青い空を見上げて -3ページ目

青い空を見上げて

空を見上げ 大地を踏みしめ
風を感じ 人間らしく堂々と生きてゆく
そんな人間になりたい




私と父は 実はとても仲が悪かったのです


私には 6つ歳の離れた姉がいます

姉は 頭もよく おしとやかで 

我が家の長女 跡取り娘として

父母に それは大切に大切に育てらました



その姉とは性格も好きなことも正反対の私



父とは あまり性格も合わず いつもケンカばかりしていました



大人になるまで 私は父が嫌いでした

無口で 頑固で 仕事ばかりで 一緒に遊んだことなど

どこかに一緒に出かけたことなど 一度もなかった



でも 大人になるとその気持に変化が現れました


小学校 中学校 普通に学校に通いました

高校生活では 自分の好きな部活動を思いっきりやらせてくれました


田舎から名古屋まで通っていたので

学費 交通費

部活動では 合宿 試合

東京までの何度かの遠征 

そして アメリカ ネブラスカへの短期留学

短大への進学 

学費 交通費

そこでの 部活動の合宿 遠征 試合

本当に 学生時代はお金のかかった私


でも なに不自由することなく 思う存分 楽しい学生生活を送ることが出来ました

それを 普通だと 当たり前のことのように感じていた私


それは 全部親が 父がいてくれたおかげだと

私は 成人してから気づくのでした


バカである 実にバカである

成人して 就職して

相変わらず 父との仲はあまり良くなかったけれど

だんだん 年老いていく父に 私は少しでも近づいて

寄り添っていけるように努力していきました



私は

運良く 結婚できました

姉がお嫁に行ったので 

私は 婿取りをして実家を継ぎました

そして 運良く 子供を授かる事ができました

子供が無事生まれ

孫の顔も見せることができました

これで 少しは親孝行出来たかなとも思います





父は 79歳で この世を去りました

若い頃は

昼間働きながら 夜間高校を卒業して

結婚してからは 単身赴任で働き 週末に家ってくる生活がしばらく続いたそうです


30歳で父親を亡くし それから 会社勤めをしながら

農業を始めました

自分一代で ここまで農業を大きくして

少し前までは 市内一番の桃の生産者でした

桃の品評会では 何度か賞を頂き

幻の桃の生産者として

テレビの取材も受け お笑い芸人

アンジャッシュと共演もしました

名古屋のお祭りでは 父の作る幻の桃で作った

桃シロップをかけて作った かき氷が 販売されました





父は 頑固者だったけれど

人を大切に思う 心優しい人でした

人と話せば 親切丁寧に接し

困った人がいれば 手を差し伸べ

助けたりしました


父がなくなって その父の偉大さを知りました


亡くなってから 我が家を訪ねる人が後を絶ちません

『生前 お父様には大変お世話になった』と 

父がいなくなった後も みなさん

いろいろと助けに来てくださいます


『お父様に助けて頂いたので 今度は助けますから

なんでも言ってください』と 申し出てくださる方

困ったことはないか 大丈夫か

手伝うことはないか

みんな声をかけてくださり 連絡をくださり

父が残してくれた 人との絆と ありがたさを

いまここで改めて感じ 感謝しています






この一年 本当にいろいろありました

良いことより 泣いたことや 辛かったことのほうが

多かった気がします



私は幸いな事に 

親の介護は一年で終わりました

何年も 何十年も介護を続けていらっしゃる方は

他に ごまんといらっしゃると思います

