養老 3年正月2 日、元正天皇が、大極殿において、諸臣の拝賀をうけたとき、
不比等の長男武智麻呂は、多治比県守とともに、皇太子首の左右に近侍し続けた。

武智麻呂は、少年時代、穂積親王邸での宴で、社交界デビュー。
「将来は大臣といった器量ですな。」と評を受ける。(父不比等に対する主人側のご挨拶)
22才で内舎人。刑部省の中判事、大学寮の次官、長官、図書寮(ずしょ)の長官、近江国守の後、
式部省次官に栄転する。

この時、首はすでに19才。
武智麻呂たちは、首について、「年歯幼稚ニシテ未ダ深宮ヲ離レズ」と語った元明の詔勅が意義を失ったことを示したかった。
首は、すでに2女児のパパだった。
県犬養広刀自との間に井上(いのえ)、安宿媛(不比等と橘三千代との娘)との間に阿部が生まれていた。

養老 4年(720)正月、大宰府から、美しい白鳩が献上された。
瑞兆で幕を開けたはずの養老 4年だが・・・・・
大納言阿部宿奈麻呂が急死した。さきに中納言粟田真人を失い、廟堂のバランスがくずれはじめた。
しかも、大隈の隼人が反乱し、大隈守が殺害されるという事件が起こった。
隼人の反乱の鎮定には、大伴旅人♪が、征隼人持節大将軍として向かった。

養老 4年(720)秋 8月 3日、右大臣藤原不比等が、62才、左京の私邸に没。
元正天皇は、廃廟。政務をみず内裏の正殿に閉じこもって、冥福を祈った。
隼人討伐中の旅人を召還し、不比等の死後80日に、大納言長屋王とともに、故右大臣家に派遣されて、
太政大臣正一位を贈るという勅命を、霊前に伝えた。
これは、大宝律令施行、初の太政大臣になる。

不比等の死のころ、藤原4兄弟は、
1、長男の武智麻呂、41才。
  養老 4年(720)、式部省長官、兼、東宮傳(首の教育係)
  母は蘇我。
  正妻の貞媛(さだひめ)との間に、豊成17才、仲麻呂15才ら。
2、次男の房前、40才。
  23才で、律令施行後、初の巡察使に選ばれ、東海道諸国の行政視察を分担した。
  従五位下、従五位上と武智麻呂と同時に栄進。参議には、兄に先じてなった。
  母は武智麻呂と同じ。
  正妻は、義母三千代の先夫との間の娘、牟漏(むろ)女王。
  子は、永手 7才。
3、三男の宇合(うまかい)、27才。
   4年前、遣唐副使に任ぜられ、一昨年冬に帰国。
  遣唐使拝命者は、出発前、帰国後に位階があがるから、若くして従五位上と2人の兄に続いていた。
  官職では、帰国後まもなく常陸国守。
  後年は、蝦夷征討将軍。西海道節度使(さいかいどうせつどし・隼人と新羅に備える)。
4、四男の麻呂、26才。
  美濃国次官。従五位下。
  不比等が、天武天皇夫人となっていた異母妹、五百重と密通して生んだ子。