小さな白い亀が献上された。
天子の徳、孝養を称賛する瑞兆とされ、文武百官への禄が下賜され、亀の出た地への免税が行なわれた。
元正天皇は、首(文武の子)に譲位した。瑞兆に因んで年号も神亀と改められた。

神亀元年(724) 2月 4日、聖武天皇即位。24才。
即位に伴う叙位任官で、長屋王は、従二位右大臣から、正二位左大臣に任じられた。
大納言多治比池守には、封戸を賜い、
中納言巨勢邑治(祖父)・中納言大伴旅人・中納言藤原武智麻呂・参議藤原房前は、従三位から正三位にと封戸を賜う。
その後、三品(ほん)吉備皇女に二品を贈った。
元正の妹であり、長屋王の正妻である吉備に最大の敬意を払ったのだ。
長屋王のもう一人の妻、藤原長娥子(ながこ・不比等の娘)も従四位下から従三位へと昇進した。
こうして、まんべんなく恩恵をふりまいておいて、聖武天皇はなにげない形で、勅をすべりこませる。
「正一位藤原夫人(ぶにん)ヲ尊シデ大夫人(だいぶにん)ト称ス」
藤原夫人は、聖武天皇の生母、宮子のこと。
後宮職員令(ごくうしきいんりょう)に、天皇のきさきについての規定がある。
1、后ーーーーー→妃の中の一人が立后して、皇后となる。
2、妃(ひ)ーーー→四品以上の皇女。
3、夫人(ぶにん)→三位以上の諸王・諸臣の家の女性。
4、嬪(ひん)-ー→五位以上の諸王・諸臣の家の女性。
これらのきさきの産んだ皇子が即位したときは、天皇の母として、それぞれ皇太后・皇太妃・皇太夫人と呼ばれる。
3月下旬になって、長屋王は、「皇太夫人」にするよう直言した。
すると、「皇太夫人と記し、となえるときは「オオミオヤ」とせよ。さきの勅を回収し・・・」た。
即位早々の聖武天皇は、1カ月余りで勅を回収するという前代未聞の屈辱を味わった。
にもかかわらず、長屋王をそしる声が起きなかったのは、長屋王の背後に元正太上天皇がいたから。
オオモオヤには、これまで「皇祖母」をあてている。
藤原一族は、皇太夫人を避け、大夫人と呼ばせることで、宮子を一歩皇族に近づけた。
いづれ皇祖母へのすりかえを行なう魂胆かも知れない。
宮子夫人称号問題で、長屋王側に立っていた大伴旅人は、九州に赴任させられた。

事件が落着したとき、元正太上天皇は、聖武天皇と長屋王の和解のために「作宝楼にお招きするように」
長屋王・吉備に告げた。
長屋王は、和歌・漢詩にすぐれ、たしなみのある官人たちを、しばしば招いて、詩宴を開いている。
この佐保の邸を「作宝楼」(さほろう)と呼ぶ。
長屋王は、元正太上天皇・聖武天皇の来臨を賀して、平城京左京三条二坊の長屋王邸とは別に、ことさらに野趣に満ちた殿舎を新営した。
元正太上天皇の歌、
♪はだすすき 尾花逆葺き 黒木もち 造れる室は 万代までに
 (尾花を逆さに葺き 黒木で造ったこの室は 万代までも栄えることだろうね)
*茅葺きは、一般に、茅の本のほうが下になるように葺くが、仮盧は逆に本が上になるように葺いた。
*黒木は、材木の皮も剥がず削りもしないままの状態。
聖武天皇の歌、
♪あをによし 奈良の山なる 黒きもち 造れる室は 座(ま)せど飽かぬかも
 (奈良山にあった 黒木で 造ったこの室は いつまでいても飽きないですね)
作宝楼での宴は、その後しばらく政界の和平をもたらした。

724年 3月、陸奥国府から、蝦夷が反乱を起こして佐伯児屋麻呂を殺したとの報告。
翌月、天皇は、式部卿藤原宇合を持節大将軍に任命。
坂東8国の軍3万人に軍事訓練を実施した。

聖武天皇の時代になると、五位以上の官人や庶民でも、富裕の者の家は、瓦葺となり、赤や白の色で塗装するようになった。
都の東方には、興福寺・東大寺・春日神社などが造営されたので、市街は東の方に向かって発展した。
左京の京外に、2・3・4・5条を延長、12坊の地を開いて、左京職として治めさせた。
平安遷都後は、京内の地は荒廃したが、この京外の地は、衰えることなく、現在の奈良市は京外の地の東半分になる。