★熊襲戦争
熊襲は、ヤマト勢力にとっては、恐るべき強敵。
「衆類甚だ多く、これを熊襲の八十梟帥(やそたける)といった」。
これは、熊襲が、多数の中小豪族による連合政権だったことをいう。
軍事的には、
「その鋒(きつさき)当るべからず」
とあり、通常の合戦では簡単に勝てない相手だった。
景行紀では、
景行天皇が、熊襲梟帥の娘を寝返らせて、熊襲梟帥を殺害している。
ヤマトタケルも、童女に化けて、川上梟帥に酒を飲ませて、その隙に殺害している。
女装して相手を殺すとは、卑怯?それほど熊襲は、強敵だった。

ヤマトタケルの子、仲哀天皇は、筑紫の橿日(福岡県東区香椎)にいた時、
熊襲を討つための軍議を開いている。
ある神が神宮皇后にとりついて、熊襲との戦争に反対し、新羅を討つことを主張した。
それでも、仲哀は熊襲を撃ったが、
「勝(かち)えずして引き上げた」といい、
「天皇自ら熊襲を伐ち、賊の矢にあたって崩じた」
とする異伝をも書いている。(『紀』)
ここでも、熊襲には勝てなかった。
仲哀天皇は、橿日宮で亡くなった。
『延喜式』の神祇の項の神名帳(じんみょうちょう)には、香椎宮はない。
『延喜式』の式部の項に、橿日廟がある。
 橿日廟には、大宰府の管掌する守戸もあてられていた。
 守戸は、陵戸とともに陵墓の墓守。
このことから、香椎宮には、本来ここを仲哀天皇の墓という伝承があって、
香椎廟という言葉が使われたのだろう。