★串間の玉璧
串間(宮崎県)から、漢代の玉璧が出土している。
璧は、中国では、殷周の時代から、身分のしるしとして使われた。
漢代には、墓の副葬品としても、銅鏡よりも貴重な威信財だった。

串間の玉璧は、文政元年(1818) 串間の「王の山」 と呼ばれる地にある石棺から、佐吉という農民が
発掘した。
この玉璧は、直径33cm、厚さ 6mm、重さ1600g 。前2世紀ごろのもの。

1968年、中国の河北省満城県で発掘された中山王劉勝と、その妻の墓である満城漢墓から出土した玉璧と
似ている。
劉勝の棺には、玉璧25個、妻の棺には、玉璧18個あった。
劉勝は、楽浪郡を設置した漢の武帝の庶兄。

日本では、弥生時代の璧は、
福岡県前原市(まえばる)の三雲南小路1号甕棺(伊都国王の墓)、
福岡県春日市(かすが)の須久岡本の支石墓甕棺(奴国王の墓)から出土したガラス製の璧が知られているにすぎない。
璧は、国王クラスの持ち物。
ガラス製璧は、玉璧を模作したか。(硬玉ヒスイの勾玉をガラスで模作したように)
串間の王の山の玉璧は、それらガラス製より、はるかに優れ、前漢の王族のもっていたものに匹敵する。
 北部九州を介さず、直接に南部九州と中国江南との交渉でもたらされたものだろう。

宮崎に多い地下式横穴墓は、中国の華北に多い土洞墓(どどうぼ)と構造が似ている。
満城漢墓も、一種の横穴墓。

串間の墓にいつ玉璧が副葬品として埋納されたか・・・
『魏志』東夷伝夫余の条に、遼東の公孫氏が滅亡したときの記録に、
「夫余王の庫(くら)に玉璧、珪(けい)、瓚(さん)、など数代へたものがあり、代々宝として伝えて いる。老人たちは王の祖先が賜ったものだといっている」
串間の王に、代々伝えられていた舶来の珍宝(璧)が埋納されたのは・・・滅亡のときかな?~(。・.・)~