新年明けましておめでとうございます
昨年は、気にかけていただきまして
誠にありがとうございます
本年もよろしくお願い致します
\2022年のあなたの運勢/
人混みを避けるため、
大晦日の前日に初詣は済ませてきました
そこで引いた時には大吉が出たのですが……
今年もボチボチ、コロナ対策と様子とをみながら、
がんばっていきましょう
概念を解き放つ記事へようこそ(^^♪
早速、取っ払っていきますよ。
まず、【成功した人】というのは、
どういった人だと、あなたの場合は感じますか?
いろいろありますよね。
「幸せな人だ!」
「努力してきた人だ」
「お金持ちだ」
「変わった人だ」
「芸能人や有名人だけだろ」
などなど、キリがないほど出ると思います。
そこで、少し距離を置いて双方をみつめてみますと、
実は成功者も失敗者も共通していることがあるのです。
「苦労したんだね」
「努力したんだね」
「つらい思いしたんだね」
「たくさん考えたんだね」
「頑張ったんだね」
どれも、成功しようが失敗しようが、
みんな味わっていることだと思いませんか。
つまり、誰しも教訓を覚え、
何かしらの形で苦労や苦渋を味わってきているということです。
だけど、なぜか人々は、
成功者に対し【棚からぼた餅】が起こったのだろうと、
思考しやすい傾向があります。
それはなぜでしょう。
幾らかでも羨ましいという気持ちや
嫉妬が起こるからです。
自分と同じように、いいや、自分よりもひどい思いをしているかもしれないのに。
相手の輝いた部分だけに焦点をあてて、
その人の影の部分は無視してしまってます。
本当は、そちらの影の部分こそ、焦点をしっかりあてるところなのに。
輝いた部分にだけ目が向いてしまうのはなぜでしょうか?
思い出してみてください。
そこに何か、自分自身のトラウマが潜んでいることが多いです。
目を伏せたくなるかもしれませんが、
見つめなおして自分を認めるきっかけになればと思います。
今後も長く付き合う自分自身の精神衛生のためにも。
自分自身とは、どんなに頑張っても離れられませんし…
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自分なりの答えがみつかったら、
以下の私の考えもよかったらどうぞ。
成功者を見ていても自分が成功するわけでもない。
その光を浴びてあやかれるわけでもない。
あやかろうとするのは構わないだろうが、
その人から何か吸収できるのかといえば、
自分はその人ではないから、吸収はしづらい。
だから成長しがたくなる。
むしろ、敗北者に習うことのが情報としては多い。
なぜなら、その人自身もなぜ失敗したのか、
リサーチしていることもあるからだ。
もしくは、わからずに繰り返しているかもしれない。
成功した人も失敗を重ねて到達した場合には
リサーチしていることだろうが、
失敗に失敗を重ねている人のが、
反面教師という意味でも学べるところが多い。
そもそも、成功者も失敗者もいないと思いますけどね。
自分の中に自分をみつめるための比較という軸を作るから、
そういう人たちというレッテルが発生してしまうわけで。
それはそれで成長としては大切なことだと思いますが、
わざわざ他者に理解を求めたり示したりする必要性はないかな。
例え、その人自身は失敗者であったとしても、
その失敗がわかっている人に習った人は
同じ失敗はしないということで。
成功者の体験談を聞いてても、
その成功者がうまくいったというだけで、
自分自身がうまくいくとは限らない。
むしろ、うまくいくことのが稀。
そう頭に置いた上で考えてほしい。
失敗をばねによりよくしようと成長や学習しようという人であれば、学歴や学校関係なく、どんな人でも先生になるのだということ。
そこに早く気づけた人が様々な力を糧に、成功していくのではなかろうか。
大体、幸・不幸もピンキリでしょう?
私なんて、冬の朝、水道からお湯が出ずに冷たい水で手を洗っただけで、
「これは不幸な気持ちだ…」
と解釈してますよ。
そこから応用しても、成功者・失敗者だって、
その時よぎった、ほんのささいな気持ちと絡めて、
そういうものだと見てしまってるに過ぎない
と思いますけどね。
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2017年7月に開室して、
早3年は経ったわけですが、
私が【作文講師】という呼び名を自覚したのは、
まだつい最近です。
指導自体は自分の子どもを含め、
6年以上やってきているわけですが、
講師と自覚するよりは、
目の前の人が苦悩せずに取り組めることに邁進する
というほうが、自分の解釈としては合ってます。
それも踏まえての【作文講師】なのでしょうけど、
そもそも、その呼び名をつけてくれたのは、
税務署で開室手続きをしてくれた方でした。
「へぇ~こういうのがあるんですね~」
当時、「本当に開室していいのだろうか…」など、
不安に苛まれ自信なさげだった私に、
「どういうことをされるのですか?」
など、興味津々と色々聞いてくださって、
応えるうちに自覚を持っていったという具合でした。
恐らく、本当に興味があっておっしゃってくれたのだと思いますが、
そういう一言があるのとないのとでは、
目の前の人の関係性や思い出の置き場所が変わってきます。
きっかけとしても他者を労わる社交辞令というものは、とても大切だなと思います。
しかし、昨今のコロナ禍で人との接待が減り、
長くお互いが共有できないということは、
かなり最低限に短縮された会話ばかりが往来し、
ますます、さりげない社交辞令すらも簡略化されてきているように思われます。
非常にもったいない話です。
疑心暗鬼になるのも仕方ないことですし、
対策したい控えたいと思うのも自由です。
ですが、だからこそ、
せっかく出会った場合には、
お互いが「今日も頑張ってここにいるんだね!」と
納得し合えるような会話の運び、
いい意味での余裕さはもっていたほうが、
逆に鬱憤溜めずにいられるのではないかなと思うこの頃です。
相手に興味をもつ、
自分が相手に興味を示す。
まぁ、かと言って根掘り葉掘り聞くのは、
「お前はどこの刑事だ?調査官か?」という話ですが。
こういうひとつひとつが、
話しやすい環境を整えるのでしょう。
整えておいても、難しいときもありますので、尚のこと、
「相手は、どういう言葉を望んでいるのか」
というのをキャッチする能力が強めの方は、
否定やマイナスなものを受け取るだけでなく、
肯定やプラスになるものを拾い上げて、
率先して持ち上げてもいいのではないでしょうか。
ただ、それに対して、
おんぶにだっこで甘え切ってしまう人のほうが
自分で問題解決に踏み切れず、
延々同じ過ちを繰り返すというだけなので。
(そういう場合は、
「持ち上げない:持ち上げる」比率を
普段の6:4から8:2に調整する可能性はあります。)
最初はお世辞でも構いません。
それが繰り返されると、
他者だけでなく自分自身をも認めやすくなります。
結果的に、他者の概念が気にならなくなるとも言いますか。
ただ、自分はなかなか汲んでもらえないなぁという
寂しさは募りますけど。
私の【作文講師】になる自覚というものも、
こういうことなのだろうと考えています。
ご参考までに(*^^*)
あ!「作文講師になってみて」、
こんなことがあった…あんなことがあった…
ネタだと思って読み進めてた方には、
題名を反れてごめんなさい<m(__)m>
いい意味で裏切っていたら幸いです(・∀・)