったらほんとに大変やったね。

家族介護の時は体力的に大変やったけど、気苦労はしんでよかったね。

出来ないからお願いするんやけど、もうああなると家じゃなかったね。安らげる場所が自分の部屋だけやったね。それでも今この家の中に他人がいると思うだけでゆっくり出来んかったわ。

 

子どもはわからないから、どんどん巻き込まれていくんやと思うわ。

それは仕方ないことやともわかるよ。

でもこれからの家族には、在宅の大変さ。他人が家に侵入することのデメリット部分を親にも伝えたいし、なにより子供に寄り添いたいとほんとに思うわ。

 

俺はいいよ。もう。

でも俺みたいな子がおったらほんとに何とか話だけでも聞いてあげたいわ。

 

 

こんな事を淡々と話した。

 

運転中の息子との他愛もない会話。

 

前後、大型車に挟まれた状態での運転中に

あのさあ、こうやって大型車に前後挟まれた状態で走行するとあかんとお父さん言ってんだわね。

知っとるよ、大学の入試の為に金沢に向かっとる時にお父さんからメールきたやん。

『大型車に挟まれるな』って。

ほんで俺、高速走る時は気を付けとるよ。

 

長女が免許を取得した時は発病前だったから、走る道さえお父さんの許可が必要だった。

この道とこの道しか走ったらあかんとか指示があった。

2車線の国道を初めて走行する前にはお父さん教官の試験があった。

 

次女の時は、もう発病直後だったけど、マニュアル車に乗りたかったこともあってか、しゃべり辛いのに、手足もずいぶん動けなくなっているのに、助手席から運転を教えた。

 

三女と長男には、もう何も教えることが出来なかった。

恐いお父さん教官の指導を受けていない二人をかわいそうだと姉二人は言っている。

姉二人も理不尽に怒られまくっていたのをみていた私からすると姉二人こそかわいそうだったように思うけど、指導を受けていない下二人も不憫に思う。複雑。

 

その指導を受けていない息子が、一度のメールの『大型車に挟まれるな』を今も守っている。

お父さんの存在は大きいし、有難いなと思う。

嬉しく思う瞬間だった。

 

 

新聞でパーキンソンの治験が年内に開始されるとあった。

なんだか素直に喜ぶことが出来ない。

 

山中教授がノーベル賞を獲られた時に和泉先生がこうおっしゃった。

パーキンソンがまず先だと。パーキンソンが上手くいったら次はALSだと。

5年もあればALSも何とかなりそう、もう少し待ちんさいと。

 

その後、笹井教授がお亡くなりになられたりと残念な事があり、研究、実験も思うように進んでいない話もあったりと。

 

『わしが生きているうちは無理じゃ。でも繋いでいくとこが大事なんじゃ』と。おっしゃった。

同じころ、金沢にいる息子にお酒を飲みながら、もう一人のお父さんと思いんさいやと有難い言葉もいただいた。

 

先生がおっしゃることは我が家にとっては絶対だから、この言葉を静かに受け入れた。

また私たちに伝えてくださった先生に感謝したのが2年以上前のこと。

 

 

今、パーキンソン治験開始。

治験参加条件を読む。

よし、まだお父さん参加できる! と安堵する。

 

どうか治験が成功しますようにと心から願うだけだ。