そんな親の介護も 父は心配して早く逝ってしまったのかもしれません・・。

父は そんな優しい人でしたから・・・。




親の介護 

口では簡単に言えるけど

実際に 親の介護が始まれば

それは休む暇もなく 終わりが見えるわけでもない


でも 介護は父は 好きだ 大好きだ

そんな気持ちなんて どこかに吹っ飛んでしまうくらい

辛いものでした

相手は 病人です

私にイジワルをしたくて しているのではない



同居してるから 

毎日いつも一緒にいるから

だからなおさら 全力でぶつかりあい

介護しなければならない 

もちろん逃げ場など どこにもない


でも それは いまおもえば 

一年 たった一年のことだったのです・・。





介護には

度合い 程度があると思いますが

父は ストレスは全部 こちらに全力でぶつけてきましたし

暴言 理不尽な要求 いろいろありました


父が亡くなる少し前から 現在に至るまで

私もストレスで 体調を崩しました

ふだん 風邪などひきませんし 病院もほとんどかかった記憶がありません

でも 今回は違いました

重度の帯状疱疹になって動けなくなったり

手足口病を患い 一ヶ月ほど寝込んだり 

偏頭痛が慢性化したり

とにかく 身体が悲鳴を挙げています


いまでも 帯状疱疹の後遺症と 

手足口病の後遺症の つめが剥がれる症状は続いたままです

毎日が 辛いです



でも 辛いですが

辛いことばかりではありません



いつも お茶を飲みながら 遊ぶ友達

親友 バレエ仲間

大切な友達 友達のご主人

保育園の役員会ママたち

ピグ友 ブロ友

みんなが みんな気遣ってくれて 助けてくれて

気遣ってくれます


みなさんが優しさをくれて 

こんなに 

人っていいなって

思ったことはありませんでした



悲しい父の死を経験し

辛いことも多かったけど

人生について 自分について

まわりみんなに対して

いろいろと深くかんがえる事が出来ました




父の死がなかったら

きっと こんなに自分のこと 他人のこと

いままでのこと これからのこと

こんなにも 考えなかったと思います




人生観が ガラッと変わった出来事

きっと この出来事は

これから私が生きていく中で

大きな 大きな 意味を持つでしょう



今までの自分と 今の自分

気持ちの持ち方も 考え方も

以前とは全く異なります

自分でも こんなに変わるのが不思議なくらい

私はこのいまの瞬間をわすれることは ないでしょう






お父さんへ


お父さん 今は どこにいますか?

夜 星空を見上げると 必ずあかりんが

『 じぃちゃんは どれ? 』

『どのお星様になったの?』  と聞いてきます


あかりんも 5歳になりました

大きくなったでしょう 4月からは年長さんになります

絵を書くのが大好きで 外遊びが大好きで

農作業が大好きで 自然が大好きで

ちょっと 頑固者だけど 負けず嫌いでがんばり屋です

どこか お父さんに似てますね


たまに おじぃちゃんのことを思い出して

『 おじぃちゃんに逢いたい 』 と 仏壇の前で泣いています


わたしも お父さんにもう一度会いたいです

怒られても 怒鳴られても やっぱり

お父さんに 逢いたいです

お父さんが死んでから いろいろなことが山積みで

どうしていけばいいのか わかりません


ひとつのことを決めるにも 不安でどうしていいかわからなくなります


お父さんの お父さんがなくなった時はどうでしたか?

お父さんも大変だったでしょうね

わたしも もっとしっかりしなくちゃダメですね

なんで死んでしまったの?

