霊亀元年(715)秋9月、即位の式を終えて、今、氷高は大極殿の高御座を静かに降りてゆく。
元正天皇の誕生です。36才。
瑞兆をもつ亀が献上され、元号も霊亀と改められた。
即位直後の詔で、水田耕作に不向きなところは畑作の栗の栽培を奨励する。
そして、基本的税である稲を栗に切り替えることも許した。

焼失した大官大寺は、新しく、左京6条4坊へ、その名も大安寺と改められた。
飛鳥の法興寺(飛鳥寺)も寺籍のみを移し、名も元興寺と改められた。
薬師寺は、右京6条2坊へ、移転。
黄金色の巨像は、元明女帝たちが長屋原で1泊した行程を7日もかかって慎重に運ばれた。

養老元年(717)春、老いたる左大臣石川麻呂が、78才で世を去った。
すでにその直前、中納言巨勢麻呂も死んでいる。
廟堂に残るのは、右大臣藤原不比等と中納言粟田真人と阿部宿奈麻呂のみ。大納言は空席。
右大臣不比等が筆頭となり、次男房前が、秋37才で参議入り。
大和朝廷以来、1家族から1人づつという慣習を破った。

元正天皇は、難波に行幸した。
難波は、孝徳朝の皇居の地であり、皇極女帝ゆかりの地である。
斉明時代の皇居は飛鳥だったが、半島出兵のために筑紫に向けて旅立つときも、軍備編成の基地として、難波が利用された。
白村江の敗戦以来、日本の外交路線はときに唐寄り、ときに新羅寄り荷と揺れ動きながら、それが国内の政治に大きな影響を及ぼしてきた。
文武初年、唐との国交が回復し、遣唐使の派遣とともに律令はじめ唐風の諸制度・文化が潮のように押しよせて現在に到っている。
唐と新羅の対立が、解消されている以上、日本の外交路線が変更されるのは自然のなりゆきである。
唐寄りの路線は、不比等。
力の均衡上、元正天皇は、新羅外交に力を入れた。
難波行幸は、遣新羅使派遣の準備だった。

元正天皇は、美濃に行幸した。
多度山の麓に不思議な霊泉があり、そこで浴(ゆあみ)すればたちまち肌がなめらかになり、傷も癒えるのだという。
東海道・東山道・北陸道の国司たちが百姓を率いてやってきて、歌や舞を披露した。
帰京後、薬効いちじるしく、白髪をも黒髪に変えるというのに因んで、年号を養老と改めた。
翌年、ふたたび霊泉を訪れ、ついで尾張・伊賀・伊勢を巡り、各地の国司以下を昇叙させ、慰労の絹や布を下賜した。

天平 6年(734)12月に、新羅の使者金相貞が来朝したが、朝廷はすぐの上京をゆるさず、そのまましばらく大宰府に逗留させ、翌 7年 2月になって上京させている。
使者は、「朝貢」ではなく対等外交を主張した。しかし、朝廷はこれを受け付けず追い返した。
そのすみやかな修復を要請して、
735年、新羅から天然痘が、北九州に侵入し、大宰府管内諸国で、多数の死者を出したが、
朝廷は、天平 8年( 736) 2月に遣新羅使を任命し、 6月に出発している。
『万葉集』に遣新羅使たちの歌がある。
「新羅国、常礼を失して使ひの旨を受けず」というのが、遣新羅使のうけた新羅王朝の処遇だった。
徹底して冷遇されたらしい。
天平9年(737)正月27日、平城入りし、遣新羅使の奏上した内容に激昂して、諸司が新羅討つべしの上表を提出した。
今回も対等を求める新羅の姿勢に変化はなく、この時を最後に、両国間の正式外交は、事実上断絶した。