大事なものは目に見えない

大事なものは目に見えない

耳鳴り(頭鳴)といろいろの記録。

今日、心療内科に行って、耳鳴りに起因するつらさを話すと涙が出てきました。

 

耳鳴りになって2年ほど経過して、初期のころみたいなパニックになったりすることはなくなりましたが、それでも波があったりもして、やはり耳鳴りには慣れてないし、むしろ辛いと感じているんだな、自分は、ということに改めて気づきました。

 

気にしないように、性格を変えるように、と言われる耳鳴りですが、できない人はどうすればいいのでしょうか。

 

今の私は、泣いています。

日によって耳鳴りの大きさが変わるのですが、今日は音が大きいのもあって。そして、心療内科で耳鳴りの辛さを話しながら涙が止まらなかったことで、自分が耳鳴りによって感じている辛さを実感してしまって。

 

気を逸らしていたんですよね、辛さから。耳鳴りではなく、その辛さから気を逸らしてしまっていたせいで、でも、逸らしたところでその辛さはストレスとしてつのっていってしまって。

 

ただね、本当、耳鳴りって治らないから、だからといってどうしようもないんだけど。

 

やっぱり鬱状態なのかな。

耳鳴りに起因する鬱って、治らないんじゃないかな。だって、原因の耳鳴りが治らないわけだし。

 

でも私、もし長生きしたらあと50年以上は生きるわけで。

それなら、鬱は治らなくても改善してほしい。

耳鳴りが治らないのはわかってるけど、鬱って良くなる人もいるし、耳鳴りより「良くなりそう」なイメージもある。

 

今日行った心療内科は薬物治療以外も提案できると、寄り添ってくれました。

しかし、耳鳴りって一生だから、薬物以外の治療法で耳鳴りの辛さをカバーできるものなのだろうか、とか、主治医は私の永遠に続く耳鳴りの辛さに付き合い続けてくれるだろうか、とか、いろいろ不安。。。

 

涙が止まらなくて、ドアノブを見て、もうここで人生を終えられたらどんなに救われるだろうと思ったけど、来週はご近所さんとサツマイモ堀りをする約束をしているし、他のご近所さんのところに黒豆煮て持っていく約束もしてるし、と思って立ち上がりました。

散歩をするようになってからだんだん親しくなっていった優しいご近所さんとのささやかな交流が今の私の支えになっていて。

もちろん、私が耳鳴りで苦しんでいることなんて知らないし、近所だから目と鼻の先の距離だけど、今、私が涙してこの世界から去りたいと願っていることも知らないけど。知らなくていいんだけど。むしろ知られたくない。

ご近所さんと話してるときは、病んでない自分でいられるから。元の、本来の病んでない自分でいられるひとときだから。

 

楽しみをもつことで、なんとかごまかしながら生きていくのがいつかどこかで限界を迎える前に寿命がくるよう祈るしかない。

 

でも、耳鳴りだけがしんどいわけじゃないこともわかってる。

きっと、頭痛だとか、受験や就職の取り返しのつかない失敗だとか、人生をやめたくなる原因ていろいろある。

 

やっぱり私には助けが必要で、今日行った心療内科で「話を聞いてもらう」という方針でお願いしようかな。

心療内科の主治医の前では泣いても大丈夫なはずだし。

そういえば、以前通っていた心療内科の待合室は中年以降の患者さんが多かったけど、今日行ったところは待合室に同世代くらかなという感じの女性たちが多かった。自分が思ってるより、この町に、近い距離に、精神を病む人たちはそれなりにいるのかなと思って、なんとなく仲間な感じがした。

 

とりあえず、耳鳴りがなければ生きたい気持ちが大きくて、まだ生きることへの未練も大きくて、なにより親より先はよくないよなという気持ちも一応あって。

 

耳鳴りが始まった最初期のころ、耳鳴りのする日としない日がって。

今は毎日ですが、最初期のころのしない日に、「耳鳴りがなければ幸せだ」と思ったことが忘れられない。そのあと、止まらなくなるとは思ってなかったし、こんなに深刻なことになると思ってなかったから。

 

明日、心療内科に予約の電話をしようと思います。

 

まとまりのない文章になったけど、気持ちを書き出すと落ち着くかなと思って。