もっと もっと長生きしてほしかったのに・・・・。


あかりんの成長もまだまだ見守ってほしかった

まだまだおしえてほしいことがたくさんあったのに

あっけなく 逝ってしまって・・・・。




ほんとは 『私達大丈夫だから安心してね』

っていわなくちゃならないのに

 私は言えません・・・。



























































 平成25年4月

医師から これ以上の抗癌剤治療は

命の危険性が高くなり 効果も期待されないと説明を受ける

父も 症状を理解し 治療を中止することとする

医師から余命半年との説明

家族で話し合い

この先 がん治療は一切しない

穏やかに 死を迎え 延命治療はしないことにした

このあたりから 父の体調は加速的に悪くなる

貧血が進み 意識が朦朧とするため

自分の意見を曲げず
 
家族とのぶつかり方も激しくなった







平成25年5月


田植え作業がはじまる

自分で作業が出来ないため

家族みんなで協力して作業するも

家族が自分の思うように 作業出来ないため

イライラし 怒り 暴言が続く

今まで 覚えてきたものが 思い出せなくなり

思考能力が著しく低下する






平成25年6月

体重の減少 体力の低下

貧血がひどく 介護ベットを借り

介護認定を受けて 自宅改修をする

トイレ 廊下 お風呂 玄関 各部屋に てすりをつける

横になることが多くなり 

夜中 2時間おきの トイレの付き添いが必要となる

母と 交代しながら 毎晩付き添う


担当医師から

『当病院では 手術も抗癌剤治療もしない患者は

これ以上 診ることが出来ないため

自宅近くの通いやすい病院か 

ホスピスなどのある病院にに転院してはどうか 』 とすすめられる







平成25年7月

自宅近くの総合病院に 転院

検査のしなおし 今までの医師とは 違う療養方針に

少し 戸惑いもあるものの 心優しい 親切丁寧な先生なので

安心して おまかせする


これから体調が悪くなっても

自宅介護を希望していたので 在宅酸素の用意など

いろいろと 準備がはじまる

父の体調は 優れないが 好きなモノを食べて

好きな畑仕事をして 過ごす

毎日暑い日が続くので 涼しい部屋で過ごすことも

更に多くなった







平成25年8月

検査と輸血のため 3日間入院することになる

この検査の後 医師より ガンが

『 膵臓  リンパ 肺 肝臓 』 に転移していると知らされる

思った以上に 進行が早くい このままでは あと一ヶ月ほどかと・・・

と 再度の余命宣告


腹水がたまり お腹が膨れたりしてつらそう

入院してからも トイレの付き添いがあるため

私と 姉とで交代で病室の付き添いをする

1時間 近い時は5分毎のトイレの付き添い

トイレに行っても でないことのほうが多いが

看護師さんの介助や ポータブルトイレの使用は

嫌なため 自力でトイレに向かう

『トイレには自分で行きたい』 という

父の希望に添うため ずっと付き添う


その頃の 一日

朝7時半に あかりんを保育園に入れ

そのまま 病院へ

8時頃から お昼すぎ2時まで

病室で父と過ごし 姉と交代する

家に帰り  買い物 夕食の用意 片付け 掃除などをして

5時半にあかりんを保育園にお迎え ご飯を食べさせて

お風呂に入れて おばぁちゃんに あかりんを預け

夜7時頃 病院へ 

姉と交代して そのまま10時まで付き添い

父が 眠ったのを確認してから 自宅に帰る

片付け 洗濯 などをすませると 就寝はやっぱり2時をすぎてしまった


入院してすぐに 父に 『譫妄』があらわれ 

夜中に点滴の管を抜いたり ベットから落ちそうになったりして

夜中に 病院から連絡があり 病院に走ること 数回

私が行くと 『やっときたか』 と安心したかのように 落ち着いて眠りにつく


看護師さんの話では 普段 責任感が強かったり しっかりしているほど

譫妄が強くでる人が多い きっと 父もそのタイプだと思います とのこと

大部屋で 周りに気を使い 夜もなかなか寝られず

トイレの往復ばかり

ストレスが溜まり

日に日に 弱っていく父

せめて ストレスを貯めず過ごさせてあげたい

外の景色もみせてあげたい 気を使わず入院生活を送らせてあげたい

と思い家族と相談して 大部屋から 外が-よく見える 個室に変わりたいと希望を出す

2日後 個室に変わることが出来 父も家族も 少し心が穏やかになった



先生からの突然の絶食の指示

理由は検査のためと言っていたが 本当は がん細胞を活発にさせないため

苦しまずに 最期を迎える準備だったのではないかと

今 考えるとそう思ったりする

絶食になり 点滴栄養に変わり 父もベットに横になったままになる

最後まで トイレは自分で行きたいと言っていたが

しだいに立つことも ベットから起き上がることも出来なくなった


思考能力も 低下はしていたが 会話はできていた

たまに 認知症のような症状があらわれ

わたしを姉と間違えたり わけのわからないことを

言ったりして家族を困らせた

そして 相変わらず ストレスのはけ口は家族に向けられ

怒られ 暴言をはかれる毎日

そして 毎日の介護に だんだん私も体力的にも 精神的にも

しんどくなり あかりんや主人に 当たることが多くなった





平成25年9月

父はベットに横になったまま 

会話も少なくなり

スヤスヤ眠ることが多くなった


毎朝 病室に行くと 

お湯で手を拭いて 顔を拭いて 足を温め マッサージをする

床ずれが出来ないように 1時間おきに 体制を変えて

脱脂綿にお茶を含ませて お口を潤す

ヒゲを剃ったり 口腔ケアをしたり

やってあげれることは 全部してあげた

身体が痛いといえば 体中さすった

夜中以外は 一人ぼっちにさせないように

ずっと一緒にいた




9月6日 夜10時

『お父さん そろそろ帰るね 大丈夫? 』

珍しく起きていた 父に尋ねると 

父は こっちをむき 『あーー』 と返事をした

それは 『あーー』という言葉だったけど

私には 『あぁ 気をつけて帰っていけよ 』

と言う いつもの父の言葉に聞こえた

『もうちょっと いてほしい?』  という私の冗談に

首を 横にふる父

『じゃぁ 帰るね 明日は土曜日だから みんなで来るね

また明日~♪ ばいば~い 』 とい言って病室を後にした


そのときは これが父との最後の会話になるとは 思っていなかった





平成25年9月7日 父 死去


朝 7時に電話がなる

『 お父様の血圧が測れなくなったので 家族皆さんで来てください 』

と 病院からの電話

家族みんなで慌てて 病院に走る

病室に行くと 入り口には 『面会謝絶』の札

ドアを開けると 機械やら管に繋がれた父の姿


『 今朝 血圧が測れなくなりました 今 血圧を上げる薬を入れていますが

そろそろ 身体の方も限界かと思います』 との 医師からの説明

スヤスヤと眠る父



『 おとうさ~ん きたよぉ 今日は みんなできたよぉ 』

『 今日はね~ すごく天気が良くて 暑いよぉ~』

『じぃちゃーん あかりんきたよぉ おきてー』

みんなで一生懸命話しかける

心拍も弱くなり 呼吸も浅くなり始め

でも とても落ち着いた時間が流れた


姉も 隣県より到着して みんなが揃った

交代で 話しかけたり 手を擦ったりした

そして午後1時12分 

父は 安らかにこの世を去った


それは まるで まだ眠っているかのように

いつのまにか 逝ってしまい

実に静かに 実にあっけなく

 父らしい最後でした


















































チョビです


しばらくご無沙汰しておりました汗


あまりにも 音沙汰がないので

ピグ友さんや リアル友さん ブログを読んでくださってる方から

たくさん 心配のメッセージを頂きました

すべての みなさまに なかなかお返事も出来ず

申し訳ありませんでした

はい  元気です

う~ん 正しく言えば 元気になりつつあります

心配かけて ごめんなさい




ブログや ピグに あまり顔を出さなくなったには

ちゃんとした 理由がありまして


私生活で本当にいろいろ ありまして

たぶん 今まで生きてきた中で一番の 

『 激動の一年 』 だったのではないでしょうか







昨年 平成25年9月 

父が他界いたしました


この 父の他界は 私にとって

大変な出来事であり 衝撃であり

そして 命の大切さ 人との絆を

改めて 考えさせられた出来事でした






しかし この 激動の一年 を過ごしたおかげで

今回 私は ひとまわりも ふたまわりも

大きく成長できた気がします


その 激動の一年を忘れないためにも

このブログに 父の事を少し書き残しておこうと思います







ことの始まりは 平成24年 1月から始まります

『おいっ 2年前じゃないかっむぅ  』 と思われる方も

いらっしゃると思いますが まだこの時は

いまから訪れる 激動の一年の 序章にすぎなかったのです



平成24年 1月

父 体調悪くなる

孫 (あかりん) からもらった風邪の菌が

腕に入り 腕が腫れ上がり 動かなくなる

着替えもままならず 横になる日が続く




平成24年2月

風邪も腕の腫れも徐々に良くなり 

幸い農作業も農閑期に入り

好きな 桃の手入れをしながら ぼちぼち過ごす



平成24年3月

機嫌の悪いことが 多くなり

すぐに 怒ったり どなったりしていた



平成24年4月

桃の手入れ作業が 本格的に始まる

身体がしんどいことが多く 仕事中の休憩が多くなる

思うように 仕事がはかどらないため

イライラが多くなり 家族に当たることが多くなった



平成24年5月

相変わらず 体調が悪い

農作業をしていても すぐに息が上がって

苦しくなって 休憩ばかりになる

顔色も悪く 身体が自分の思うようにならないため

相変わらず 家族に強く当たる日が続く



平成24年6月

田植えが始まる

このあたりから 少しづつ顔色が悪くなり

痩せ始める


平成24年7月

桃の販売が本格的にはじまる

暑い中の桃の収穫

身体はしんどそうだが 気力でなんとか

仕事ができているようだ



平成24年8月

あまりにも体調が悪く 夏バテのような症状になったため

自宅近くのかかりつけ病院にかかる

検査

胃カメラ検査をした当日 すぐに病院から連絡あり

『すぐに紹介状を書くので 総合病院で診察を受けてください』

と言われる

となり町の市民病院で 再検査

胃カメラ CT  MRI  血液検査 尿検査 心電図 などなど

すみずみまで検査を受ける




ここから

激動の一年が始まる





平成24年9月7日


検査の結果

末期の胃がん と診断される

このまま なにもしなければ余命半年

膵臓とリンパに数ヶ所 転移が見られるが

がん細胞が 膵臓に癒着しているので手術はできない

抗癌剤治療をすれば すこしは進行を

止めることができるかもしれないが

がん細胞がなくなることはない

と 医師からの説明をうける


胃からの出血が見られるため

抗癌剤治療と同時進行で

月に2回ほど 400ほどの輸血も行うとのこと



平成24年10月

第一回 抗癌剤治療

点滴と飲み薬で 治療を開始する




平成24年11月

抗癌剤治療続く 食欲がなくなり

寝こむことが多くなる


病院 診察の日は

朝 5時半に起床

朝の支度 朝ごはん

父とあかりんを車に乗せ

朝 7:30に自宅を出て あかりんを保育園に入れて

そのまま 病院に向かい

血液検査のため 血液を採取 

血液検査の結果を待つため

待合室で2時間ほど待ってから やっと医師の診察 

診察が終わると 輸血をするため 採血 検査

また 1時間ほど待って 採血結果がよければ

輸血開始 3時間ほどで終了 帰宅

帰ると 夕方6時ごろになる


病院から帰ると

父も 付き添いの私も 

待ち時間の長さと 気疲れでグッタリ

私は そのあと あかりん保育園のお迎え 

食事の用意 片付け お風呂 洗濯 などなど

やることが盛りだくさん 

寝るのはいつも2時過ぎでした




平成24年12月

寒くなり 免疫力 抵抗力がなくなり

父 よく風邪をひくようになり

風邪をひく → 熱が出る → 肺炎になる → 夜中 救急外来受診 →

抗生物質を飲む → 良くなる → 風邪をひく → 熱が・・・・・・

このパターンを なんども繰り返す


肺炎にかかると 命に関わるので

風邪をひかないように務めるも

すぐに 体調を崩してしまう




平成25年1月

あいかわらず 抗癌剤治療が続き 体調も芳しくない

輸血は二週間に一度のペースで続き

風邪をこじらせ

熱が出たり 咳が止まらなかったり 肺炎になったりを繰り返し

病院を行ったり来たりの日々が続く





平成25年2月

父の 『 桃の木を切ってくれ 』 という言葉

父 自分の死期を考え 死ぬ準備をはじめる

身辺整理を始め 大切なことは ノートに書き綴り

一年の農作業日記も作り始める

残していくもの 引き継いでいくもの

伝えたいことを すこしづつ 私と私の姉に伝え始める



平成25年3月

本格的に 桃の木の伐採を始める

少しだけ残して すべて伐採

体調も良くなく 病院通い 

風邪 肺炎を繰り返す

体調が悪く 気分も優れず

相変わらず 家族に辛く当たる日々が続く



この頃から トイレが間に合わなくなったり

歩行がふらついたりするようになった

トイレ お風呂  その他の生活に

見守り または 介助が必要になる



この間 体調の悪い父は 

自分でやれていたこと やりたいことも出来なくなり 

抗癌剤の副作用 身体のしんどさから

不満やイライラが募り 精神的にも 体力的にも
 
辛くなり さらに 家族に対する あたり 暴言が多くなった





本人も辛いが 家族みんなも ストレスがたまり

仲の良かった家族の関係が ギクシャクしはじめ

険悪なムードになる



あかりんは 朝7時半~ 夜6時半まで

保育園にいることが多くなったので

寂しさで 情緒が不安定になり 母親である私に

必要以上にベッタリ

ワガママも言うようになり よく泣くようになった


家族で 出かけることもできなくなり

父から 目が離せない

理不尽なことをいわれて 

私も 涙を流すことが多くなった



つづく・・・













































こんばんは チョビです

みなさん お元気でしたか?


新しい年も もう10日が過ぎてしまい 

ご挨拶が すっかり遅くなりましたはぁ~



昨年に 引き続き ピグもブログもムリしないように

頑張っていきますので 

今年もどうぞ よろしく お願いしますねファイッ!


 
  
  
  


大切なものをみつけた 女の子


長老と初めて会った 牧場にもどってきました





でも長老の姿は見当たりません

 

仕方なく 女の子は 自分の家にもどることにしました


   
 

長老は 女の子のお家の庭で 

女の子の帰りを

まだかまだかと 待っていました

  
 


 そして 長老は 女の子にこう聞きました


  



すると 女の子は 目をキラキラ輝かせ

話をしはじめました



 






 
 

『 うん 私ね 大切な物を見つけることが出来たよ

でもね 残念だけど 長老に見せてはあげることはできないの 』

 
 
女の子は 続けました



最初 私は寂しくて 友達がほしくて ほしくて

どうしていいかわからず  

村で一番の物知りを探していました


そしたら  浜辺で見知らぬ男の子と出会って

幸運の猫ちゃんのことを聞きました 

 


『 幸運の猫ちゃんに 会うためには 大切な物を見せてくれと長老に

いわれて それが何かと 一生懸命さがしたのだけど

なかなか見つからなくて  でも そのおかげで

いろんな人と出会って いろんな経験をすることができました 』



  

 
 


一緒

  
  
 




いろとりどり

 





掘る

 


キラキラ光る

 


長い

 


たまねぎ

 
 



 
はじめは この言葉が 何を示しているのか

さっぱりわからなかったけど

本の言葉と 青い空を見上げていたら

わかったんです

 




 大切なものっていうのは 

形があるものばかりじゃないってことが




大切な友達たちもそうだけど

 
 
見ず知らずの人達が 私のために

いろいろと親切にしてくれて 力になってくれました


そんな 優しい気持ちや 温かい気持ちが

いまの私にとって 一番の大切なもの なんです



だから 残念だけど

長老に 大切なものは 見せてあげられないのです



すると 長老は

 

といいながら

なにか 玉のようなものを 出し始めました


 
 

すると どうでしょう

長老は 消えて かわりに男の子が立っていました




実は 長老は あのときの


男の子だったのです
 

 
 
  
 
  
 


幸運の猫ちゃんにも 会うことができ

男の子とも なかよくなることができました

もう ひとりじゃありません

寂しくなんてありません





ちょっとした ことから 

幸運の猫ちゃんに会うため  旅をした女の子

はじめは 一人ぼっちだったけれど

いまは たくさんの友達に出会うことが出来ました


とっても ステキな 嬉しい気持ち




いつまでも いつまでも

友達みんなと 楽しく暮らせますように